第三話 閉じられた扉を開く熊
「……どうしたのよ。早く始めなさいよ」
大袈裟ではあるけれど、その時、私は胸の内で嬉し涙を流していた。
カルロータ様が、授業の時刻に遅れることなく、席に着き、まっすぐに私を見据えておられる――。
昨日までの私が見たならば、にわかには信じられない光景であっただろう。
何かの間違いではないか。
これは夢ではないかと自らの腕をつねってみるが。
「……うん。痛いわね」
「何をやっているのよ」
突っ込みまで。これ以上の光栄があろうか。もはや私の時代が来たと言っても過言ではない。
「ねぇ?」
はっと顔を上げると、カルロータ様が頬をわずかに膨らませ、じとりとした視線をこちらに向けておられた。
私は咳払いをひとつ、背筋を正して応対した。
「失礼いたしました。それでは、本日の授業を始めさせていただきます」
授業はカルロータ様の私室で行われている。
先日までは別室をお借りしていたのだが、あまりにも調度品が破壊されるので、ついに閣下よりお達しがあり、私室での授業となったのだ。
むしろ、これまでよく別室で耐えておられたと思う。聞くところによれば、カルロータ様が壊された品は、両手の指では数えきれぬほどだという。
先日の陶器の皿など、桁違いの値がついていたように記憶している。
今のところ、私室では日用品すら壊されていない。それは単に、壊す機会がなかっただけなので、油断は禁物だ。
そう考えながら様子をうかがっていると、カルロータ様が手の中に何かを握りしめておられるのに気づいた。
あの大きさ、形状――。投擲にほどよい大きさの木片だろうか。
「カルロータ様、恐れながら、そのお手にお持ちのものは……?」
今にも飛んでくるのではないかと覚悟を決めたが、カルロータ様はあっさりと手を開き、中身を示してくださった。
それは木彫りの小さな置物であった。
「……熊、でございましょうか」
木の質感をそのまま生かした素朴な彫刻。カルロータ様は、それを大切そうに両手で包み込んでおられる。
「そう。お母様が彫ってくださったの」
その横顔は柔らかな光をたたえ、今にも涙が零れそうであった。
「さようでございますか。それをお持ちになると、少しは心が安らぎますか?」
「……ええ。そうね」
「それでは、本日はそのお気持ちを文字にしてみましょう」
「はぁ? あんた、思いつきで授業を進めないでよね」
まことに正論である。だが、大人の世界は厳しいのです。私は、あえてこれを通す。
「……いえ、文字とは、心を形にする術。手紙はまさにその極みでございます。今回の題材としては最適かと存じます」
「それはそうだけど、そうじゃないのよ!」
ぐぎぎ……と歯ぎしりの音が聞こえそうだった。
「はて……?」
「予定通り進めなさいと言っているの!」
「なるほど。しかし、物事とは常に流転するもの。川の流れのごとく、時とともに姿を変えるものです」
「そ、それは……」
「本日の課題は『文字を書くこと』。例文の書き写しよりも、生きた言葉を紙に刻むほうが意義深いと判断いたしました」
「んんんんん……」
カルロータ様が小さく呻かれた。つい先日までであれば、この場は幾つかの物が飛び交う戦場となり、私は傷だらけになっていたに違いない。
しかし、そうはならなかった。
これはつまり、カルロータ様が本来、きわめて優しいお方であるからだ。
しかも、かなり寛容なお心もお持ちでいらっしゃる。
例えば、十歳の子どもが突然予定変更を告げられて、それを素直に受け入れられるだろうか。しかも相手は自分より身分の低い家庭教師だ。
大人であれば理由を聞けばまだ納得できるだろうし、できなかったとしても従うふりはできる。
しかし、カルロータ様はまだ幼い。詭弁を聞かされているような気持ちになっていることだろう。
それなのに、受け入れようとしておられる。彼女は辺境伯令嬢。落ちぶれた子爵令嬢の言葉など、受け入れない権利があるし、暴れてこの場を壊す権利もあるのに。
子どもながらに、認めがたいことを認めようとしている姿を見て、どうして優しさを感じないだろう。
さらに、私の言葉に理を感じてくださったであろう聡明さが、子どもゆえのまっすぐさと争っている。
そのお姿に、私は胸を打たれずにはいられなかった。
私は、ただ見守ることしかできない。
仮に今、無理だと仰っても、それはそれで構わない。時期尚早であったのだと判断し、別の手立てを考えれば良い。
それでも、私は信じたかった。
この未来の女王にこそ、光を見出したのだから。
――女王?
私は今、何を見た?
少し疲れているのかもしれない。
長くこの辺境伯家で家庭教師を務めている。たまには実家へ戻るのも悪くはないだろう。
妹のルシアの顔を見たい。妹からでしか摂取できない栄養があるのだ。
「……いいわ。書けばいいんでしょ。熊から言葉を繋げていけばいいのね?」
「カルロータ様……」
「何よその顔。気持ち悪いわね」
思わずのけぞるカルロータ様に悲しくなる。ああ、やはりルシアに会いたい。
いずれルシアをカルロータ様のご学友としてお連れするのも一案かもしれない。
いずれ友という存在が必要になる時が訪れる。その時、その友がルシアであっても差し支えはないだろう。
だが、今はまだその時ではない。
友人として側に上げても、運が悪ければ敵となることもある。慎重に見極めないといけない。
カルロータ様に目をやると、ペンが止まっていた。
最初は熊について「かわいい」とか「上手に彫れている」と書いておられたが、やがて筆が止まってしまったようだ。
「心に浮かんだ言葉を書いてみましょう」
「思いつかないのよ」
「熊について、何かご存じのことは?」
「あ、それなら」
そうして、「こわい」や「山に住む」など、少しずつ言葉が綴られる。けれどまた、すぐに止まってしまう。
「難しい……」
「誰も急かしはしませんし、叱りもしませんよ。どうかご安心ください」
「う……ん」
「もし誰かがとやかく申したら、私が説明いたします。どうか信じて」
「……うん」
一歩一歩、歩みは遅くとも、カルロータ様は確かに前へ進んでおられる。その歩みを、決して止めてはならない。
私は雨傘となり、カルロータ様を妨げるあらゆる障害から守るのだ。
ペンはときおり止まり、ときおり進む。
唸り声、首をひねる仕草。書いた言葉を消し、また書き直す。
そのうち、言葉が途切れて止まっている箇所に気づいた。
他は「熊」から「かわいい」、「木彫り」、「難しい」、「気持ちをかくこと」などと発想が続いている。
しかし、ただひとつ、「お母様にいただいた――」という言葉から先に、言葉が続かないのだ。
六歳で母と死別されたカルロータ様。そのお心にどれほどの傷を残したことか。
六歳という年齢における母という存在は、世界のすべてがそうである時期は過ぎているものの、それでもまだ世界の大部分を占める要素だ。
もはや乳母が付く年でもない。お父上がいつも一緒にいるわけでもない。
兄弟もおらず、金で雇われた見知らぬメイドたちが急に現れ、周囲を取り囲むのだ。さぞ心細い日々を過ごしたのだろう。
そこに加え、新しくやって来た、「母」と名乗る初めて会う女性。なぜ「母」と呼ばねばならぬのか。私の「母」とは死んでしまったお母様ただ一人なのに。
そう考えると、暴れたくなる気持ちは解らないでもない。急激な環境の変化に、心が追い付かなかったのだ。
少しでも彼女の気持ちに寄り添い、サポートができていたなら――そう思わずにはいられない。
それができたのは辺境伯閣下のみだけど、閣下はご多忙だ。
あとはメイドか……しかしメイドとしては貴族とはそういうもの。新しい継母がやってきても荒れることなく素直に敬うのが当たり前だという認識で仕えているだろうから、暴れる姫君には困惑しかなかっただろう。
ほんの少しの工夫があれば――。
だが、流れ去った川の水は戻らない。今、これからどうするかしかないのだ。
さきほど、カルロータ様は再び歩き始めたと思ったが、心は置き去りにされている。
これを早く掬い上げないと、違う方向に流されてしまう。
まさに、私の手腕が試されている。
「どうぞ、ゆっくりとお進みください」
決して急かしてはならない。一歩一歩、慎重に。
私は、必ず貴女を掬い上げてみせる――。
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