倖斗の小さな願い事
背後で深々としたため息と共に、へっへっへと規則的な息が聞こえた。隆惺とガウが追いついたのだろう。そっと差し出された円のハンカチを受け取ってなんとか立ち上がれば、交代するように隆惺が墨色の外套を揺らして理恵子を見下ろした。
「理恵、状況は把握できているか」
「状況……あら?」
首を傾げ、周囲をきょろきょろと見回す理恵子の目には困惑が滲んでいる。
「ここどこかしら? また死んだの?」
「炎は出たな、今」
「まあ。じゃあ死んだのね。血があまり出ない死に方だったようなのが幸いね。でもこれ、泥? 丑前田に言えば取れるかしら……」
柳眉がむむっと顰められた。袖や裾を眺めて思案する横顔は呑気なもので、先ほどまで死んでいたとはまるで思えない。きゅうんと細く声を上げるガウの顎に手を滑らせる理恵子に、がっくりと円が肩を落とす。
「本当に理恵子さまは、動じないですよねぇ」
その言葉に、理恵子は至極不思議そうな顔をした。
「あら、今更じゃないの」
「直前の記憶まで飛んだか? お前が行方不明扱いになって胃を痛めたんだよ。労ってやれ」
「そう。心配かけたわねお前達。……隆惺も、別にあなたのせいじゃないでしょう。そんな顔しないで頂戴」
隆惺を見上げ、理恵子が微笑む。墨染の外套の襟に隠れて、倖斗の方からは彼の表情を窺い知ることはできなかった。
「何があった」
一瞬の沈黙を経て、隆惺が苦悩をいくつも踏み潰したような声で呟くように言った。
ええっと、と一拍置いてから理恵子が口を開く。
「不良に追いかけられて、撒いて、路地裏に隠れて円を待っていて……そのあとは……あら? なんだったかしら。何かがぶつかったのは覚えているのだけれど、そこまでね。ついに意識がないまま歩くようになったのかしら」
頬に手を当て大した感情も込めず、理恵子が袖を探った。
「あら、手巾がないわ。泥を落としたいのに。隆惺、貸して頂戴な」
「お前は本当に、緊張感がないな」
「ごめんなさいね。生まれつきよ」
嘯く理恵子の額をペチンと指で弾いたかと思うと、すとんと地面に隆惺が座り込んだ。
「……よかった」
それは、そよ風にも溶けてしまいそうなほど、小さな声だった。
どこかすわりの悪そうな顔をした理恵子が何も言わず、片割れの震える肩を温めるようにぴたりとくっつく。
無言ながらに謝っているのだろうなと思わせる、ひどく不器用な仕草だった。
円がサッと身を翻し、馬車を呼びに走る。去り際に向けられた視線に頷いて、倖斗は足元に声をかけた。
「ガウ、来て。しばらく二人にして差し上げよう」
どこか所在なさげに伏せていたドーベルマンを伴い、倖斗は花畑から出る。護衛として対応可能な距離は保ってはいるものの、双子がこちらを気にすることはないように。
前から薄々察してはいた。
彼らは庇護すべきものが隣にいると、涙を自分に許すことができないのだと。
振り返って見えた花畑の中で体温を分かち合うように寄り添う背中は、いつになくか弱く見えた。
(……守らなければ)
涙で焼けた目元を抑えれば、ヒリヒリとした痛みがある。
倖斗にとって、彼らは恩人だ。人どころか生物とも扱われていなかったこの身を見つけ出し、名前を与え、お前は強いのだと誇ってくれた。
その恩義を未だ倖斗は返せていない。
(強くならなくては……従者として、命を全て果たせるように)
体術は上達した。護衛としては十分だとお墨付きをもらった。
だが、足りない。
足りていないから、二人は自分の前では泣けないのだ。
(僕では駄目だった)
寄り添う双子の背中との間に、分厚い壁がある。
例えばここにいたのが虎堂や丑前田であれば、同じ従者であっても双子はもっと早くに泣けたはずだ。昔から知っている間柄だからではない。彼らが従者として確固たる強さを持っているからだ。主人が主人らしからぬ言動を見せたところで上司たちなら動揺などしない。ただ影に日向に寄り添い、彼らがまた重い荷物を持って歩き出すための支えとして、役割を果たし続けることができる。
倖斗ではそうはいかない。
倖斗はきっと、主人にとってガウたちと同じようなものなのだ。
正しく愛してくれているけれど、それは彼らの愛が倖斗達を生かすと知っていて注いでくれている。主人役としての舞台を降りず、右も左もわからない倖斗の太陽でいてくれている。
とてもありがたいことだ。得難いことだ。
とても恥ずかしいことだ。悔しいことだ。
(僕は、浮かれていた。従者になれたと思い込んでいた。本当は、ごっこ遊びをしていただけなのに)
彼らはきっと否定するだろう。
その細い双肩にはもうすでにこの上ないほどの荷物があるというのに、その重さを逆手に取って、新しく何かを載せたところで大して変わりがないと笑い飛ばすのだ。
本来拾わなくてもよかった役立たずの塵芥まで拾い上げて、上等なものを見つけたと宝物のように舞台に上げてくれた時と同じように。
(まだ僕は、あの頃と同じままなのに。人になれたと、お二人の優しい嘘に甘えていた。なんて、恥知らずな)
治りかけの傷に爪を突き立てるように、倖斗は述懐する。
(ねえ、お嬢様。若様)
この國でも指折りの華族に名を連ねるものとして。
稀なる先祖返りの死なず姫であり次代の皇妃として。
稀なる頭脳を持ちながら虚弱な不死鳥の末裔として。
そんな、あらゆる特異を束ねた運命の上にいる我が主人。
(僕はあなた達の重荷ではなく、支える側になりたい)
それが、まことの従者というものでは、ないのだろうか。
次回21時更新!
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