プロローグ この国にわたしの居場所はない
「お姉ちゃん、この言葉ってどういう意味?」
妹のルシアが、顔を上げて私を見た。私を映す蜂蜜色の大きな瞳が、くりくりとしてとてもかわいかった。
私、セレナ・アルマールは優しく微笑みながら、ペンを止めて文字を指し示す。
「ここはね……こういう意味よ」
ゆっくりと、言葉を選びながら解説する。
隣の椅子に座るルシアは、まだあどけなさの残る声で「ふーん」と小さく唸り、何度も頷いた。
午後の春光が机を温かく包み込んでいた。
窓は開け放たれ、カーテンが風に揺れる音だけが静かに流れる。
私たちは、肩を寄せ合いながら、分厚い本の文字を追っていた。
それは、貴族の子弟が初等教育に使う教科書だ。大きな文字と比較的易しい内容は、まさに勉学を始めたばかりの子どもたちにちょうどいい。
ページの端にはルシアの覚え書きが書き込まれ、使い込まれた感触が伝わってくる。
「ね、お姉ちゃん。この問題はここに線を引いて分けて考えたらいいの?」
ルシアが真剣な顔で尋ねると、私は少し驚き、それからすぐに笑顔になり、大きく頷いた。
「そうよ、よく気付いたわね。偉いわ」
これに気付くとは覚えが早い。嬉しくなってルシアの頭を撫でると、ルシアは嬉しそうに、にぱりと笑った。見事な三日月だった。
淡い栗色の髪が風に揺れ、まるで花びらのように柔らかく弾んでいる。いつまでも撫でていたかったが、我慢だ。
どうも、撫で続けると髪が傷むらしい。母親から再三強く言われている。
自分も栗色の髪を長く伸ばしているが、撫でてくれる相手もいないので傷む、という感覚がよく解らない。
窓の外に目をやる。
幼い頃から、本の世界に没頭した自分の姿が浮かんだ。今のルシアのころにはすでに父からたくさんの書物を与えられていたように思う。
父は、昔から理想に燃え、教育熱心だった。
政治とは民をいかにして守り、富ませるかが大切だから、その方法を考えるためにはあらゆる知識を身につけなければならない。
そう教え込まれ、そういうものだと信じた。
民のため、将来は父とともに政治に携わりたいと思った。今でもその思いは変わっていない。
だから私は、必死で勉強した。王立の学園でも五指に入る成績を収めて卒業した。
なのに、どこも私に声をかけてくれなかった。
自分から売り込みに行っても、首を縦には振ってもらえなかった。
――理由は、いくつもあっただろう。
だが、それを言っても仕方がない。変えようのない事実がそこにあるのなら、それは受け入れるしかない。
むしろ、そのおかげで可愛い妹を自ら教えられるのだから、それはそれで幸運だ。ルシアが学園に入るまではこのままでもいい。
六歳にして勉学を始めてもうすぐ二年になる。遊びたい盛りのはずだが、しっかりと勉強に向き合えているのは、良くも悪くも私に似たのだろう。
こんな穏やかな時間が、ずっと続けばいいのに――。
意外と、人を教えるのも楽しいかもしれない。
そんなことを思いながら、目を閉じ小さく息を吐いたその時。
静かに、どこか遠慮がちに扉がノックされた。
「……セレナ。少しいいか」
父の声だった。だが、その声にはいつもの元気がない。
はて。いつもなら父はこの時間、政務に励んでいるはずなのだけれど……。
首をかしげながら扉を開けると、そこには疲れ切った表情の父がいた。
いつもは冷静沈着な父が、感情の整理ができないまま、私たちの前に立つなんて。
これは、ただごとではない――嫌な予感が胸をよぎった。
「……どうされたのですか?」
聞きたくないな、とは思うが聞かなければ言われるだけだ。仕方なくこちらから尋ねる。
自分の声が、震えていた。
ふと、ルシアの存在を思い出す。恐らく、良くない内容だ。こんな話を聞かせていいのだろうか。
振り返ると、蜂蜜色の瞳が不安げに揺れていた。
当然だ。この時間は一緒に勉強していると母から聞かなかったのだろうか。
「場所を、変えますか?」
言いづらそうにしている父に問いかける。
「いや、ルシアにも聞いてもらう」
私の右腕に、幼く細い両腕がするりと巻き付いた。こんな時でなければデレデレしてしまうところだ。
少し震える彼女を安心させるため、抱きしめようとかがんだところに。
「失脚した」
時が止まった。
何度も瞬きを繰り返す。意味は知っているのに、その重みがまだ頭に落ちてこない。
父が失脚……父、失脚。言葉遊びをしているように感じられた。
右腕に絡む力が強くなった。
強風の日には大木にしがみつくわよね……などと、馬鹿な事を思って。
「失脚?!」
ようやく、言葉の意味がはっきりと腑に落ちた。
改めて私はルシアを抱きしめる。とんでもないことになった。ひどいことを準備もさせずに聞かせてしまった。
彼女の心に深い傷を残さないか、そこだけが心配だった。
それは、外部から見ることができない心の部分だ。
本人も今は、幼すぎて解らないだろう。解ったときには治せない傷となって苦しむことになるのだ。
「どうして、そんなことに……?」
少し戸惑いながら、恐る恐る尋ねる。
「誰も賛成してくれなかったんだ。どうしてか、わからない。誰も民のことを考えていないのか」
悔しさで声が震える父。
だが、セレナには理解できた。
理想を追い求め、根回しをしない父は、煙たがられたのだ。
民のために、より良い政治を求めただけなのに。
まるで、王都が私たちを拒んでいるようだった。
だが、実際は違うのだろう。
王都にとって、私たち貧しい子爵家など、取るに足らない存在なのだから。
まるで、大自然の前の人間のように。
私たちは、がけ崩れに巻き込まれた登山者のようなものだ。
父だけでなく、私もそう。
王立学園では並み居る高級貴族の子弟を差し置いて、優秀な成績を収めた。
その成績で王宮に上がり、政治の世界に入ることを望んだのに、果たされなかった。
「子爵の令嬢なんて採用しない。伯爵家の次男や三男で十分だ」
これが、一番マイルドな断りの言葉だった。
父の理想に憧れ、私もそうなりたいと願った。
願い、自分を磨き、スタートラインに立つことができたと自負している。
それなのに私はどこからも声をかけられない。
むしろ、社交界にデビューしろ、早く婿を取って跡継ぎを産め、などと。
どうして私は、父とともに、民のために政治をしてはいけないのだろう。
私の生まれ、性別、家柄――。
それら全てが、私に立ちはだかる。
それをがけ崩れだと諦められるのだろうか。
私にはできない。
私は、私であるというだけで、王都から拒絶され、追放されたのだ――。
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