少女エスの想いは朝靄に溶けて
約束の朝、教室前。
倖斗は隆惺の言いつけ通り、理恵子について女子部の各教室を回っていた。
(お嬢様、不服そうだなあ)
噂の後輩少女と共に先をゆく理恵子の背を眺めながら、倖斗はそんなことを思う。
まだ朝靄の立ち込めているような時間だ。倖斗は朝に強い方なので別になんとも思わないが、理恵子はいささか機嫌が悪い。いかに健康体といえど普段起きない時間に起きたという時点で気分が落ちているのだろう。
(あの子全然気づかないで、すごく熱心に話しかけてるな。逆効果なのに)
後輩少女が理恵子に何やら話しかけている。懸命を通り越して必死というの相応しいにおいと表情だ。
その度に理恵子は完璧な微笑みで対応しているが、そもそも皆無に等しかった彼女への興味がどんどん目減りしていっているようだ。
(本当、なんでお嬢様はこの方を手伝おうとなんて思ったんだろう?)
理恵子の後輩は豊葦院ならいくらでもいる、育ちが良さそうという印象以外特に持てないほど普通の少女だ。
変わったものや美しいものを好む理恵子が気にいる要素は、今のところ見当たらない。
骸炭の入ったバケツを良いせと持ち直す。
前をゆく令嬢二人はほぼ手ぶらだ。
作業用の道具を少しだけ持っているが重いものは倖斗が持っている。
従者がついていながら主人に重いものは持たせられないので当然であるし、薄っぺらな体をしていて体の使い方を理解している倖斗にとってはこの程度は重たいうちに入らない。
(それにしても、立派な作りだな。護衛もしやすそう。警備も厳重だし……いったいどうやって下手人は入り込んだのだろう)
女子部の校舎は華麗ながら重厚感のある作りであり、華族の令嬢が集うに相応しい護衛官たちがそこかしこに待機できるスペースがある。そうでなくとも警備員は常に巡回と定置での監視を行っている所を見ると、侵入するのは困難に見える。
(引き込んだものがいる? あるいは、そのものこそが引き込んだ張本人とか?)
つらつらと考えようとした時、ふと赤くなった後輩少女の指先が見えた。
豊葦院の校舎は、下手な家とは比べ物にならないほどしっかりとした断熱性を保持している。そのため廊下を歩く分には朝の冷え込みを味わうことない。
だが骸炭置き場は外の一角にあった。
一度外気に冷やされた手指の強張りはなかなか取れることはないのだろう。常に不死鳥の炎が体内を巡っている理恵子はともかく、後輩少女はそうはいかない。
(疑わしきは罰せずというしな)
倖斗は懐から懐炉を取り出し、そっと前をゆく二人に近寄った。理恵子に了承をとるように目配せをすれば、にこりとした笑みが返ってきた。
「失礼します。もしよろしければ、懐炉をお使いになりますか?」
「いいえ、結構」
ぴしゃりとした声だった。
真っ赤になった労働慣れしていないのだろうほっそりとした指を何度も何度も擦りながら、差し出した懐炉からわざとらしく少女が顔を背ける。
(このにおいは、敵愾心と……どこかで嗅いだことはあるような気がするんだけど、なんだっけ?)
顔に出さないように注意しながらそんなことを思いつつ、主そっくりの微笑みを浮かべて倖斗は元の位置へと戻る。
笑みを浮かべた瞬間、また敵愾心のトゲトゲしたにおい。
(この方、もしかしてお嬢様のことが……)
理恵子に並々ならぬ感情を持っているのではないだろうか。そんなことを思い、改めて失礼にならないように少女を観察する。
やはり少女は、この豊葦院ならばいくらでもいる普通の少女に見えた。
特筆すべき身体的特徴も特にない、全てが平均値といった様子。
強いていえば、合流した時から手にずっと花が握られているのが最も特徴的といった所だろうか。
肉厚の花弁をふっくらと開いた赤い花。どうやら椿ではないようだが、他に似ている花も思いつかない。舶来の花だろうか。
(どこまで持っていくんだろう、あの花)
これまで回ってきた教室のどれに置くわけでもなく、補充をする時には教卓に置き、教室を出る時には忘れず回収するのを繰り返している様はどこか宗教じみている。
同じことを思っていたのだろう。理恵子が不意に少女に尋ねた。
「そろそろ最後の教室だけれど、その花はどうするの?」
「次の教室で活けようと思いますの。ご心配いただき痛み入りますわ、お姉様」
「あら? 最後は空き教室のはずよね? 骸炭を入れる必要があるのかしら」
理恵子が目を瞬かせた。興味を持ってくれたのが嬉しいとでもいうように、後輩少女がニコニコと笑う。
「今日は先生たちが会議をあの教室でなさるそうなの、だからお花もその賑やかしですの」
「あら、そうなの。素敵だわ」
見え見えの世辞を理恵子が言えば、幼さの残る頬がいっそう薔薇色に色づくのが見えた。
(お姉様……? ああ、そういえば最近女子部の方でエスだかなんだかっていうのが流行ってるんだっけ? お嬢様の方はそんな気はないみたいだから、断る条件が今日のこの同行なのかな……あ、やっぱり)
理恵子の微笑みは、よく見ればひどく冷めた目をしている。
なるほど、あの誤魔化しのにおいはこの件だったのか。と倖斗は納得した。
これは確かに、言いにくいだろう。
何せ理恵子だけではなくこの少女の秘密でもあるのだから。
理恵子はおそらくこの少女に告白され、そして袖にしたのだ。
それでも最後の思い出にと食い下がられ、未練を断ち切ることを約束に今日の係への同行したと考えれば辻褄が会う。
何せ、理恵子には愛しい婚約者がいる。たとえ遊びだとしてもかの人を裏切るくらいならば死んだ方がマシだというのが理恵子の性分だ。
仮に他の枠に収まりたいと言われたとしても、倖斗の主人はすでに十分に愛しいものはその両手に抱えておられるのだからやはり断るしかなかっただろう。
(お嬢様、変なところで律儀なのが出たんだろうな)
そんなことを思いたどり着いた教室の扉を先行して倖斗が開け、中を確認する。
少し埃っぽく、冬にしては暖かいようにも感じる空気が頬を撫でた。
定期的に業者が清掃に入っているはずだが、人が普段立ち入らないせいで空気でも凝っているのだろうか。
ぐるりと入り口から見回せばがらんとした教室内には綺麗さっぱり誰もいない。あるのは古ぼけた――噂の古ぼけた逹磨ストーブばかりだ。
報告するために理恵子を振り返れば、癖毛を遠慮なく撫でられる。
拾われた時から何度も繰り返された褒めの仕草だ。人前でされるのは少し気恥ずかしいものの、主人が倖斗の髪の質感を好んでいるようなので素直に頭を差し出す。
もふもふポフポフと撫でられれば、少し理恵子の苛立っていたにおいが減った。どうやら心を和ませることができたらしい。
「いい子ね、わたくしたちの愛らしい子犬。可愛いユキ。実習を始めるからそれをよこして、ここで待機していなさい」
「はい。蟻一匹通しません」
恭しく礼をして、バケツを本来の当番である少女に手渡す。
二人が入室するのを見送り、倖斗は早朝特有のシンと凪いだ空気を吸い込んだ。
後輩少女が持っていた花の残り香が、わずかに香っていた。
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