第一話 ほのかに咲く辺境の花
流れ着いたのは、王国の最西端に位置するモンティエル辺境伯領。海と山に囲まれた、まさに最果ての地だった。
政争に敗れ、王都を追われた下級貴族が身を寄せるには遠ければ遠いほど都合が良い。距離を置くことで、中央の貴族たちに反省していることを示せるのだという。
あまり近いと、勝ち誇った貴族たちの反感を買い、復帰の道がますます遠のくのだとか。なんとも面倒な話だ。
とにかく、できるだけ遠くで、しばらく大人しくしていればいい。それが、貴族としての誠意の示し方らしい。
もちろん、中央復帰のための働きかけを忘れてはならない。味方になってくれそうな貴族を訪ね、口添えしてもらい、“反省期間”を少しでも短くするのだ。
そんなわけで、父は時々一人で王都に戻り、旧知の貴族や同じ派閥だった方々を訪ねて復帰運動を続けている。
でも、「自分は悪くない、民のためを思えば自ずと正しいと理解してもらえる」みたいなことを言っているので、前途は多難だろうなと思う。
だから、母と私は、せめて家計だけでも支えるべく日銭を稼いでいる。
もちろんやましいことではない。母は裁縫、私は文書整理や代筆を請け負っている。王都にいる時から培った技術のおかげで、どちらもなかなか好評だ。
モンティエル辺境伯家と我がアルマール家は、何代か前に婚姻関係があったそうで、一応、無関係ではないらしい。
でも、それくらいの縁では、こちらが訪ねて行っても辺境伯様は会ってすらくださらなかった。
門前払いはされなかったものの、館には入れていただけず、微妙な関係性をまさに表していた。
それでも、領都から少し離れた村に一軒家を貸してくださったのはありがたかった。厄介払いでも、私たちには充分すぎるほどの恩恵だった。
村の人々も優しくて、没落貴族の私たちを温かく受け入れてくれた。
もちろん、母や私がそれぞれ得意な技術を持っていたからでもあるけれど、必要とされていることが嬉しかった。おかげで、卑屈にならず暮らせている。
「お嬢さん、ほんと助かるよ。領主様に伝える文がこれならきっと読んでもらえる」
そう言って、村長さんは胸を撫で下ろし、謝礼を置いていってくださる。文書を整えるだけの簡単な仕事だけれど、やりがいを感じる瞬間だ。
他にも、帳簿の書き方や文書整理を手伝ったり、子どもたちに文字や計算を教えたりしていた。
何もしないで過ごすなんて、きっと耐えられない。だからこそ、私にできることをしているだけだ。
父は「余計なことをして中央復帰が遠のかないようにな」と心配しているけれど、これくらいなら大丈夫だと思っている。
文字や計算を学べば、子どもたちの将来にもきっと役立つはずだから。
数日後の夕暮れ、アルマール家の質素な屋敷に一台の馬車が止まった。
首を傾げて応対に出た父は、戻った時には少し浮かない顔をしていた。
窓から見えた馬車の紋章は、モンティエル辺境伯家のもの。
もしや家を返せと言いに来たのかもしれない。薄い関係性しかない私たちなんて、いつ追い出されても不思議ではない。
行き場のない私たちは、母と顔を見合わせて不安を分かち合った。
父の復帰運動は芳しくなく、これからも見通しは厳しい。それが母と私の共通認識だったから、出ていけと言われても行く場所なんてないし、資金だってない。
ところが、応接間から戻った父は意外にも私の方を見た。
「……セレナ、お前に来客だ」
少し渋い顔をしていたけれど、少なくとも追い出される話ではないのだと少しだけ安心した。
追い出すだけなら、私を呼ぶ必要はないはずだ。
でも、私に何の用なんだろう。首を傾げる私に、父は無言で母の隣に座り、腕を組んで目を閉じた。
自分で聞けということらしい。不安そうに見送る母と妹の視線を感じながら、私は応接間へ続く扉を開けた。
扉を開けると、年配の男性が立っていた。
品のある顔立ちに、整った身なり。きっと、中央でも通用する執事なのだろうと思った。
「初めまして、セレナ・アルマール殿。私は辺境伯閣下にお仕えしております、ライムンドと申します」
その一礼は見事で、思わず見とれてしまうほどだった。慌てて私も頭を下げる。
「突然の訪問、どうかお許しください。実は、こちらの村でのご活躍を耳にいたしまして。閣下より、あるご依頼を賜っております」
「……活躍、ですか?」
「ええ。村人に文字や計算を教えていらっしゃることです」
もしかして、それが問題視されたのだろうか。
貴族の中には、民が知識を持つのを快く思わない人もいると聞く。
無知な方が統治しやすいのだそうだ。なんだか、動物のように扱われている気がして、私は好きではない。
辺境伯もそういう考えなのだろうか。
「私にできることをしているだけです。生活のために……」
まずは控えめに探りを入れる。もし悪く思われているのなら、やり方を改めなければならない。
やむを得ず、という姿勢を示すのが、貴族社会で生きるすべだと思っている。
けれど、ライムンド氏は穏やかに首を振った。
「いえいえ、ご謙遜を。村長さんも大変感謝しておられますし、我が主も高く評価されています」
「……ありがとうございます」
評価されている……? なにやら引っかかる言い方だった。
「それで、ご依頼の内容ですが」
「あ、はい」
「閣下のお嬢様――カルロータ様の教育係をお願いしたいとのことです」
「……ああ」
なるほど。噂で聞いていた。カルロータ様は今年十歳になる、暴れん坊で有名なお嬢様だ。何人もの教師を追い出したとか。
きっと私のことを読み書きができると聞きつけ、捨て駒のように使うつもりだろう。父が渋い顔をしていたのも、そのせいだ。
けれど、人に何かを教えることは、私にとってやりたいことでもある。
それが、難しい子相手だったとしても、試してみたいと思った。
それに、借家住まいの私たちは、館の主人に逆らえる立場ではない。
「いかがですかな?」
そう言われて、断るという選択肢はなかった。
辺境伯の館に到着したのは、それから数日後の午後。
石造りの重厚な門、庭に咲く花々、そしてあまりにも大きな館。
王都で過ごした家よりもずっと大きい。
中央とは違う、どこか重苦しい空気に思わず息を呑んだ。
門番に名を告げると、やがて小間使いが現れ、無言のまま館の中へと案内された。
エントランスに迎える人もなく、淡々と進む廊下。
掃除のメイドらがちらほらと見えるだけで、館の人たちの関心は私には向けられていないようだった。
案内されたのはカルロータ様の私室。
辺境伯閣下にご挨拶するのが先ではないかと尋ねると、あいにくお留守だと。
いつ消えるか分からない家庭教師候補になど、挨拶する必要はないということなのだろう。
「こちらです」
小間使いが扉の前に立った。少し傷のある扉に、苦笑いしそうになる。
ノックの音の後、扉がゆっくりと開かれた。
中には、一人の少女がいた。
腕の立つ職人が丹精込めて織り上げたような、光り輝く銀色の髪が目に入った。
織物だとしたら、こんなに美しいものは王都でもそうは見られないだろう。
太陽の光を浴びて眩しくきらめく長髪は、腰のあたりまで伸ばされていた。
そして、それに反して飾り気のない服。私たち下級貴族の普段着よりと同じか、それ以下の材質のように見える。装飾品もなく、模様もない。薄い青一色だ。
ギロリと突き刺すような瞳はコバルトブルー。ややつり目がちで、鋭く敵意に染まってじっと私を見据えていた。
小さな体からあふれる気迫は、年齢以上のものを感じさせた。
「初めまして、カルロータ様。私は、セレナ・アルマールと申します。これからよろしくお願いします」
少女はただ、じっと私を見ていた。
あどけない顔立ちに似つかわしくないほど強い視線。
「……ふん。別に、あんたなんかに教えてもらわなくたっていいんだから」
その声の奥に、かすかな怯えがあるように感じた。
「そうかもしれませんね。でも、私はあなたとお話ししたいです」
その言葉が、この子の心に届くのは、きっともう少し先のことだろう――。
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