第十一話 開かれた未来へ飛び立つ
うだるような暑さが、今年はひときわ早くやってきた。
雨も降らなくなり、水路を流れる水の量も目に見えて減っていく。
誰もが日陰を求め、止まらない汗を拭っていた。暑くて仕事にならないし、かといって暑すぎるから昼寝なんてできるわけがない。
だからというわけではないと思うが、病床にあった辺境伯閣下がようやく回復され、政務を執られるようになった。
閣下が伏せている間、見事に名代を務め上げた我が主、カルロータ・デ・モンティエル様は、これ以上ないお褒めの言葉をいただいた。
さらに、閣下から請われる形で、引き続き家臣団の一員として、政務の補佐をすることにもなったのだ。
家臣団の一員。
それはつまり、跡を継がない、ということだ。
明言されなかったものの、この扱いは、カルロータ様が跡継ぎではないと雄弁に語っていた。
もし跡を継がせるおつもりなら、常に側に置いて閣下のなさりようを見せ、そのお考えを伝えるはずだ。
修行期間かとも思ったけれど、カルロータ様はすでに実践をされ、実績も上げている。跡継ぎとお考えなら、これ以降は閣下自ら育成されるに違いない。
少し残念な気持ちもあったけれど、女辺境伯というのはなかなか聞いたことがない。
戦に出ることもあるのだから、やはり跡を継ぐのは男子、つまり弟君の方が相応しいのだろう。
その方が、つまらない噂やあからさまな嫌がらせもなくなるのだから、良いことずくめではないか。
「私は、別に拘らないわ。やることは変わらないもの」
カルロータ様が魅力的な笑顔でそうおっしゃるのだから、私なんかが何を憂うことがあるだろう。私はただ、侍女としてカルロータ様についていくだけだ。
それは、ひどく暑い日のことだった。
閣下より呼び出しを受けたカルロータ様は、いつものように私を伴って執務室へと向かった。そこで、私たちは衝撃的な言葉を頂戴することになる。
「王太子殿下が、お前を側室に欲しておられる」
いつか見た、王太子殿下の意匠が施された手紙が、内容を見えるようにこちらに向けられている。
閣下は、まるで天気の話でもするように、理解不能なことを告げられた。カルロータ様も、ただ呆然と口を開けている。
「過日、視察使がいらっしゃっただろう。あの方がな、お前を保証してくださったのだ」
ああ、やはり。あの視察使は、ただの使者ではなかったのだ。
「……お父様、私は」
「お前は、王都でその才を活かせ。ここはお前には狭すぎる」
喜ぶべきことだとは思う。次代の王に求められるのだから、誇るべきことだろう。
カルロータ様は十五歳。適齢期だ。
見た目に至っては、もう論ずるまでもない。人が、息をする。それくらい、カルロータ様がお可愛らしいのは当然だ。
だが、だからといって、王太子殿下の側室?
残念ながら、正妻ではない。私が言えた義理ではないけれど、正妻の地位としては家柄が釣り合わないのだろう。
それでも、限りなく正妻に近い処遇を約束する、とその手紙には書いてあった。破格の条件だ。「政治面で我が道を照らして欲しい」とまで。
このような厚遇であれば受けざるを得ない、ではなく、「喜んで」と頭を下げるべきだろう。
しかし、それでもカルロータ様は、私室のベッドに潜り込んだままだった。
「カルロータ様……」
何度お呼びしただろう。今回もお返事は返ってきそうになかった。
ショックなのはよくわかる。望まれたとはいえ、いきなり王都へ、しかも王太子殿下の側室として招かれるのだ。
もし、王太子殿下の側室になったとしたら、恐らく二度とこの地には戻れない。その覚悟が、たった十五歳の少女にあるのだろうか。持てるものなのだろうか。
「……ルシア、このあと、修道院に行ってもいい?」
まあ、そうなるだろう。当然の申し出だった。私は、無言で頷き、控える侍女に先触れをするよう伝えた。
「ありがとう。ルシア。ごめんね」
「いえいえ」
面倒をかけて申し訳ないという意味なのか、それとも、別の意味が込められているのか。
ともすれば頭の中を占めそうになる余計な考えをなんとか隅においやり、この後のスケジュールの作り直しを行う。
我ながら、カルロータ様付きの侍女長という役割にだいぶ慣れたと思う。
侍女長を拝命したのは今年に入ってすぐのことだ。
どこの世界に十三歳の侍女長がいるのかと笑ってしまいそうになったけれど、これにはふたつの理由があった。
ひとつには、私が、カルロータ様より信頼を受けている数少ない人間であるということ。
もうひとつは、カルロータ様について多くを知っているということ。
このふたつの条件に当てはまる侍女が、辺境伯領内には他にいないという、いわば消去法で選ばれた侍女長なのだ。
私は、姉であるセレナ・アルマール子爵令嬢の提案により、八歳の頃からカルロータ様にお仕えしている。
以来ずっと、私はカルロータ様と寝食を共にしているようなものだ。約五年間の濃厚な付き合いという大きなアドバンテージに、誰が勝てるだろうか。ハンデ戦で勝たせてもらった、そんな感想しかない。
とはいえ、職位にはこだわらないものの、動きやすくはなるので、この職位をいただけるのは純粋に嬉しい。
私の人生は、カルロータ様のためだけにあるのだから。
それは確かに自らが選び取ったものではなく、さらにはお役目ゆえ、早熟さを求められたこともあったけれど、私は後悔などしていない。
唯一無二の存在に、これほどに頼りにされ、求められる人生など、他にあるわけがないのだ。
修道院に着いたカルロータ様は、待ちきれないとばかりに姉のところへ駆け出して行った。
どうしようもないことだ。それがいいのだと思いつつも、嫉妬してしまう。
恥ずかしく、情けなく思いながら、ゆっくりとついて行く。せめて、表面だけでも整えなければいけない。
果たして追い付いた先では、予想通り、母親に抱きしめられる娘がいた。
カルロータ様にとって、姉は母親代わりなのだから、これでいいのだ。たまにはこうして原点に戻り、心を癒やす必要がある。
私に気づいた姉は、少し苦笑いを浮かべながらも、カルロータ様を抱きしめる腕を緩めようとはしなかった。そりゃあね。母親だもの。
「……閣下も、思い切ったことをなさったものね。あとで演技お疲れ様とでも申し上げに行こうかしら」
カルロータ様の背を優しく撫でながら、姉はとんでもないことを言った。演技? 閣下の、病気が?
「ひとつの意見として、ね」
前置きした姉は、辺境伯閣下が療養されていた期間に対して疑問を呈した。
病気に倒れ、王都より使者が来た。求婚の書状が来る前に、お元気になられた。うがち過ぎかもしれないけれど、そこに計画された何かを感じないか、と。
「それは……まあ」
そう言われたらそうかもしれないけれど、病床にある閣下は本当におつらそうに見えたのも事実だ。
演技だったとして、二ヶ月間も飽きないだろうか。領内の政治を放り出してまでやるものだろうか。
「売り込んで、試してもらって、合格した、ってことよ」
「あ……」
姉以外の、誰もが同じような顔をしてしまった。期間がおおむね解っているなら、待っていられる。その間、政治が滞りそうなら裏から指示を出すこともできる。本当に病んでいるのではないのなら。
それが正しいかどうかはわからない。でも、考えようによってはぴったりと符合してしまうではないか。
「……ですが私は、カルロータ様を、王都でも通用するほどにお育て申し上げたつもりです。もちろんそれは、カルロータ様の努力あってこそですが」
カルロータ様を優しく慈しみながら、姉は確信を持って言う。
それは、これまでの実績が証明していた。我が主は、家臣たちの信頼も得て、民からも愛されている。
さすがに王都で一番、とまではいかないだろうが、それでも渡り合うことくらいは、できるのではないか。
「でも……」
「見違えるほど成長した愛娘を、王都に送り出したいと誇らしく思う親心を、私は支持しますよ」
「でもっ!」
修道院の鐘が打ち鳴らされたが、カルロータ様の叫びは全く負けていなかった。
全力をもって絞り出したかのような声は、切実で、悲しくて、寂しくて――魂からの叫喚だった。
「もし、王都に行けば、もう一生セレナに会えなくなる……私、嫌だ。そんなの嫌よ。セレナと離れたくない!」
ぼろぼろと、次から次へと溢れ出す涙を拭おうともせず、カルロータ様は姉を見上げ、いやだいやだと慟哭し続ける。
私も、いつしか涙を流していた。後ろからもすすり泣く声が聞こえる。
それに対し姉は、カルロータ様の頭に手を置き、優しく撫でた。人は、こんなにも優しい目をするのかと思った。
損得抜きの、心からの、純粋な、母から娘への愛がそこにあった。感動と、姉の大きさと、諦めと。たくさんの感情がごちゃ混ぜになって、訳が分からなくなって、私も泣いた。
「……私から飛び立ったと思っていたのに、まだ巣の周りを飛んでいたのね」
何度も頭を撫で、手ぐしで髪を梳く。白雪のようなその長い髪は、姉の涙に濡れて、あまりにも神秘的で、美しかった。
「だって……だってぇ」
「ねぇ、カルロータ。貴女の空は、こんなものじゃないわ。もっと大きくて、広い空を飛べるはずよ」
滝のように流れる涙を慈しむように指で拭い、願う。敬称なんて必要ない。本当の母娘がそこにいた。
「でも……」
「離れていても、私たちの絆は変わらないわ。ずっとあなたを、大切に想っているわ」
「……いいの?」
いつしか、涙は止まっていた。姉はにこりと笑う。
「ええ。安心して、いってらっしゃい」
「うん。行ってきます」
雨上がりの空は、どこか物寂しくて。でも、どこまでも、無限に広がっていた。
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