消えた理恵子
休日のおやつ時、宗次郎との用事を済ませた倖斗は藤宮邸の広大な庭でガウを散歩に連れ出していた。
「暖かくなって良かったね、ガウ」
リズムよく四肢を動かしながらちょうど良い感覚を保ってくれるドーベルマンに声を掛ければ、ワフンとご機嫌な鳴き声が返ってきた。倖斗よりほんの少し遅れてこの家にやってきたこの賢い同僚との運動の時間はなかなかに楽しい。
「少し走る? 雪があるから真ん中だけになっちゃうけど」
屈伸しながら問えば、力強く尾が揺れ嬉しそうな返事があった。
朝方の冷え込みの名残であちこちに雪が積もっているものの、日が高くなるにつれて気温が上がり、今はもう防寒具なしでも十分すぎるくらいに暖かい。
一斉に走り出そうと構えた一人と一匹の背に、ひどく慌てた大音声がかかったのはその時だった。
「ユキくん! 理恵子さま探して!」
綺麗にまとめた髪をあちこちほつれさせて円が駆け込んでくる。
今日、理恵子と円を護衛につけて出かけていたはずだ。倖斗の顔色がサッと変わった。脳裏に隆惺の言葉がよぎる。
『今回の件はこれで終わらない』
あの警告は、速やかに従者たちに共有された。
犯人を釣り出すという目的ゆえに大きな警護計画の変更はなかった。だがそれは甘い警護体制ということではない。豊葦院女子部という本来鉄壁であるはずの場所で事件が起こることが想定外であっただけで、そもそも藤宮の人間を守ることが生半可であるわけがないのだ。
通常通りの護りを固めていれば、イレギュラーがない限りは理恵子は日常を逸しない。ましてや、拐かされることは万に一つもないだろう。
だが、倖斗よりも強く経験豊富な円が助けを求めるなどというのは、倖斗が生来持っている鋭い嗅覚を必要としていなければあり得ない事態だ。
「何があったの」
「隠れさせた場所にいなくて」
「わかった。報告は?」
靴紐を縛り直しながら問う。
「丑前田さんに伝達済み。詳細は走りながら話す! ガウも来て!」
円の形相に一も二もなく頷いて、従者とドーベルマンは全力で走り出した。
*
たどり着いたのは、商店と商店の間にあるひと気のない路地だった。
路地特有の建物の影になった暗さはあるがこまめに清掃されているらしく、特にゴミや雑草も見当たらず綺麗なものだ。近隣の住人が共用で使っているらしい掃除用具入れが置いてある他には物も少ない。せいぜい突き当たりに掻いた雪がこんもりと寄せられているのと、入り口近くに大きめの荷車が寄せてある程度だ。
(この馬車。この辺りじゃない土と花の匂いがする。戻ってきたばかりなのかな)
すんと場のにおいを嗅いで、円の方を振り向く。
「ここ?」
青ざめた表情の少女が深く頷いた。
移動中に聞いた話では、街に出ていた理恵子と円は有名な不良少年隊の構成員に難癖をつけられ、ひどく追いかけられたらしい。
「理恵子さまは目立つ人だから隠れていてもらったの。ここなら大丈夫そうだったから。……安心などせず、連れて行けばよかった」
その声はひどく重かった。
不良自体は無事に撒くことができたものの、街中を歩いていてはまた遭遇する危険性がある。迎えを呼ぶことにして、隠れた路地の安全性を確かめた円は電話を借りるため商店の表に回った。そう時間はかからず連絡がつきすぐに戻ったものの、その時にはすでに理恵子は消えてしまったということだった。
円は己を責めるように俯いている。
だが、倖斗は円が下手を打ったとは思わなかった。彼女が索敵をして安全だと判断したならば、仮に虎堂たちがそばに侍っていたとしてもそれを信じて計画を立てただろう。それだけ彼女の索敵技能は優れている。
「今は探そう。ガウ、やれる?」
唇から血が出るほどに噛み締める円の肩を軽く叩いて、傍のドーベルマンを見下ろす。凛々しく座していた彼は琥珀色の瞳でこちらの目を見ると応よと威勢よく吠えた。
「よし、はじめよう」
幸い、路地は行き止まりのようだ。自分とガウの鼻があれば手がかりはそう掛からず見つかるだろう。
そんな予想は、早々に裏切られた。
「……薄いな。雪のせい?」
すんと鼻を鳴らして倖斗が呟く。
そこら中に積もった雪は、言い換えれば大量の水だ。流れていかないだけマシではあるが、理恵子の名残どころか通常あるはずの路地自体のにおいがどこか薄れてしまっている。
しかも理恵子は普段、香を使わない。藤宮家全体が強い香りを好まないことによるものであり嗅覚が優れた倖斗にとってはありがたいことであったが、ここに来てそれが裏目に出た。普段は感じ取れるからと甘く見ていたが、主自身のにおい程度は積雪の中では容易くかき消されてしまうのだ。
無力感に唇を噛み締めながら、必死で脳を動かす。
警鐘は鳴っていない。これはまだ彼女の権能が使用されていないことを意味している。それは救いとも言えたが、悪漢に目をつけられていたというのもあって安心は全くできない。
(落ち着け)
バクバクと騒がしい心臓を宥め、神経を研ぎ澄ませる。
必要なのは、砂の海の中で一粒だけを選んで探すような途方もない集中だ。
音が消える。すぐそばの雪の冷気を忘れる。光も不要。口内が乾いていくことすら意識の外に投げ捨てる。
「……あった」
一粒は、見つかった。
(においはここから動いてない……いや、この行き止まりで消えている? そんなこと……でも、それ以外に考えられない)
眉間に皺を寄せた倖斗のそばに、焦茶色の暖かな体が寄り添った。横を見れば、琥珀色の静かな眼差しがじっとこちらへと注がれている。
言葉は通じないけれど、「お前は間違っていないぞ」と言われた気がした。
「ガウもそう思うんだね」
長いマズルがワフと小さくも鋭い息を吐き出した。肯定の合図。ならば、自分の嗅覚は間違っていない。一人だけでは不安に思えた感覚が、急速に信頼のおけるものに思えてくる。
(移動したにおいがない。でも、いない)
それが意味するのは、なんだ?
「お嬢様……」
ただでさえ苦手としている思考がぐつぐつと煮えていく感覚に、倖斗は思わず天を仰いだ。ぽっかりと穴が空いたような空が見える。ちょうど太陽がさしている側の屋根にだけ、ぽたぽたと溶けていく垂氷とこんもりとした雪が残っているようだ。
その水滴を避けようと一歩下がり、尻の辺りにひんやりとしたものを感じて倖斗は飛び跳ねた。
「うわっ、つめった! ん……?」
奥の方に追いやられていたその雪山を前に、倖斗は首を傾げた。
微かにだが、理恵子のにおいがした気がする。ざくり、ざくりと素手で掘り返し、奥の方の雪を抉り出せば、それは確信に変わった。
「やっぱり、そうだ」
奥に進めば進むほど、雪は理恵子のにおいを閉じ込めている。いざという時に身動きが取れなくなる以上、こんなところに身を潜めていた可能性は低いだろう。
つまりは、ここっで何かがあったのは、確実だった。
「円、坊ちゃんをここにお連れして」
聞き込みを終え戻ってきた円に頼んで、倖斗は軋む心臓を宥めた。
明確な異常事態と、誓いを守ることもできない現状がひどく少年を打ちのめす。
だが、今は自分の嘆きなどどうでもいいことだ。優先すべきは行方知れずの彼女を見つけ出すことであり、求められているのはこの事態を解くことだ。
手足であるはずの犬が主人を呼びつけるなどあってはならないだろうが、致し方ない。
藤宮の名探偵にお出まし願おう。
ここから21時頃まで5話連続投稿していきます。
だいたい30分間隔になると思うのでお付き合いいただければ幸いです
事件発生パートはスピード感がほしい派




