師と覚悟
「全くもう。どうして手加減してやらないんだい家令のくせに。この子は女の子なんだよ!」
そんな言葉と共にぺちんっと音を立てて倖斗の脇腹に薬が貼られた。つんとする薬草のにおいと丑前田の指先に染みついた漢方のにお鼻をムズムズとさせるのを我慢しながら、道場の板張りの上で仁王立ちして恰幅の良い体を揺らし虎堂にくってかかっている彼女の袖を引く。
「う、丑前田さん! これは僕が……ッ!」
虎堂には倖斗から稽古を申し込んだし、どこかに嫁ぐ予定もない身にいくら怪我をしたところで構わない。何より、この怪我は違うのだ。反駁しようとした言葉はずきりと走った痛みのせいで発せず、反射的に脇腹を庇った姿にますます丑前田が息巻く。
「ほれ見たことですか。倖斗さんがこの格好をしているのは獅子吼の連中に見つからないためだってのはアタシだってわかっていますからね、男装についてはもう言いません。そういうつもりでした。でもこーんなに打ち身を拵えるってんなら話は別ですよ別。身分をごまかす手段なんていくらだってあるんですから、アタシ預かりにして今からだって侍女として育てたっていいんですからね」
「い、いえそれは……流石に」
それは勘弁してほしい。
心配させてしまうだろうと誰にも吐露したことはないが、倖斗にとってこの男装は出生を隠すための単なる変装という以上に、心理的な盾としての側面が大きいのだ。
髪を切り、特殊なまじないのかかった眼鏡で特徴的な目の色を隠し、性別すら誤魔化して別人になることで生家である獅子吼家での記憶を遠くに置くことができている。いずれは克服しなければならないことにしても、今はまだ鏡を前に鬼子と呼ばれ人でも獣でもないと存在を否定され、肉体も魂もボロボロになるまで虐げられた自分ではないのだと言い聞かせる日課をやめられそうにない。
双子主人に拾われてから何年も経っているというのに、情けないとは思うのだが。
口ごもりながら目を泳がせるばかりの倖斗に、丑前田がふんすと鼻息荒くした。
「じゃあ怪我をするのは控えることです。丑前田家の薬はよく効きますけどね、だからって怪我をするのを戸惑わないことがいいことなんて思っちゃいけませんよ。……アンタにも言ってるんだよ虎堂!」
優しげな目元をますます吊り上げた丑前田に吠えられても動揺することなく、倖斗の隣にいた虎堂が手ぬぐいから顔を上げた。
涼しげな面差しの老紳士はかちゃりと鼈甲の眼鏡をかけ直すと、ちらりと倖斗の方に視線を送った。
「倖斗くん。きみ、自主鍛錬で無茶をしていますね」
冬の夜の澄んだ水面にも似たその声に、倖斗の背筋がきゅっと伸びる。長年藤宮に仕え、当主たちの留守を一手に任されるこの家令に嘘は通じない。
「そうなのかい」
丑前田の怪訝そうな声に虎堂が頷く。
「ええ。そんなところに打ち身ができるような鍛錬を教えた覚えはありませんから。もちろん、私の課したものだけをしろ、とはいいません。自学自習大いに結構。向上心は宝です」
先ほどまでの組み手でわずかに緩んだ道着の襟元を整えながら老紳士が冴え冴えとした眼差しを厳しく細めた。その鋭さに、思わず息を吸う。
「ですが、きみのそれは努力になっていませんよ」
「そんな、ことは」
「では、目指す姿はなんですか。鍛錬の到達点は決めていますか」
あくまで淡々と、虎堂が問う。いつも通りの虎堂だ。強く厳しく、正しい彼だ。だが、頼もしいはずのその姿勢が今はやけに倖斗の胸を刺す。
それまで気にもならなかった冬の冷気が足元から骨を軋ませるように満ちていく緊張を振り払いたくて、気づけば手が板張りを強く叩いていた。
瞼の裏に、路地で見た【くだん】の紋様がちらついている。
「鍛錬に終わりなんて必要ないでしょうっ! 強くて損することなんて、なにもないんだから!」
癇癪を起こした幼童のように甲高い声が喉からこぼれるのを止められなかった。花畑で何もできずに二人の背中を見つめるしかなかったあの瞬間の虚しさに心臓を握られているみたいだ。
「それは違います。強くなるためにこそ、区切りが必要なのです」
ぴしゃりとした虎堂の声が叫びを切り捨てる。
それは温もりを与えることはないが、崩れた心に一本の芯を通すような頼もしさがあって、不思議と冷たくは感じない。
聞きなさい、と改めて倖斗に向き直った虎堂から、至極薄いサボンの香りと同時に強い決意のにおいがした。いまだに嗅ぎ慣れないけれど時々双子を叱り飛ばすときに彼からする、この家に来てからよく嗅ぐようになったこれはきっと、親心という慈雨に似た無償の愛のにおいだ。
「我武者羅に走るだけでは自分が今どこにいるのか、どうやって走り、何がよくて何が悪かったかを省みることなどできません。振り返ってはじめてその走った経験は効率的な血肉になり、次に走り出す力となるのです」
老年に見合わないほどしゃっきりと伸びていた背筋を丸めて、小柄な倖斗の顔を虎堂が覗き込む。涼やかな目元に小さな笑い皺ができているのが見えて、なんだかふっと肩の力が抜けた。
「ではもう一度尋ねましょう。きみの目指す姿は、なんですか?」
重ねてのその問いに、もう胸が痛むことはなかった。
「僕は……僕は、お嬢様と坊っちゃんを真に支えられる従者になりたい」
花畑で感じたのは虚しさだけではなかったはずだと、無力感に塗りつぶされていたあの瞬間の感情を掻き分け、掬い上げる。
言葉を探しながらの辿々しい言葉を虎堂が笑うことはない。
「未熟ではありますが、今のきみもお二人の支えになっていますよ」
「それは心和む愛玩動物として、でしょう」
「不満ですか、倖斗くん」
ゆるく、首を横に振った。
その点に不満を覚えたことはない。それは確信を持って即答できる。
「いいえ。お二人が望むなら、愛玩動物だってなんだって構いません。でも……ガヴでもできる寄り添うということすらできない僕でいるのは、嫌なんです」
「坊ちゃまも、お嬢様も、望んでおられないかもしれなくともですか」
「はい」
我欲だ。あの華やかなりし双子主人に目一杯の愛を貰って大切にされていることを誉れとして満足すればいいものを、我儘な自分が恩を返し足りないとそれを許さない。
「僕は、お二人がつらいときに遠くから眺めているだけでいたくない。お二人が誰にも手を伸ばせないときに不遜でも杖になって差し上げられるものに、せめてもぬくもりを分けられるものに、なりたいです」
気恥ずかしくなって視線を泳がせれば、肩に丑前田のふくふくとした手がぽんっと触れた。励ますようなその体温に背を押され、改めて虎堂の目を見据える。
こちらを見る老紳士の目は、どこか笑っているように見えた。
「では、覚悟をなさい」
「覚悟ならば」
「できていますか。愛されず報われなくとも忠を尽くし続けることに虚しさを覚えない、その覚悟が」
涼しげな目元の皺がぐっと深く見える。虎堂の表情が変わったわけではない。倖斗の心にたった漣がそう見せているのだろう。
それだけ老年の師が紡ぐ言葉には、藤宮という主家に仕えてきた年月に裏打ちされた重みがあった。
「いいですか、倖斗くん。愛玩動物でなくなるというのはそういうことです。藤宮の方々は幸いにして情に厚い方ばかりですが、それを受け取りながらもけしてそれ以上を欲張ってはなりません。私たちは主を愛し慈しみお支えすることこそが喜び。返礼はあくまて副次的なものとして、目的の一つには一片も入れてはなりません」
忠義深き虎堂。そう評されるまでに過ごした日々は決して甘くはないのだと若輩者に理解させるようなその言葉を前に、自ずと背筋が伸びた。
先ほどまでの無意味な力みではない、意味ある力をぐっと腹の底にこめて返事をする。
「はいっ!」
簡単なことではない。倖斗にとって双子主人はどちらも敬愛を手向ける相手ではあるが、人である以上手向けたものに見合うものを求めたくなる心理はどこにだって転がっている。
自然な心の働きを飼い慣らす鋼の理性。それが従者に求められる覚悟なのだ。
(僕に、できるだろうか)
そんな一抹の不安が顔に出ていたのだろう。虎堂の年齢相応の皺が刻まれた手が、わしゃわしゃと倖斗の癖毛を撫でた。普段の丁寧な仕草からは少し逸脱したそれが、なんだかくすぐったかった。
「今すぐに、とはいいません。急いては澱となってきみを蝕み、やがて主君を傷つけることになりますから。ゆっくり成長して、あの方達の未来を支えて差し上げなさい。……さて、この後はどうしますか?」
壁際に置かれた振り子時計を見れば、二十一時を回っている。じきに竈門の火が落とされる時刻だ。主人よりも遅くに寝て早くに起きる従者と言っても、あまりに遅くまで起きていることは推奨されていない。家政を取り仕切る丑前田がそわそわとしているのはそのせいだろう。
だが、今はこの灯ったばかりの覚悟の種を少しでも育ててやりたかった。
パンッと自身の頬を張り、もう一度腹の底から声を出す。
「すみません! もう一本、よろしくお願いします!」
「ええ、もちろん」
揚々と再び道場の真ん中へと歩み出る師弟の背中に、大きなため息と共に丑前田が声をかける。
「握り飯を用意しておきますからね! ほどほどにするんですよ!」
「はい! ありがとうございます!」
何かが劇的に変わったわけではない。
まだまだ倖斗は未熟で、これからも迷うだろう。
だが、先ほどまで見ていた世界よりも随分と、その視界は明るいものになっていた。
次回投稿は19時頃です。




