番外編:離れていかないで
更新が大変遅くなってしまい、申し訳ございませんでした。
番外編の続きになります。
「葵、風邪ひくぞこんなところで」
「俊……帰ってきたの?」
「遅くなってごめん」
気付けば時計の短針は一時を指している。
どうやらあのまま二時間ほど眠ってしまっていたらしい。
スーツを脱いでネクタイを緩めただけの俊が、心配そうにこちらを見下ろしていた。
サラサラの黒髪に精巧な顔つき。
連日の夜遅くまでの仕事のせいか目元には隈が浮かんでいるが、いつだって彼は私が大好きだったあの時のままの面影を残している。
「……葵、泣いてた?」
「えっ……」
「目が少し赤くなってる、ここ」
不意に俊が私の目元に手を触れた。
手を洗ったばかりらしくひんやりと冷たい指が心地よくて、思わず目を閉じる。
涙は堪えていたつもりであったが、知らないうちに泣いたまま眠ってしまったのだろうか。
「何かあった?」
心配そうに私を見下ろす俊に対して、先ほどの女性とのやりとりを正直に話すべきかとても迷う。
もしも本当に彼があの若宮という女性と親密な関係であったのなら……。
私が今その関係を問いただすことで、彼は私に別れを告げるのだろうか?
それともなんでもないと誤魔化すのだろうか?
自分から別れのきっかけを作ってしまうかもしれないという事実が怖い。
もし彼から別れを告げられるくらいならば、このまま見て見ぬふりをして何事もなく過ごした方がマシなのかもしれない。
「何もないよ。早く着替えて俊も寝たら? きっと明日も早いんだろうし……今お茶でも淹れるね」
何事もなかったように平然を装いソファから起きて立ち上がると、キッチンに向けて足を踏み出す。
すると、突然背後から手首を掴まれた。
「待てよ葵。なんでもない顔じゃないだろ」
そしてそのまま後ろへと腕を引っ張られ、包み込むようにふんわりと抱きしめられる。
後ろから抱きしめられているため、俊が今どんな顔をしているのかはわからない。
──私の大好きな香り……。
少し汗の混じったようなその香りは、いつもの俊と同じ香りだった。
「話して。どうした? なんか嫌なことあった?」
耳元でそうかけられる声色はとても優しくて、その優しさで我慢していた気持ちが溢れ出しそうになってしまう。
「……若宮さん、て……誰?」
「え? 若宮さん? なんで葵が知って……」
「誰なの……? 俊の新しい彼女なの……」
「は? 彼女? ちょ、ちょっと待って葵っ」
慌てたような声が聞こえたかと思えば、すぐにぐるりと体の向きを変えられる。
俊と向かい合うような形になったが、今の私はきっと醜い顔をしているはず。
俊にそんな姿を見られたくなくて、思わず俯いた。
しかしそんな私の両頬を手で挟むようにして彼は自分の方を向かせる。
隠しきれない涙が目尻を伝い、俊の手のひらを濡らした。
「何を勘違いしてるのかわからないけど、俺の彼女は葵だけに決まってるだろ。これから先もずっとお前だけだよ」
諭すようにそう告げられると、そのまま触れるだけのキスをされる。
しかしそれでは先ほど彼女が言っていたことはどうなるのだろうか?
自分の家に俊が来たという話は?
現に彼女は俊の上着が入った紙袋を持ってきたではないか。
全く接点がないわけがないだろう。
「……なんで家に行ったの?」
「ん?」
視線を下に落としながらそんなことを呟くと、俊は何のことを言っているのかわからないとでもいうような顔をした。
「若宮さんの家に行ったんでしょ? わざわざ忘れ物届けに来てくれたんだよ」
「はあ? 何、あの人ここに来たのか?」
俊は家に行ったということを否定しなかった。
彼のその反応は私の心に再び黒い影を落とす。
「私のこともう好きじゃなくなった? だから最近帰りも遅いの? 終電逃したって言ってた日は若宮さんの家に泊まってたの!?」
「お、おい葵落ち着けよ。話を聞けって」
知らず知らずのうちに溜まっていた不安が、この出来事をきっかけに爆発する。
「最近あんまり俊と話せてない。一緒にご飯も食べられてないよ……やっぱりより戻したら、違うなって思った? 違う女の人の方がよくなった? 私じゃ、だめなの……?」
自分でもかなり面倒な女になっているという自覚がある。
仕事で帰りが遅いのを責めるだなんて、してはいけないことなのに。
だが過去の出来事が私を不安の渦に突き落とす。
一人で隠れて泣いた日々が蘇り、もう二度とあんなに惨めで辛い思いはしたくなかった。
「私、言っちゃダメなことばかり俊にぶつけてる。こんなこと言いたいわけじゃないのに……。俊の彼女でいる資格なんてない……」
「葵! 話聞いて」
ぎゅっと力強く抱きしめられた。
嗚咽が止まらずにしゃくり続ける私の頭を、宥めるように優しく撫でてくれる。
この優しい大きな背中を失ってしまうことが怖くて、私は彼の背に両腕を回して抱きしめ返す。
「俺葵のこと好きな気持ち、あの頃と全く変わってないよ。むしろ俺の方こそ、未だに葵がいなくなるのを恐れてる。あの日みたいに、また葵が帰って来なかったら……って怖くなりながら葵の帰りを待ってる」
「俊……そんなこと今まで一度も……」
彼はそんな弱音を私の前でこぼしたことは一度もなかった。
関係を修復してからというもの、いつだって余裕がないのは私だけだと思っていたのだ。
彼もあの日のことをトラウマのように胸の内に抱えながら過ごしていたということを、私は初めて知ったのである。
「こんなこと言ったら、愛想尽かされて嫌われるかなって思ってた。だってそうだろ? 前別れたのは俺のせいなのに……」
私は無言で首を振ると、彼を抱きしめる腕にさらに力を込めた。
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