第四話 泣いてはいけないなんてない
(今回は、カルロータ視点です)
市場の通りは、いつにも増して賑わいを見せていた。
焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂い、色とりどりの果実が山積みに並ぶ。子どもたちが走り回り、あちらこちらで小さな笑い声が響いている。
私は、その喧噪を隣で眺めるセレナと共に見つめていた。
市場の喧噪には、少し苦手だ。
セレナが私の家庭教師となって以来、時折この場所を訪れるようになったものの、どうにも居心地が悪く、落ち着かない。
決して賑わいが嫌いというわけではない。串焼き肉の味は大好きだし、呼び込みをする商人の軽妙な口ぶりには思わず笑ってしまうこともある。
「カルロータ様、本日はどのようなものをお召し上がりになりますか?」
セレナの問いかけに、生返事をする。
でも、どこか心が寒いのだ。すきま風が、私の身体を通り抜けていくようだった。
いつだって、雑踏の向こう側を見てしまう。
そこに、いるんじゃないかって。
あり得ない話だけど、探してしまう。
今でも。
「魚の塩焼きなどいかがでしょう? 川魚と海水魚、どちらがお好きですか?」
ふと目に入ったのは、小さな娘の手を引く母親の姿だった。
娘は元気いっぱいに駆け回り、母親は困ったような笑顔を浮かべてついて行く。
私も、そんな未来に生きたかった。
だから、探してしまう。
もしかしたら、いるんじゃないかって。
お母様と、私が。
仲良く手を繋いで、お買い物をしているんじゃないかって。
どうしていないんだろう。
この市場に、お母さんはたくさんいるはずなのに。
私のお母様だけが、いない。
そんなの、おかしい――。
目頭がじんわりと熱くなる。
だめだ、我慢しなきゃ。セレナがびっくりしてしまう。
長く一緒に過ごして解ったのは、セレナが案外心配性だということ。
私の気持ちを量り、嫌なことを強いることは決してない。
普段はからかうように振る舞うくせに、私が本気で嫌がると、そっと距離を置いて見守ってくれる。
「やっちゃった」と言いたげな瞳で、不器用にも美味しくない紅茶を差し出してくれるのだ。
そんな優しさが、微笑ましくて、好きだった。
信頼はしているし、信用もしている。
でも多分、セレナが私に求める感情は、そういった対等のものじゃない。
解っているけれど、そこにもたれかかっていいのかな、って思う。
だって、セレナはいつか……。
「カルロータ様?」
「えっ」
気がつくと、セレナが私の目の前に立っていた。優しい蜂蜜色の瞳が、心配げに揺れている。
誤魔化そうとしたけれど、もう遅かった。顔を背けようとしたその瞬間、セレナが私の顔を両手で包み、正面を向かせた。
「ちょっと……不敬罪よ」
「今は大丈夫です」
「どうして……」
問いかけても答えは返ってこない。じっと私を見つめるだけ。耐えかねて、涙が一粒、零れ落ちた。
「いかがなさいましたか? もしや、私の行動が不快でしたか?」
そんなこと、あるはずがないのに。
「目にゴミが入っただけよ」
「ですが、ずいぶんと心ここにあらずでしたね。お好きな食べ物を前にしても反応が鈍かった」
「……そんな日もあるのよ」
「そうですか。では、そういうことにいたしましょう」
「えっ……」
そう言うと、セレナは立ち上がり、私の手を取った。
「仕切り直しです。今日は串焼き肉を召し上がっていただきます」
とても嬉しそうに微笑んでいた。
「ええ……」
私が肉をあまり好きではないのを解っていて。
少し離れた噴水広場で、私は串焼き肉に悪戦苦闘していた。塩辛い……。
すると、町の子どもたちが駆け寄ってきて言う。
「お姉ちゃん、美味しそうなの食べてる!」
あまり身なりの良くない子たちだった。困ったようにセレナを見上げたけれど、セレナは楽しげに串焼きを頬張るだけで、何も言わない。
「……もう一切れしかないし、分けられないの。ごめんなさい」
「そっかぁ。喧嘩になっちゃうもんね」
笑顔を見せて、うんうんと頷く子どもたち。
「もしあげるなら、みんなにあげたいから。ごめんね」
でも、子どもたちは立ち去る気配がない。串焼き肉をじっと見つめている。
どうやって断ればいいのだろう。
じわりと視界がにじむ。
だめだ、泣いちゃいけない。
お父様に言われたのに。
泣いても、何も変わらない。
お母様は戻らない、無駄なことなのに。
「あっ、お姉ちゃん泣いてるー」
「どうしてー?」
そんなこと、私にだってわからない。
お願い、どこか行って。
その時、セレナが手を叩いた。
「は~い、みんな注目~」
私に奇異な目を向けていた子どもたちの視線が一斉にセレナへと移動する。
「これからみんなにお仕事をしてもらいます。いいかな?」
「えー、めんどくさい~」
「めんどくさいよね。でも、お姉ちゃんの靴を磨いてくれたら、串焼き肉を一本買ってあげる」
「え、やるー!」
子どもたちは嬉しそうに水桶や布を取りに走っていく。
気づけば、涙は乾いていた。不思議だった。
「お金があるなら、こうして労働の対価として与えれば良いのです。施しは慎重に」
セレナが片目をつむってみせる。
「労働の……対価?」
「はい。物乞いだけで生きられるなら、誰もが物乞いを選ぶでしょう。でも、そうなればこの国はどうなりますか?」
「ううん……?」
「例えば、食べるもの。このお肉は、突然現れるものですか?」
「あ……そうか」
この肉は、豚肉。豚を育てる人、加工する人、売る人、焼く人。
あらゆる分野で関わる人たちが仕事をせず物乞いをしていたら――。
ぶるりと体が震える。
やがて、何もなくなる。国も町も、立ち行かなくなる。
「そうです。さすがはカルロータ様」
だから、貧しい子どもであっても働いて、対価を得てほしい。
「ねだって何も得られなくても、働けば何かが手に入るとしたら、どうでしょう?」
「みんな、働くかな……」
「全員ではないでしょうけれどね」
セレナが苦笑いを浮かべた。
戻ってきた子どもたちが靴を磨きはじめると、セレナは私を見て微笑む。
「よくお考えになりましたね。カルロータ様は立派です」
「っ……!」
そっと私の頭に手を置き、優しく撫でる。その温かさが胸に広がる。
「カルロータ様は、本当によく頑張っておられます」
「うん……」
ああ、また泣きそうだ。
見せたくないのに、セレナの前だと、どうしてこんなに涙がこぼれるのだろう。
「カルロータ様」
子どもたちに代金を渡したセレナが、私の前に向き直る。
「泣いても、良いのですよ」
「そんな……泣いたって、弱さを晒すだけで……ひっく……意味なんて、ないのに」
泣いてもお母様は戻らない。そう、お父様より教わったのだ。
でも、止められない。次から次へと涙が溢れる。串焼きが地面に落ちてしまった。
「いいえ、泣くことは大切です」
「うそ……そんなこと……誰も……」
「私が保証いたします」
そう言って、セレナが私を抱きしめてくれた。
それは、頭を撫でてもらった時よりも深く、私の心を温めた。
私がずっと、ずっと待ち望んでいたものだった。
「子どもは大いに笑い、大いに食べ、大いに眠り、そして――大いに泣くことが大切なのです」
背中をぽんぽん叩きながら、セレナの声が耳元に優しく響く。
どうしてだろう。お父様の言葉よりも、この人の言葉の方が信じられる。
「いいの……? 私が、あなたに寄りかかっても……?」
「ええ、もちろんです。聡いカルロータ様なら、私の気持ちなどとうにお見通しでしょう?」
「う、ううっ……うわあああああああん!」
その日、私は数年ぶりに、人前で声をあげて泣いた。
それも、堂々と。辺境伯令嬢であるにもかかわらず。
この市場の喧騒の中で、誰に見られても構わないとばかりに、大声で泣いた。
おかあさま。
ごめんね、おかあさま。
私、もう少しだけ、頑張ってみる――。
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