第五話 涙を越えたその先に
「ふむ……見事なものだな」
執務室の奥、長方形の机の向こうで、中年の男性が感嘆の声を漏らす。
几帳面に撫でつけられた銀の短髪に、眉間の深い皺が印象的だった。まだ四十代のはずだが、その皺の深さには、どれほど多くの責任を背負ってきたのかと、つい案じてしまう。
マテオ・デ・モンティエル辺境伯。背丈は平均より低く、体つきも細身だが、その眼差しは鋭く、見るもの全てを射抜くような迫力があった。
机の上には書類の山。おそらく一人で全て目を通しているのだろう。補佐する人材もいないのかもしれない。
だから、あの眉間の皺は深く刻まれるのだろう。思い返す父はあそこまでではなかったように思う。きっと、それが責任の重さというものなのだ。
「……全ては、お嬢様の努力の賜物にございます」
カルロータ様にお仕えして、もうすぐ二年になる頃だった。
その日、辺境伯閣下に呼び出され、カルロータ様の現状について報告を求められた。
言葉で説明するよりも、と、私はお嬢様の書き物を提出したのだ。
「なるほど。年齢にしてはまだ幼いが、始めたのが遅かったゆえ、だな」
「左様にございます。ですが、すぐに追いつかれることでしょう」
「……見事だ。アルマール子爵令嬢。これは貴殿の手腕だな。礼を言う」
「勿体ないお言葉でございます。しかし、これはすべてお嬢様ご自身の努力の結果でございます。私は、ほんの少し背中を押しただけに過ぎません」
事実だ。お嬢様は、この環境に適応しようと自ら努力を選び取られたのだ。私などが、何をしたと言えようか。
「ふむ……」
閣下は片肘を机に置き、拳で頬杖をつく。お嬢様と同じ色の瞳が細められ、私を貫く。
「何か望みはあるか? ここまで娘を育ててくれたことに報いたい」
千載一遇の機会。私は、思い切って口を開いた。
「お嬢様の傍に、友となり得る者を置く許可を頂けますでしょうか」
カルロータ様との関係も築けてきた。次の段階として、できれば同年代の友が必要だ。
子どもが成長するには、信頼できる友、あるいは気軽に話ができる年の近い存在が必要なのである。
その点、私の妹であるルシアは今年で十歳。カルロータ様より二つ年下であり、素性も分かりきっている。
一から人を探すことに比べたら、大幅なコストカットとなる。
このあたりを力説し、私はルシアをお嬢様付きの侍女として呼び寄せる許可を頂いた。
けれども、出会ってすぐ打ち解ける、なんてことはない。人間関係は、複雑怪奇なのだ。
例えばルシアは張り切りすぎて、必要以上に前のめりだったし、その勢いに圧倒されたカルロータ様は、私の背後に隠れることが多くなった。
押しても引いても、どうにも噛み合わない日々が続いた。
少し時期尚早だったかもしれない――そうも思ったが、最初から上手くいく方が不自然だ。焦らず、時間をかければ良い、と自分に言い聞かせた。
その一環として、まずはルシアの溢れる情熱を抑えることにした。
「カルロータ様のために」
その思いが、強すぎるのだ。私は何度も呼び寄せ、説明した。
侍女である以上、ただひたすらに尽くすだけでは駄目だ。まずは近づきすぎず、距離を詰めすぎない。いきなりゼロ距離は貴族のお作法ではないのだ。
カルロータ様は村の子供たちではなく、正真正銘の貴族令嬢なのだ。
責めるわけではない。むしろ気持ち自体はありがたかった。だが、あくまで貴族として、しとやかに、スマートに行って欲しい。
忘れがちだけど私たちも一応貴族令嬢なのだ。でも、ルシアはそういった教育をほぼ、されていない。
それゆえ、微調整に思いのほか時間がかかり、ルシアに接し過ぎだと、距離が近いと他のメイドにをたしなめられてしまった。
距離が近いことをたしなめようとしたら私の方こそ距離が近いとたしなめられてしまった。
こんな皮肉はない。ひとり笑ってしまった。
だが、それを重く受け止めている人物が一番間近にいたのが、本当の皮肉だった。
「セレナは、やっぱり私よりルシアの方が大事なの? 妹だから? 私は妹じゃないから近寄れないの?」
授業中、涙目になりながらもなんとか自分の心のうちを出してくださったカルロータ様に、私は、文字通り膝から崩れ落ちてしまった。
私は、何をしていたのだろう。
カルロータ様のためだと信じて動いていたのに、当のカルロータ様をこんなに傷つけてしまっていたなんて。
なんて、愚かしい――。
カルロータ様は、私に対して今すぐ出ていけという資格がある。
それなのに、そんなことは一言もおっしゃらず。ただ、そばにいたいと、寂しいと。
私が指導した、言葉で気持ちを伝えるという方法で、私に示してくださったのだ。
「もっ、申し訳……ございません……っ」
その場で崩れ落ち、声を上げて泣いてしまった。
胸が押しつぶされそうだった。自分の行いの重さに、どう償えばいいのか分からなかった。
自分から差し出した手。
それを、小さな子どもが、ありったけの勇気を出してつかんでくれたのに。
なのに、それを私が、振り払ってしまった。
「申し訳ありません……本当に……どうすればいいのか……」
顔を覆い、ただ泣くことしかできなかった。なんて、無力なのだろう。
その時、ガタリと音がした。カルロータ様が席を立ったのだ。
靴音がコツコツと床を打ち、私のすぐ前で止まった。
いよいよ、退出を命じられるのか――。私は、藁の家で嵐を待ちうけるかのような気持ちだった。
衣擦れの音がして――。
ふわり、と柔らかな感触が肩を抱きしめた。
「えっ……」
顔を上げようとしたら、上から顎で頭を押さえられた。痛い。
「……馬鹿じゃないの? 先に泣かれたら、私、泣けないじゃない」
ばか、ばか、とカルロータ様は何度も繰り返す。
「ばか、ばか。セレナの、ばか」
「カ、カルロータ様。馬鹿馬鹿言い過ぎでは……」
「黙りなさい」
顎が外されたのを感じる。私は、恐る恐る顔を上げた。
そこには、泣き笑いのような表情があった。深い海を思わせる瞳には涙がたまり、今にもこぼれ落ちそうだ。
それでも、そこに不信の色は一切ない。ただ温かな親愛の色のみが、広がるのみ。
嬉しい。こんなに嬉しいことはない。
「……ちょっと嫉妬しただけよ。ただのわがままなのに、なんでセレナが泣くのよ」
唇を尖らせ、少し拗ねたお姿があまりに可愛らしくて、思わず笑みがこぼれそうになった。
そして、嫉妬したと自己分析し、それを口にされることは、十二歳でなかなかできるものではない。
やはり、友人の存在がハンデを覆したのか。年齢以上の精神的な成熟をもたらしたのだろうか。
それとも、手前味噌で最悪な考え方だが、私のやらかしか。
「私のせいで、カルロータ様を悲しませてしまいました」
贖罪をしなければならない。主を悲しませるなど、とてつもない大罪なのに、カルロータ様はやはり首を横に振る。
「だから、それは違うって。嫉妬だって言ってるでしょ」
「いえ、それは」
それは、事実だ。正しく分析すると、それはカルロータ様の嫉妬だ。
しかしそれを認めてしまうのは、主への他責となる。仕える者として、決して認めてはならないのだ。
するとカルロータ様は、少しはにかんだように、その言葉を仰った。
「セレナが、私のことをないがしろにするわけないじゃない」
「――っっ!」
雷に打たれたようなショックが私を震わせる。
「だとしたら、ルシアに何かを教えていただけ。つまり、私の嫉妬」
「カルロータ様……」
「どうしても罪を受けたいなら、今晩、私と一緒に寝て。それが、罰ね」
こんな事を言われて、コロリといかない訳がない。いつの間に。私は、完全に見損なっていた。
なんということだろう――。
カルロータ様は、年齢以上の聡明さで、部下を心酔させるすべすら身につけていたのだ。
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