第七話 暗闇を越えて受け継ぐ意思
カルロータ様が乗馬を習い始めてから、一年余りが過ぎた。
乗馬は確かに貴族のたしなみとして必要な学習項目のひとつだが、政務や礼儀作法、舞踏、音楽など他にも優先すべき学びは多く、なかなか練習する時間をとることができなかった。
そのため、師であるリオハさんから合格をいただくまでに随分と時間がかかってしまった。
あの栗毛の馬も、今ではすっかりカルロータ様に懐いている。
本来であれば、あの事故の責任を問われ、どこかの業者に払い下げされる運命だった。
しかし、カルロータ様は「私が悪かった」と何度も繰り返し主張され、その馬の命を救われたのだ。その時の毅然とした態度は、今でも鮮明に覚えている。
「以降も、たまにはこちらにお顔を見せて頂きたいものですな。こいつがすねてしまいます」
リオハさんが栗毛馬の首筋をぽんぽんと優しく叩きながら笑みを浮かべた。
「もちろん。その時はまた、お願いしますわ」
カルロータ様は軽く頭を下げ、その大人びた仕草にリオハさんが少し慌てたように目を瞬かせた。
話し方も立ち居振る舞いも、少しずつ大人の女性としての風格を漂わせ始めておられる。
ルシアとの関係も少しずつ変わってきた。
馬に襲われたあの一件をきっかけに、カルロータ様の方から積極的にルシアへと歩み寄られるようになったのだ。
危険を顧みない行動に、ルシアという人柄の強さと優しさを感じ取られたのだろう。ときおり、ルシアを無理やり寝室へと引きずり込み、一緒に寝ているようだ。
私もあの時、お側近くにいたなら命を張ってでもカルロータ様をかばっただろう。それを迂闊にもこぼしたところ、「解ってるわよ」とカルロータ様に苦笑いされてしまった。解せぬ。
それでもまぁ、あの馬のおかげで、二人の関係は私が望んだ方向へと変化していった。今では、主と侍女という枠を超えた深い信頼で結ばれているのがよく分かる。
もちろん、公の場では控えておられるが、言葉の端々や視線の交わし方、些細な仕草のひとつひとつに、それがにじみ出ていた。
家族や、親しい友。カルロータ様は失われたもののほとんどを取り戻され、それだけでなく、新たに誇れるものまで手に入れられた。
それは、とても喜ばしいことだ。けれどそれは、私の出番が少なくなりつつあるということでもある。
――私は、この娘から離れがたくなっていた。
そんな悩みが、頭の片隅に住み着くようになったある午後の昼下がりだった。
部屋の扉が、激しく叩かれた。
ルシアがカルロータ様と私を一瞥し、慌てて扉へと向かう。
「何か御用ですか?」
「至急、お嬢様に。ご主人様のお部屋へお越しいただきたく……」
その声は震えていた。見知ったメイドだったが、その動揺は遠目からでも明らかだった。これは尋常ではない事態だ。
「ルシア、代わって。私が話を聞くから、その間にお嬢様のご準備を」
理由を聞くまでもない。ルシアもまた、そのあたりはよく心得ている。カルロータ様を鏡台の前に座らせ、銀色に輝く長い髪を櫛で丁寧にとき始めた。
「何があったの?」
「急に、お倒れになったそうです。詳しいことは、まだ……」
「なんと……」
弟君はまだ九歳。もしも当主に何かあれば、この家にとって逆風だ。
けれど――。
私はひとつの覚悟を胸に抱き、カルロータ様とともに閣下の私室へと向かった。
扉を開けると、薄暗い寝室が広がっていた。
カーテンが閉め切られ、湿った空気が重たく漂っている。ベッドに横たわる辺境伯は、額に浮かぶ汗を拭うことすらままならず、荒い呼吸を繰り返していた。
扉の隙間から射し込む微かな光さえも、この部屋では色を失ったように淡く感じられた。
周囲の空気は、深刻さを雄弁に物語っていた。医師は軽症だと言ったらしいが、誰の顔にも安堵の色はなかった。
閣下は執務中、ふらりと倒れられたそうだ。
倒れた時から意識はある。
どこも動かせないところはない。ただ、激しい疲労感に苛まれているようだった。医者は「疲労が原因だろう、数日も休めば回復する」と言ったらしい。それは一見、喜ばしい診断だったが、まだお若い閣下が倒れるという事実そのものが、周囲に大きな不安をもたらしていた。
それまで閣下は疲れを自覚しておられたのだろうか。
つい先日お目にかかった時は、活気にあふれ、部下へ的確な指示を与えておられたのに。もしかすると、その裏で無理をなさっていたのかもしれない。
この機会に、どうかゆっくりお休みいただきたい――そう願わずにはいられなかった。
「……カルロータ」
かすれた声が、娘の名を呼んだ。
本当に、ただの疲れなのだろうか。疑いたくなるほど、明らかに消耗した声だった。
ベッドの傍らでは、辺境伯夫人が心配そうに額の汗を拭っている。
「はい、お父様……」
カルロータ様は震える声で返事をされた。閣下は薄く目を開き、娘を見上げる。
「回復するまで……、そなたが……政務を、行え……」
それは途切れ途切れで、とてもか細い声だったが、はっきりと聞こえた。その場にいた全員が息を飲んだ。誰もが耳を疑った。
「あなた!?」
辺境伯夫人が悲鳴のような声をあげる。
「名代ならば、この子がおります」
夫人の隣で悲しそうにしている若君を抱き寄せ、閣下に見せる。
この国では、男子に優先的な継承権がある。辺境伯家の跡継ぎは、カルロータ様の弟君だと誰もが思っていたはずだ。年若いとはいえ、扶けをつければ務まるはず。なのに。
成人していない姉と弟がおり、姉が先に実績を積み、もし、その後も実績を積み続けるとしたら。その結果が良いものであるとしたら。
仮定に仮定を重ねた想定だが、弟君の立場がひっくり返るのではないかと考える人がいてもおかしくはないだろう。
私も、カルロータ様に弟君と争っていただきたいとは思っていない。
だが、名代として政務を代行したなら、カルロータ様は必ずや結果を残すだろう。
領民は感謝し、使用人たちは新たな側面を知り、さらなる信頼を寄せるだろう。
私が、きっとそうなるように支えるのだから。
だがそれは、将来のお家騒動につながりかねない。
今回は、やりすぎないよう、控えた方がいいのだろうか。
閣下のお考えが解らないまま、突っ走ることは少し危険だ。
やり過ぎると、本当に家を割ると危険視されてしまう。
私としては、簡単な箔付けをしたいだけなのだ。閣下のお側で少しだけ実績を積むていどでいい。
どこかへ嫁ぐとしても、教育が遅れてしまった現状、たいした家は選びづらい。
ならばその時間的なハンデを、実績でカバーしたいのだ。
政治的な心得がある妻を迎えたいと思う貴族は、王都でも多いはずだ。
カルロータ様の未来を少しでも広げてさしあげたい。
それだけのことなのだ。
閣下は、いったい何をお考えなのだろう。
本気で跡継ぎにとお考えなのか、それとも他に意図があるのか。
根回しも、十分な準備もないまま、いきなり本番を迎えるのは好ましくない。今回は、やりすぎないように抑えた方が良いのだろうか――。
「……前例に、従えば良い。わからねば、ライムンドに聞け……」
「わかりました。お役目、務めさせていただきます」
カルロータ様は唇を噛みしめた。ふと見ると、ルシアの手をぎゅっと握っている。その手は、わずかに震えていた。
閣下はその様子を見て、目を閉じると、再び弱々しい声で告げられた。
「頼む……」
閣下の部屋を辞したカルロータ様は、執事のライムンドさんに導かれて執務室へ向かわれた。
これまで閣下が座してきた代々の領主の椅子の前に立ち、カルロータ様は私を振り返る。
「ねぇ、セレナ……やっぱり、まだ……」
「いいえ」
私は、優しく微笑みながら否定した。
「私がお伝えしたことをお忘れでなければ、大丈夫です」
「でも……」
その言葉を続けようとした時、私の隣からもうひとつの声が上がった。
「カルロータ様なら大丈夫です。必ずや、領民の皆様を安心させることができます」
それはルシアの声だった。穏やかな微笑みをたたえたルシアの瞳は、どこまでも柔らかく、そして揺るぎない信頼が宿っていた。
カルロータ様は息を整えると、かすかに笑みを浮かべた。
「……そうね。ありがとう。セレナ、ルシア。私、頑張ってみるわ」
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