第十二話 辺境の少女は未来を知る
(この話からセレナの視点に戻ります)
空が白み始めた頃、私は人々の背に紛れて、城門近くへと足を運んだ。
少しだけ暑さが和らいだ朝の空気が頬を撫でる。今日もまだまだ暑いだろうなと辟易しながら、私はカルロータ様のお姿が見える場所までやってきた。
遠目に、カルロータ様とご一家、見知った侍女や侍従、そしてルシアもいた。両親と話している。
今日、カルロータ様が王都へ旅立つのだ。
辺境の地で育った、一人の少女がいた。
少女は、世界の暗さに恐れ、しゃがみ込んだまま泣くことしかできなかった。
だが、少女は誰よりも未来を信じていた。前を向いて、歩いて行きたかったのだ。
だが、世界はとても真っ暗だった。
ランプの灯し方も、その使い方も知らず。
歩き方を教えてくれる者さえいなかった。
そんな、少女だった。
そんな少女だったから、ほんの少し、手を差し伸べるだけでよかったのだ。
歩き方を教えて、ランプの使い方を教えただけだ。
それだけで、少女はひとりで方向を確認し、足元を見ながら、まっすぐ行きたい方向へと進んでいった。
大したことは何もしていない。
本人が慕ってくれるのは嬉しいけれど、他人からの過大な評価はどうもくすぐったい。
だから私は少し離れた場所で、彼女を見送る。
そうすることで、一人、感傷に浸れるというのもあった。
八歳からお仕えして、はや八年。
あんなに小さかったお嬢様が、今では立派な淑女だ。
本当に感慨深い。
背筋をまっすぐに伸ばしたカルロータ様の足取りには、少しの迷いもない。
昔のように手を引かなくても、あの子はもう、自分の足で歩いていけるのだ。
それでも迷うようなことがあれば、隣に、私の妹であるルシアがいる。あの子がいれば、必ずふたりで乗り越えていける。
カルロータ様にとってルシアは、誰よりも信頼できる侍女であり、かけがえのない友だ。
――大丈夫。
あのふたりに、私の手は要らない。
それは、誇らしくもあり、どこか寂しくもあった。
カルロータ様がご両親と弟君のもとへ歩み寄る。
辺境伯は言葉少なに娘の肩を抱き、夫人は言葉を選びながら何かを告げた。
弟君は、無邪気にカルロータ様に抱っこをせがんでいる。
やはり、あのおふたりは間に入る人物に問題があっただけで、基本的には仲が良い。
カルロータ様が都に上ることが決まってから、利害関係がなくなったので、カルロータ様も弟君とよく遊ばれるようになっていたのだ。
深く息を吸い、彼女は顔を上げる。
望まれて王都に行く、誇り高い顔をしていた。
決して振り返るまいという決意に満ちていた。
その後、ライムンドさんをはじめとした家臣団。ありがたいことに私の両親とも短いながら言葉を交わしてくださり、最後になぜか見送りに来ている民衆へ別れの挨拶を。
その光景を、私は人波の隙間から黙って見つめていた。
ルシアが時間を告げ、やがて馬車の扉が開かれる。カルロータ様が段に一歩足を踏み入れた。
その前に、ほんの一瞬だけ、彼女は振り返った。
目が、合ってしまった。
こんなことがあるだろうか。
カルロータ様はおそらく、最後にと民衆の中に私の姿を求めた。そして目が合った。
まさか。こんなことは物語の中だけで起こることだと思っていたのに。
十分に別れは済ませたつもりだったが、それでも、もう一度その空気を感じたいと願ってしまった。
段から降り立ち、こちらを向き直った。周囲が不審に思う中、ずんずんとこちらに向かって歩いてくる。
海が割れるように、私のところまで道ができた。
「水くさいんだから。最後まで控えめよね」
大きな声で咎めるような視線が、私を縛り付けた。別に逃げ出そうなんて考えてもいないのに、私は動けなかった。
「……先日、お別れは済ませましたので」
そう言いながらも、私は、自分の顔が緩むのを止められない。
ついに目の前までいらっしゃった。今日はお化粧をしているので、いつも以上にお綺麗だ。
「セレナ。いままで、本当にありがとう。行ってくるね」
「はい。いってらっしゃい」
軽いハグを交わす。
そして、カルロータ様は馬車へと戻られた。
「……もっと話せばよかったのに。もしかすると、今生の別れやもしれんぞ?」
いつの間にか両親が側まで来ていた。一部始終を見ていたのだろう父は、心配そうな顔をしていた。
「あれでいいのよ。この前、別れはすませたから」
「それでも、これが最後なんだぞ?」
政治には理想を追い求める父だが、こういう感情的なものには疎い。
もしかすると、起立、気を付け、礼をして、「今までありがとうございました」とでも言うべきだなどと考えているのかもしれない。
式典ならともかく、このような場では不要だと首を振った。
「そういうものですよ」
「そうか……?」
母に指摘されても、首を捻っている。昔からそうなのだ。
そして、馬車が動き出した。
御者の声とともに、踏み固められた土を馬の蹄が軽やかに叩き、ゆっくりと門をくぐっていく。
人々が手を振り、声を上げる。
私は、静かに見送った。
昔の私は、こう思っていた。
育てた者が手を離れるのは、寂しいことだと。
けれど今は、違う。
あの子が、私の手を必要としなくなったことは、何よりも嬉しいことだ。
馬車が見えなくなったころには、空はすっかり明るくなっていた。
人々がぞろぞろと立ち去ってゆくのに合わせて、私も修道院に戻ろうとしたその時、辺境伯閣下のご一行に呼び止められた。
「ご無沙汰しております、辺境伯閣下。この度はご令嬢の名誉ある旅立ち、まことにめでたく、心よりお祝い申し上げます」
「うむ。これもみな、貴殿のお陰だ。よくぞ、カルロータをここまで導いてくれた」
「とんでもございません。私はきっかけを作ったに過ぎません。全ては、カルロータ様おひとりでなされたことでございます」
自分に功績などほとんどない。世間はさきほど閣下が仰った通り、私が上手く導いたのだと言う。だが、どう見られようと、カルロータ様が自ら立ち上がらなければ、今はなかった。
「いつぞやも同じことを聞いたな……まあ、良い。いずれにせよ、我が家は貴殿に深く感謝している。それは忘れてくれるなよ?」
五年ほど前か。カルロータ様のお側に、ルシアを上げるお許しを頂いた時のこと。閣下もあれからカルロータ様としっかり向き合われ、絆を再構築されたのだ。
これもそうだ。カルロータ様の努力がなければ、閣下もカルロータ様を見ようとなさらなかったはずだ。これが、事実だ。
閣下は苦笑いして、馬車に乗り込む。
「そのうち、修道院の途中報告を聞かせてもらう。ではな」
閣下たちをお見送りすると、城門の内側で立っているのはいよいよ私たちだけになった。
あとは行商人や旅人などが、町から出たり入ったりしている。
さきほどまで盛大なお見送りがあったとは思えないほど、町はいつもの姿を取り戻していた。
それでいいのだ。いつまでも感傷に浸っていても仕方がない。
カルロータ様は王都で、私はここで。それぞれの方向へ気持ちを向けて歩き始める。
「しかし……なんだな」
父が感慨深そうに鼻ひげを撫でた。
「セレナは王都から拒絶され、この地に落ち延びたが、その才知の結晶が、王都から望まれて凱旋するのか……胸が熱くなるな」
「追放されたのはあなたですけれどね」
母の容赦ないツッコミに、父はしどろもどろに言い訳を始め、私は思わず吹き出してしまった。
なるほど、そのような見方もできるのか。
王都から追放された私は、辺境の少女に未来を教えたのだ――。
ここまでありがとうございました。
20時頃、エピローグを投稿しますので、そちらもよろしくお願いします。