番外編:あなたを選んだあの日の私
読んでくださりありがとうございます。
番外編最終話です。
「最近仕事が忙しくて、帰るのも遅くなってごめんな。ようやく落ち着いてきたから、来週からはもう少し早めに帰れるようになる。そしたらゆっくり二人で過ごそう」
涙で顔に張り付いた髪をそっと取り除かれて、まるで幼子をあやすかのように額に唇を寄せられる。
「俺の方こそ、離れていかないで。また出て行くなんて言わないでほしい。葵がいないと俺はダメなんだよ……仕事だって、葵がいるから頑張れてるのに」
「出てなんて行かない。俊がいないとダメなの、もう俊がいないと私……」
「葵……」
「よりを戻した時、前みたいに好きじゃないって言ったけど、今はもう……」
そこから先の言葉に詰まってしまう。
涙がいっぱいに溜まった目で彼を見つめると、再び顔が近づいてきてキスされた。
思えばこうしてキスをしたのも久しぶりだったかもしれない。
懐かしい唇の温もりに溺れてしまいそうになる。
「葵、嬉しい。好きだよ。愛してる」
「っ私も……私も愛してる」
だが私の心の中には、まだ燻っているもやのようなものがある。
「でも……待って、あの人のことちゃんと聞いてない……」
「あの人って?」
「若宮さんのこと」
「あー、そうだったな。ごめん、ちゃんと話してなくて」
今すぐベッドを共にしたかったであろう俊は、出鼻を挫かれたことで僅かに唇を尖らせたが、すぐに彼女との関係を語り出す。
「あの人は俺の会社に半年くらい前に派遣で入ってきた人」
「……すごく仲良さそうだった、とてもお世話になったって……」
普通に考えれば、家に行って上着を忘れてくるくらいの仲はただの同僚の関係のはずがない。
果たして俊はどう答えるのだろうか。
彼のことを信じたい気持ちが大きいが、あの女性から受け取った紙袋の中身が証拠のような気がしてしまう。
だが今こうして目の前で触れ合っている俊が嘘をついているようには、とてもではないが見えなかった。
「それ意味わかんないんだけどさ、聞かれたことを一回答えただけだよ。席も遠いし元々そこまで接点もない」
「じゃあなんであの人が俊の上着持ってたの……?」
ついに核心に迫る問いを口にしてしまった。
次に彼の口から語られる言葉でようやく真実が明かされるのだが、どうしようもなく不安で仕方ない。
手足から血の気が引いていき、恐ろしいほどにひんやりと冷たく痺れていく。
私が思わず両手をさするように擦り合わせたのを見た俊は、自らの大きな手で私の手をそっと包み込む。
先ほどまで彼の手も冷たかったはずなのに、今では温かみを帯びていた。
「ちょっと前に会社のみんなで飲み会があったんだよ。その時に若宮さんがベロベロに酔っ払っちゃってさ。同期のやつ何人かと一緒に抱えて家まで送り届けたわけ」
「え……じゃあ家に行ったっていうのは……」
「その言い方も意味わからなすぎるけど、玄関先で解散だよ。しかも俺以外にも何人もいたからな。葵が心配ならそいつらをここに連れてきてもいい」
そう話す俊の言葉にやましいことはないのだとわかった。
「じゃ、じゃああの上着は?」
「送り届ける途中で吐いちゃって、俺の上着にかかったの。片付けついでにそのまま処分していいって言ったんだけど、まさかこんなことしてくるとは思わなかった」
「な、なんだ……」
ただ私が勝手に思い込んで心配していただけだったのだ。
途端にホッとしたのか体の力が抜けていき、隣に腰掛けていた俊の方へともたれかかる。
彼はそんな私の様子に一瞬驚いたような顔を見せた後、すぐに優しい微笑みを浮かべる。
そしてそのまま私の腰に腕を回して自らの方へとさらに引き寄せた。
「ごめん、誤解するよな。あんなこと言われて上着も見せられたら。きっと不安になって泣いてたんだろ? 本当にごめん」
「ううん……私もあの人の言うことに惑わされて、俊のこと信じられてなかった。誰よりも俊のことを信じなきゃいけなかったのに……ごめんなさい」
「俺には葵だけだから。変なことするなって、ちゃんと会社で若宮さんに伝えるよ」
「それは嬉しいけど、あんまりあの人と話さないでほしい……」
これ以上彼女と俊の間に接点が増えていくのは嫌だった。
同じ会社ということもあり完全にその関係を断つことは不可能だが、できる限り会話をすることは避けてほしいというのが本音である。
──絶対に若宮さんは俊のことが好きなんだ。
俊は女性にモテる。
それは知り合った高校時代から変わっていないし、私もよくわかっているつもりだ。
きっと若宮さんも同僚として知り合った俊に惹かれてしまったのかもしれない。
でもたとえ私の命と引き換えだったとしても、俊のことだけは誰にも譲ることはできないのだ。
「俊……抱きしめてほしい。もっと強く抱きしめて……」
「葵……」
彼は私の言う通り、強く体を抱きしめる。
その力で体がしなりそうになるのを力強い腕によって支えられていた。
「もう二度と葵は戻ってきてくれないかもしれないって思ってたから。今お前が隣にいるだけで、俺は信じられないほど幸せなんだよ」
だから、とさらに彼は言葉を続けた。
「こうやって葵が嫉妬して、甘えてくれるなんて幸せすぎて頭がおかしくなりそう」
「何それ……嫉妬なんてしたくない」
「わかってる、わかってるけど。葵も俺のこと好きでいてくれてるんだって……」
それだけ告げると、彼は私の髪の毛を耳にかけるようにしてそのまま再びキスをする。
「少し痩せた……?」
突然彼はそう言って心配そうな表情を向けてきた。
実際俊の言う通りで、ここ最近はあまり食欲がなく体重は減少の一方であったのだ。
「色々考えすぎちゃってあまり食べれなかったの」
これも本当のことである。
俊の帰りが遅くなり、彼と過ごす時間が一気に減ってしまったことがきっかけで、私は彼と別れることに至った辛い過去を頻繁に思い出すようになっていたのだ。
別に浮気をされたわけではない。
何か決定的になるひどい裏切りを受けたわけでもない。
だが長い年月をかけて私の心に重なっていった悲しみは、自分でも想像もできないほどのトラウマとなっていたようで。
また彼の態度が変わるのではないか、今度は自分が振られてしまうのではないか、理由もなくそんな不安ばかりに襲われていたのだ。
「ごめん……」
「謝らないで! 俊のせいじゃない。私が昔のことをいつまでも忘れられずにいたから……俊はもう悪くないの」
「葵が不安にならないように、俺ずっと頑張るから。だから葵も何かあったら抱え込まずにちゃんと話してほしい。わかった?」
「わかった……」
私たちはただただ互いを求め合った。
これまで感じていた不安が嘘のように消えてなくなり、代わりに温かな膜に包まれたかのように感じる。
「葵……好き」
「ふふ。今日の俊、なんか変だよ。いつもはそんなに好きって言わないのに」
どちらかというといつも彼は態度で示す方で、照れ臭いのかあまり甘い言葉を囁くことはない。
だが今日は先ほどからこれでもかというほどの甘い台詞を浴びせられ続けていた。
「普段恥ずかしくてあんま言わないけどさ……葵のこと不安にさせたくないから。本当にお前のことが好きって、わかってもらいたい」
「俊……」
「絶対離さない。本当は今すぐ結婚したいくらいなんだ、だけどプロポーズは色々と考えたくて……よりも戻したばかりだしさ」
「うん、わかってる」
俊を少しでも疑ってしまった自分が恥ずかしいくらいに、彼は今でも変わらずに私のことを思ってくれていた。
それだけで十分に幸せなのだ。
それと同時に、俊にも不安を抱かせてしまっていたことを申し訳なく感じる。
口には出さないがこの数ヶ月間、彼はきっとその不安を押し殺して私の隣で笑ってくれていたのだろう。
「ごめんね、俊。私自分のことばっかりで……勝手に不安になって俊に酷いこと言っちゃった……」
自分が悪いのだから涙は見せたくないのだが、自然と鼻の奥がツンとしてしまうのを必死に堪える。
するとそれまでソファに横たわる私の上に覆いかぶさるようにして寝ていた俊が、突然体を起こした。
これまであった温もりが急になくなったことで、空気に触れたところがひんやりと冷たくなる。
そのまま彼は私を見下ろすと、優しく微笑みながらこう言ったのだ。
「葵の正直な気持ちが聞けて、俺は幸せだから。もう何があろうと、きっと俺たちなら大丈夫」
「俊……」
俊はそれだけ告げると、額をこつんと私にくっつけてきたのであった。
◇
数日後、俊は会社で若宮さんに今回の件を注意したのだが、彼女から返ってきた言葉はまるで勝手なものであった。
『私だって長谷川さんのことが本気で好きなんです! お願いです、二番目でもいいんです』
そう言いながら縋ってきた彼女を、俊は冷たくあしらったらしい。
『すみません、俺もう大事な彼女がいるんです。将来のことも彼女としか考えられません。これ以上何かするようでしたら、本部に連絡しますので』
淡々とそう告げられた若宮さんは、涙を滲ませながら去っていった。
それでも彼女は諦めきれなかったのか、俊のカバンの中にピアスが片方入っていたり……なんてこともあったのだが、いつしかパタリとそんな行為もなくなった。
そしていつのまにか派遣の期間が終了したということで、俊の会社から姿を消したらしい。
それ以来私たちは彼女の姿を一度も見てはいない。
なぜ若宮さんが俊の家を知っていたのだろうか。
それも後からわかったことなのだが、どうやら俊と仲の良い同僚が二人で会話しているところを盗み聞きしていたらしく。
さすがに部屋番号まではわからなかったのだが、郵便ポストに貼られた名前で私たちの部屋まで辿り着いてしまったというわけだ。
「本当嫌な思いさせてごめん」
そんな一部始終を話してもらった後、キッチンで食器を洗っていたところを背後から抱きしめられる。
彼の言っていた通りしばらく続いた激務も終焉を迎え、ようやく私たちは以前の生活を取り戻しつつあった。
「謝らないで、俊のせいじゃないから。でもそれにしてもやっぱり俊はモテるんだね」
「は?」
「昔からそうだった。高校の時もたくさんバレンタインもらってたもんね」
サッカー部で女子からの人気が高かった俊から告白された時、これは夢ではないのかと何度も考えたことを懐かしく思い出す。
「葵こそ……」
「え?」
「いや、なんでもない。葵には俺だけ見ててほしいから」
俊は何か言いかけたように見えたが、そのまま口を閉ざす。
「ね、食器洗いづらいから少し離れて……」
「やだ。葵が足りない」
「もう……」
「なぁ葵。好きだよ」
「どうしたの? 突然そんなこと」
「正直言うと、まだ完全に葵がいなくなる不安がなくなったわけじゃない。でもこれから先も、葵となら大丈夫な気がする」
同じことを私も考えていた。
きっとこれから先、互いの仕事の忙しさで再びすれ違いの生活を送ることもあるだろう。
以前までの私ならば、また過去のことを思い出して勝手に不安になってしまっていたかもしれない。
今もその不安がなくなったかと言われたら嘘になる。
でも俊とならば、こうして手を取り合って乗り越えていける気がしていた。
「私も……今の私たちならきっと大丈夫だと思ってる」
「葵……」
「また不安になっちゃう時があるかもしれないけど……でもずっと俊のそばにいたい。俊のことが大好きだから」
抱きしめられる腕に力が込められた。
密着した体からは、早い間隔で刻まれる彼の鼓動が伝わってくる。
そんな私たちの様子を、キッチンの正面にあるテレビボードに置かれた二人の写真たちが見つめている。
高校生の時の二人が今の私たちを見たら、なんて言うだろうか。
きっと呆れて笑っているに違いない。
「ねえ、見られてるよ?」
「何が?」
「昔の私たちに。こんなところで何してるんだって」
言いながら思わず笑ってしまうが、俊から返ってきたのは意外にも真面目な言葉であった。
「この先色々あるけど、こうやって幸せになれるからって教えてやろう」
「え……」
思わず彼の方を振り返ると、真面目な顔をした俊に見つめ返される。
「俺とまたこうして付き合ってくれてありがとう。色々情けないところもあるけど、葵のこと好きな気持ちだけは誰にも負けないから」
やがて彼の顔が近づいてきて、キスされる。
一瞬だけ重なり合ってすぐに離れた唇がもどかしくて、私は自ら背伸びをして再び彼の唇を追いかけた。
写真の中の私にこっそり教えてあげたい。
あの時彼を好きになったあなたの気持ちに、間違いはなかったのだと。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
途中更新が遅くなってしまい、申し訳ございませんでした。
実は今二人の付き合いたての頃の話を書いているのですが、そちらはエピソードの内容的にムーン様限定になるかなと思います。
こちらの作品は初連載から一年半近く経過していますが、私が初めて書いた現代もので思い入れの深い作品となっております。
これを機にまた本編から読んでいただけたらとても嬉しいです。
ありがとうございました!