第二話 深海に灯るあたたかな光
そして、苦難の日々が幕を開けた。
カルロータ様は、予想以上に手強く、そして手に負えないお方だった。
話がしたいですとお伝えしたものの、まともに会話が成立する機会などほとんどなかった。
そもそも、お姿を拝めない日さえあるのだから、話し合いどころではない。
決められた日課に姿を見せてくださった時には、もう感動だ。
カルロータ様は、必ずや伸びる。
わずかに成立した授業の中で、私は確信した。
これまで、ほとんどまともに教育を受けてこられなかったゆえに、土台が薄い。
それでも、あの方には際立った理解力があった。
初めて見せる問題を解説すれば、「ふーん」と一言。ここはどうか、などの確認や質問のひとつもない。
それでいて応用問題を解いていただくと、時間こそかかるものの、正解にたどり着く。
惜しむらくは、その基礎が欠けていることだろう。だから、問題を解くのに時間がかかる。
もし都で標準的な教育を受けていたなら、同世代の中でも飛び抜けた才女として名を馳せていたかもしれない。
胸の奥に、熱いものがこみ上げた。
これほどまでに輝ける原石を、自らの手で磨き上げることができるのだ。
どれだけ光を放たせるかで、私の力量が問われる。
やってやろうではないか。わくわくする。
自分がこんなにも野心家だったとは、思いも寄らなかった。
きっと、大金を目にして我を忘れる商人も、こんな心境になるのだろう。
いや、原石でなくても構わない。
それをどう光らせるかもまた、私の腕の見せどころだ。
今のカルロータ様に求められるのは、さほど高尚な知識や気品ではない。
辺境伯家といえども、王都に屋敷を構えているわけでもなく、嫁ぎ先も同じような地方の貴族だろう。
ゆえに、華やかなマナーや多くの知識より、精度。
限られた分野で、どこまで完璧に仕上げるかが問われる。
その挑戦こそ、この上なく楽しい。
だが、何をするにもまずは話を聞いていただかねばならない。
今のままでは、どれほど理想を掲げようとも夢物語に過ぎないのだ。
現実のカルロータ様は、授業にあまりお出ましにはならず、気が向いた時でも無言で頬を膨らませ、外を眺めているだけ。
こちらを向くよう言えば近くの物を手当たり次第に壁に投げつけ壊すという有様。
まずはご機嫌を伺うことが先決で、私たちの距離は縮まるどころか、ますます遠のくばかりだった。
教育以前に、心の距離を縮める必要があると分かってはいる。
あれこれと試してみたが、何ひとつ効果がなかったのは、きっとそれまでの教師たちも同じことを試してきたからだろう。
あの強い瞳を見ていると、そんな気がしてならなかった。
深い海のように、底の見えないコバルトブルーの瞳。
あの瞳に射抜かれると、すべてを見透かされている気になるのだ。
「……結局、あなたも同じなのでしょ?」
そんな声が、聞こえた気がした。
これまでの教師と同じで、お前も、大人の都合で言うことを聞かせようとしているのかと。
あの子の性格からして、陰で言いはしない。
これはあくまで、私の心から来ているものだ。
気に入られようと必死になっているのは、結局、自分のためだから。
自分が育てたという名誉を得たい。それによって、辺境伯から色々なものを引き出したい。
理由は違えどこれまでの家庭教師と同じ、自己本位なのだ。
そしてそれをやましいと思っているから、カルロータ様がそう言っているように思う。
そりゃぁ、嫌われる。
あの子にとっては私も、その辺にいる大人と同じでしかないのだ。
違う。違うのよ。
私は、本当にあなたを思っている。
でも、その叫びは届かない。
逆に、私に対し、砕け散った陶器の破片が届いた。
「なんであなたに、そんなこと言われなきゃいけないのよ!」
カルロータ様は手近にあった陶器の皿を掴み、勢いよく振りかぶる。
「っ……!」
放たれた皿は、私の足元で甲高い音を立てて砕け散った。
破片が転がり、裾をかすめる。
私は動けず、ただその破片を見つめていた。
肩で息をつきながら、カルロータ様は鋭い瞳で私を睨んでいる。
その瞳には、幼い怒りと不安が入り混じっていた。
「授業に出るか出ないかなんて、私の勝手でしょ!」
その声には、剣呑さと怯えが同居していた。
私を試しているのだ。
歴代の教師と同じかどうか。
怯むのか、泣き出すのか。
私はそっと一歩を踏み出し、皿の破片を踏まないように気をつけながら、カルロータ様の目線の高さまで腰を落とした。
「おっしゃるとおりです。カルロータ様の、勝手です」
「……っ」
唇を噛み、拳を握るその瞳が揺れる。
「ですが私は、そのお気持ちを、受け止めたいと思っております」
「な、なによそれ……」
「どうか、皿を投げる代わりに、言葉で教えていただけませんか」
「ことば……?」
「はい。私は、あなたの心を知りたいのです。あなたの怒りも、悲しみも」
両腕を広げて、その小さな肩を抱こうとした。
だが、カルロータ様はすり抜けるように後退し、距離を取った。
震える唇が開こうとして、声にならず。瞳には涙が浮かんでいた。
「ゆっくりで構いません」
私は微笑んだ。
この距離を埋めるには、まだ時間が必要だろう。
けれど、いつか必ずこの手で、その心に触れられるはずだ。
呼び鈴を鳴らすと、ほどなくメイドが駆けつけた。
割れた皿を見て、小さくため息をつく。
「……お怪我はございませんか」
「おかげさまで」
メイドはその言葉に満足せず、私の全身をさっと見回しほっと胸を撫でおろした。
以前の家庭教師の中には、陶器で怪我を負った者もいたらしい。
「掃除道具を貸してください」
「そんな。私がいたしますので」
「いえ、これは、私がやらねばならないのです」
「……かしこまりました。では、お手伝いできることがございましたら、お教えくださいませ」
この屋敷に来た頃は、話しかけても事務的な返事しか返してくれなかったのに、今はこうして心配してくれるようになった。ほのかに胸が温かくなる。この気持ちを、いつかカルロータ様も感じることができるのだろうか。
「……ありがとう」
散らばる破片は、あの子の心だ。
もう同じ形には戻らない。
それでも、拾い集めればきっと、新しい形にできるはずだ。
だって、十歳の子どもに罪などない。
私は、あの子のために、その破片をひとつずつ拾い集める。
「カルロータ様は、お気の毒なお方です」
メイドはそう語った。
彼女はカルロータ様の誕生以来ずっと仕えてきた、生き字引のような存在だ。
そんな彼女が語るカルロータ様の過去は、よくある悲劇だった。
「奥様……カルロータ様のお母様は、あの方が六歳の時、流行り病でお亡くなりになったのです」
そして、後添えとして継母がやってきた。
普通の令嬢なら、多少荒れてもやがてそんなものだと落ち着き、他家に嫁いでいくものだ。
貴族とは、そう教育されるものだから。
だが、カルロータ様は違った。
「それはもう、ひどい荒れようで……新しい奥様にも、まったく懐こうとなさいませんでした」
その姿に、辺境伯閣下も次第に心を閉ざしていったのだろう。
最初からではない。
閣下もまた、亡き妻の忘れ形見として、最初は溺愛していたのだ。
けれど、どれだけ周りの者が支えようとしても、変わらなかった。
「いったい、何がどうしてこうなってしまわれたのやら……」
メイドが肩を落とす。
誰にも分からない。神様ではないのだ。
けれど、十歳の子どもには、やはり笑顔でいてほしい。四年間、一人で頑張ってきたのだ。その分、報われるべきなのだ。
健やかに育つべきだ。勉強など、そのあとでいい。
まずは心を受け止める器を作らねば、どんなに水を注いでもこぼれてしまう。
私は、私だけは見捨てたりしない。
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