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俺と彼女の八年間とその後

お読みいただきありがとうございます。

最終話です。

『今までありがとう。荷物はそのうち取りに行く』


 長年付き合ってきた彼女からの突然の別れのメールは、俺を人生のどん底に突き落とした。


 彼女の中村葵とは、高校の卒業式の日に付き合い始めてかれこれ八年の付き合いになる。

 同じクラスで隣の席になったことがきっかけで仲良くなった葵はロングの黒髪をポニーテールにした活発な女子で、笑った顔がなんとも可愛く俺は一目惚れした。


 葵はいつも自分と俺が釣り合わないと話していたが、そんなことはない。

 常に明るい彼女に惹かれていた男子は多かったはずだ。


 葵と話していると時間があっという間で、一日の時間がもっと長ければいいのにと本気で願うほど、俺は彼女と過ごす時間が大好きだった。


 そんな彼女に勇気を出して気持ちを伝えると、ありがたいことに彼女も俺と同じ気持ちでいてくれたようで。

 俺は晴れて彼女と付き合うことになる。


 大学四年間の遠距離生活は辛かったが、それでも久しぶりに会う彼女の笑顔に癒されるために頑張って耐え忍んだ。

 彼女が辛い時には飛ぶように駆けつけたし、彼女も俺のサッカーや学校生活を全力でサポートしてくれた。


 そして大学卒業後は念願の営業職に就職することが決まり。

 葵も再び就職のために県内へと戻ってきたため、俺たちは離れていた時間を取り戻すかのように親の反対を押し切って同棲を決めたのだ。


 仕事に彼女に、まさに順風満帆。

 俺は調子に乗っていたのだと思う。


 そんな俺を待っていたのは、営業職故の洗礼。

 毎日毎日接待という名の飲み会続きで、終電帰りの日々。

 朝から晩まで上司や客先に気を遣い続け、仕事終わりも上司に居酒屋やキャバクラへと連れ回される。

 断ることなどできない雰囲気だった。

 

 仕事でもなかなか良い成績を出すことができず会社の中でも立場が苦しくなり、俺はどんどん追い詰められていく。


 そんな中でも葵はいつも優しくて明るくて。

 俺は彼女の笑顔に支えられながら何とか毎日仕事を続けていたのだが。


 ある日俺は仕事で大きなミスをしでかした。

 業績にもかなりの影響を及ぼしかねないミスに、もちろん上司は怒り心頭だ。


『ミスした分の損益を取り戻して来ない限りは、この会社にお前の居場所はないと思え』


 当時の直属の上司からはこう言われ、俺は自らのミスを挽回するためにより一層営業や接待に励んだ。

 だが結果は思うようにうまく行かず。


 今思えば既にこの頃空回りしていたのだろう。

 次第に家に帰る時間もどんどん遅くなり、終電に間に合わない日も増えた。


「俊、最近忙しそうだよね。体壊してない? 大丈夫? 俊が心配」


 もちろん葵にはかなり心配をかけたと思っている。

 だが当時の俺はそんな葵に苛立ちを覚えていた。


——お気楽だな。どうせ他人事だと思ってんだろ。


 何と歪んだ性格なのかと今ならば思えるが、あの時の俺は感情が壊れていたように感じる。


 葵の前では明るい自分を演じなければならないと思うと自然に家への足取りは重くなり、どんどん家から遠ざかってしまったのだ。



 そんなとき、俺は葵にとあることを尋ねられる。


「ねえ、結婚とか考えてる?」

「いや、今の生活に満足してるし忙しい時期だから、まだ別にいいかなと思ってる」


 俺は突然の動揺を葵に悟られたくなくて、スマホをいじりながら目線を一切上げることなく淡々とこう告げた。


「そっか」

「何? 結婚したいの?」

「……長く付き合ってるし、どうかなと思っただけだよ」

「まだ早くね? 俺ら二十五だぜ? 今どき三十過ぎとかで全然問題無いだろ」

「そう……そうだよね」


 葵の表情はよくわからなかったが、その声色からは少し落ち込んでいるように見えた。


 結婚のことを意識したことがないわけではない。

 結婚するならもちろん葵とがよかったし、彼女以外は考えられない。

 だが今仕事でこれほど追い込まれている状況の俺が、家庭を持つことなどできるのだろうか?

 葵と将来生まれてくるであろう子どもに責任も持たなければならないのだと考えると、今すぐ結婚に踏み切る気は起きなかった。


 彼女とはもう八年間も付き合っていて、いずれ結婚することは確実だろう。

 何も今しなくても、周りが結婚ラッシュを迎える頃に結婚すればいい。

 どうせ今だって同じ屋根の下で暮らしているし、結婚しているようなものだろう。

 あの時の俺は本気でそう思っていたのだ。


 その頃からだろうか。

 葵の様子が少しおかしくなり始めたのは。


 あれほどいつも笑っていた彼女が、ほとんど笑わなくなったのだ。

 貼り付けたような笑顔を見せることはあっても、俺が大好きだったあの時のような心からの笑顔は全くみられない。


 どこか俺に対して一線を引いたような、距離を開けたようなそんな態度をとるようになった葵に俺はますます苛ついた。


 加えて仕事はますます忙しくなるばかり。

 俺たちの間に生まれた溝は埋めることができないほど深くなってしまっていたらしい。


 そしてやってきた運命のあの日。


 予想よりかなり早く客先との飲みが終わった俺は、心なしかいつもより軽い足取りで葵の待つアパートへと戻った。

 

 ——今日は少し気持ちにゆとりがある。久しぶりに葵と一緒に寝るか。


 こんな自分本位な考えを持っていた俺は、相当おめでたいやつだったと思う。


 そんなことを頭で考えながらカバンから鍵を出して鍵穴に差し込もうとしたそのとき。

 向こう側から鍵が開けられ、急にドアが開いたのだ。


「俊」

「ただいま……って葵……? 何してんだよこんな時間に。しかもなんかいつもと雰囲気違くねーか?」


 ドアの向こうから顔を出したのは、葵。

 ……のはずなんだが、どうにもいつもと雰囲気が違うのだ。


「帰ってきたんだ」

「は? 当たり前だろ。客先との飲みがいつもより早く終わったんだよ」


 緩く巻いた茶髪を片側に流し、いつもよりも濃い口紅をまとった彼女がどうしようもなく色っぽく見えた。

 シンプルな服装が多かったはずなのに、体のラインが際立つスリットの入ったワンピースを着た彼女の姿になぜか強い焦りを感じる。



 ——こいつ、こんなに色っぽかったか?



 その焦りの原因が何だったのかはわからない。

 彼女が俺の知らない誰かになってしまったような気がしたのだろうか。

 その瞳には俺の姿など映っていないかのような、どこか達観した彼女の様子に気が狂いそうになる。


 彼女は俺のものだ。

 そんなよくわからない独占欲が俺の心を支配していく。


 しかし彼女は俺のことをさらりとかわして、あっという間にアパートから出て行ってしまった。

 何時に帰るのかもわからないと。

 相手は会社の同期だと言っていたが本当なのだろうか。


 他に好きなやつでもできたのか。

 葵に限ってそんなことはしないと心のどこかで思い込みたい自分もいて。


 彼女はまた俺のところへ帰ってくる。

 自分へ言い聞かせるという目的も兼ねて、俺は葵にメールを送った。


 そして俺は心のざわめきを感じながら、落ち着かない夜を過ごしたのだ。


 彼女が出かけてから数時間後、恐れていたことが起きる。

 葵から突然メールで告げられた言葉を見た俺は、頭が真っ白になった。


 メールの文面には、俺らの関係を終わらせる文字が並んでいた。


 ——嘘だろ!?


 意味がわからず必死に葵に連絡を取ろうとするが、全く繋がらない。

 スマホが壊れるのではないかというほどに何度も連絡を送り通知を確認している姿は、何とも無様だった。


 同棲していた部屋を見渡してみても、彼女が出て行く前と何一つ変わりはない。

 ほとんど身一つで出て行ったということなのか。


「葵、嘘って言えよ……」


 結局一睡もできぬまま、俺は葵に一方的に連絡を取り続けたのだ。



 次の日になっても葵からの連絡は全く無かったし、もちろん彼女が帰ってくることはなかった。

 恐らく連絡先も削除されてしまっているのかもしれない。


 ——気がおかしくなりそうだ。


 部屋中どこを見渡しても葵との思い出が蘇る。



「ねえ、今度ソファ買いに行かない?」

「今あるやつでよくね? どうせ二人だし」

「あれだと小さくて二人で一緒に座れないじゃん」

「二人で座りたいの?」

「座りたいけど……変な意味でとらないで!」

「ははっほんと葵可愛い。いいよ、買いに行こう」


 葵の希望で買いに行ったベージュのソファは、今の俺には大きすぎて落ち着かない。

 思えば最後に並んで座ったのはいつだろうか。


 ダイニングテーブルも家電も何もかも全てが葵と繋がっていて、それらを見るたびに俺はうまく息を吸うことができなくなった。

 どれほど息を吸っても胸が苦しい。


 そんなとき、ふと思い出したのだ。

 以前葵が欲しいと言っていた指輪の存在を。


 あの時の社会人一年目の俺には到底手を出すことのできなかったそれを、今では難なく手に入れることができるようになった。

 だがその代わりに何よりも大切な存在を失ってしまったようだ。


 こんなことになるなら、早く葵にプロポーズしておけばよかった。

 俺が結婚したかったのは、彼女しかいないのに。


 この期に及んでそんな自分勝手なことを考えているうちに、気付けば俺の手元にはその指輪があった。

 葵は荷物を取りにアパートへ戻ってくると言っていた。

 きっと俺が仕事でいないときに来るのだろう。


 少しでも葵に思いとどまって欲しくて、俺はその指輪をガラステーブルの上に置いておいたのだ。

 彼女への気持ちを伝えるメモを添えて。


 数日後、アパートには葵が来た痕跡が残されていたが、俺は愕然とした。

 いくばくか物が減ったリビング。

 そしてガラステーブルの上には置かれたままの紙袋と俺が書いたメモが。

 葵は受け取らなかったのだ。

 それは彼女なりの拒絶であると、さすがの馬鹿な俺にもわかった。


 取り返しのつかないところまで来てしまったのだと、ようやく悟ったのだ。


 それからはどうやって生活してきたかもはや記憶には無い。

 ただ会社にだけは必死の思いで行っていたが、相変わらずの上司や仕事内容に俺の心は限界を迎えた。


 あれほど憧れていた営業職に見切りをつけ、社内の別の部署への異動願いを出したのはいつだっただろうか。

 以前の俺ならば自分のプライドが許さなかっただろうが、今はそんなこともはやどうでもよかった。


 家に帰っても明るく迎えてくれる葵の姿はなく、真っ暗で荒れ果てた部屋が待っているだけ。


 しばらくして部署が異動になってからは時間にも余裕ができたことで、これまでのことを振り返る気持ちの余裕も出てきた。

 思い返せば葵には数えきれないほどひどいことをしでかしてしまったのだと、後悔に包まれる。

 

 今年の彼女の誕生日を、俺は祝ったのだろうか?

 記憶にないということは、恐らく何もしなかったのだろう。

 というよりも、最後に彼女と共に食卓を囲み一緒のベッドで寝たのはいつだったのだろうか。


 俺は葵という存在に甘えきり、彼女のことをあまりにも蔑ろにしすぎていたのだと気付いた。


 すぐにでも彼女の元へ行き謝罪したい気持ちに駆られたが、きっと今俺が会いに行ったところで拒絶されるのが目に見えている。

 新しい部署でしっかりと基盤を築いてから葵を迎えに行こうと思い、仕事に励んだ。


 その一方で私生活は乱れがちになり、日に日に部屋は荒んでいく。

 ただの当たり前の日常生活の中で葵がどれほど大きな役割を果たしてくれていたか。

 葵のいない部屋は落ち着かないし、何のために働いているのかもわからなくなってくる。


 そんな生活を二ヶ月ほど続けて、俺は葵が抱えていた苦しみを身をもって痛感した。

 葵はもはや俺の元へ戻ってくるかもわからないのだ。

 姿の見えない相手をひたすら待っていることがどれだけ虚しく苦しいことか、今ならよくわかる。

 俺はたったの二ヶ月でこのざまだ。

 葵はこの気持ちに何年も耐えてきたのだと思うと、申し訳なくて呼吸がうまくできないほど一人で泣いた。


 本当なら俺は身を引かなければならなかったのかもそれない。

 葵の幸せを心から祈るなら、自分のような男は葵の邪魔になる。

 だが我儘な俺はどうしても葵のことを手放す決心ができなかったのだ。


 葵はもはや人生の一部であり、彼女こそが生きがいであった。

 何て気付くのが遅すぎたのだろうか。


 ——少しでも葵と話したい。


 そんな微かな希望を胸に、俺は葵の職場へと足を運んだのである。




 二ヶ月ぶりに見た葵はますます綺麗になっていて、俺と付き合っていた時の翳りがなくなり元の明るい彼女へと戻っていた。


 そして彼女の隣に立つ男。

 馴れ馴れしく葵と喋りながら歩くその男は、葵の新しい彼氏なのだろうか。


 自分と別れてからたった二ヶ月の間にもう彼氏ができてしまったのかと、全身の血が煮えたぎるように熱くなる。

 それと同時に、なぜ自分はあれほど魅力的な女性をおざなりにしてちゃんと向き合ってこなかったのだろうかと自己嫌悪に陥った。


 その結果冷静に彼女に自分の気持ちを伝えるつもりが喧嘩腰になり、彼女にますます呆れられてしまう始末。

 隣にいた男はただの同僚であったらしく、とんだとばっちりであっただろう。


 それでも俺は彼女を諦めたくなかった。

 あんな街中で周りの人の目を気にせずに彼女への想いを伝えてしまうほどに、彼女に戻ってきて欲しかったのだ。



 俺の謝罪によって、葵は再びアパートに戻ってきてくれた。

 だが彼女は俺のことが好きだから戻ってきてくれたのではない。

 長年付き合った俺が壊れてしまうのを恐れたのだ。

 

 現に俺は彼女が再び家を出たまま戻ってこなくなることを極端に恐れ、毎日毎日彼女の存在をしつこく確認してしまう体たらく。

 自分が蒔いた種であるはずなのに、なぜ俺が被害者ぶっているのだろうか。

 だがこの関係を終わりにしたら今度こそ葵は手に届かない場所へと離れて行ってしまう気がする。

 たとえ彼女に愛されていなくても、同じ屋根の下で暮らすことのできる時間が少しでも延ばせるなら……。


 俺は必死に彼女にしがみついていた。


 そんな中彼女から切り出された二度目の別れ話。

 ……いや、今回はもはや付き合ってもいなかったのだから別れ話ですらないだろう。


 俺は泣いて謝り狂ったように彼女に縋った。

 するとこれまで涙を見せなかった葵が、叫ぶように涙を流しながら思いの丈を打ち明けたのだ。


 俺の誕生日に手料理を作って待っていてくれたこと、葵の誕生日に俺の帰りをひたすら待っていたこと。

 彼女の体を抱きしめながらその話を聞いていた俺は、聞けば聞くほど自分が嫌になった。


 これからの俺の人生を全て捧げて葵に懺悔していきたい。

 元通りになれるなんて思っていないけれど、葵のそばで彼女の人生を一緒に見ることは許されるのだろうか。




 葵は結局同棲していたアパートを出て、再度一人暮らしをすることを決めたらしい。

 いつまた彼女が俺の前から姿を消すのか、考え始めたら怖くてたまらなくなったが、俺は彼女の意思を尊重した。

 そしてその代わり毎日のように彼女の元を訪れることにしたのだ。


 最初は戸惑い呆れた様子の葵であったがいつしか二人で過ごすことにすっかり慣れたようで、以前付き合っていた時のような柔らかい表情を見せてくれるようになった。


「ねえ俊」

「ん?」

「なんか、私今ものすごく幸せかも」

「え……」

「こういう何でもない日が一番幸せだよね」


 食後にコーヒーを飲みながら、そう言ってふんわりと微笑む葵の姿に、再び涙腺が緩みかけたことを彼女は知らない。


 彼女と復縁したい。

 だが散々彼女を傷つけた自分からはどうしても言い出すことができない。

 ただ月日だけが流れていき、俺と葵が初めて付き合い出してから九年が経とうとしていた。


 そんな中で迎えた俺の二十八歳の誕生日。

 朝から仕事に出かけた俺は、特に何も変わらぬ一日を過ごして葵の家へと向かった。


「明日ご飯作るから、うちにおいでよ」

「まじ? 葵仕事あるのに大丈夫なのか?」

「大丈夫。明日は定時上がりだし」

「じゃあ行く! 本当楽しみ!」

「ほんと、大袈裟」


 そう言って笑った葵の顔を思い出すだけでにやけそうになる。

 俺の大好きだったあの頃の笑顔には及ばないが、最近少しずつ彼女の笑顔が増えてきた気がするのだ。

 もっともっと、笑って欲しい。


 そして仕事を終えていつものように葵の家のチャイムを押した。

 ドアから顔を覗かせた葵は今日も綺麗で、本音を言えばこのまま押し倒してしまいたいほどだが必死に欲を抑えて何でもないふりをする。


 彼女に連れられてリビングへと向かった俺は、ダイニングテーブルの上に目をやると固まった。

 思考が停止したという表現が正しいのかもしれない。


 テーブルの上にはシャンパンボトルにペアのグラス、そして俺の大好物の葵お手製ロールキャベツと、チョコレートケーキ。

 さらにはスープやサラダも並んでいて、いつもの夕飯とは明らかに違うのだということを物語っていた。


「今日、誕生日でしょ? 二十八歳の」

「葵……」

「二人でお祝いするの、久しぶりだね」


 その瞬間俺は思わず葵を抱きしめていた。

 ふわりと香る彼女の甘い香りと柔らかい抱き心地に、思わず目を閉じてしまいそうになる。


 そして葵からの突然の告白。

 たとえ以前のような燃え上がる恋心でなかったとしても、彼女が俺のことを再びに好きになってくれて俺の隣にいたいと願ってくれただけで十分だ。

 さらに彼女は俺が大好きだった笑顔も見せてくれたのだ。

 俺はなんて幸せ者なのだろう。


 そして久しぶりに肌を重ねたことは俺にとってさらに幸せな瞬間だった。

 今こうして俺の腕の中で小さく丸まっている葵が何より愛しい。

 今度こそ、絶対に幸せにしてみせる。

 心の中でそう誓った。



 復縁してからの俺と葵の関係は穏やかで幸せなものだった。

 もちろんときおり葵の気持ちに余裕がなくなってしまうことはあったが、その度に二人で力を合わせて乗り越えてきたのだ。


 心の距離が開いていた数年間を埋め合わせるように、俺たちは色々なところへ出掛けて多くの思い出を共有した。

 その中で俺はいかにここ数年葵のことを見ていなかったかを思い知らされた。


 たった数年の間に葵はより一層大人の女性になり、好みや考え方も変わっていたのだ。

 にもかかわらず二十歳そこらの時の記憶を頼りに指輪を贈ろうとしてしまった自分が恥ずかしい。


「でも俊が買ってくれた物だから、嬉しいよ」


 優しい葵はそんなことを言ってくれるが、次はもっと今の彼女に合わせた指輪を贈ろう。


 いつしか俺は彼女へのプロポーズに向けての計画を立てるようになっていた。

 


「え、私の誕生日をお祝いしてくれるの?」

「ああ、本当はどこか出掛けてもって思ったんだけど、ちょっと仕事が長引くかもしれなくてさ。俺の家でお祝いしようぜ」

「大丈夫なの? 仕事は」

「大丈夫! 帰りにケーキとか買ってくるからさ、葵は何もしないで休めよ」

「わかった。ケーキ楽しみだな」

「ケーキはいつものやつがいいんだろ?」

「うん。いちごのタルトがいい、あの地下のお店の」


 葵は嬉しそうに笑っていて、その顔を見るとこちらまで釣られて嬉しくなる。


 葵にはああ言ったものの、実は仕事はちゃっかり定時に上がって準備を整えた。

 彼女のお気に入りのケーキに、俺の手料理の中で好きだと言ってくれていたトマトソースのパスタ。

 そして花束と、プロポーズのための指輪も忘れずに。


 案の定、仕事が長引いているはずだと思っていた葵は俺の家に来た瞬間驚いていた。


「え、何!? 仕事だったはずじゃ……」

「悪い。ちょっと嘘ついた。今年こそはちゃんと誕生日のお祝いをしてやりたくて……」

「俊……」

「葵、ちょっとこっち来て」


 俺は彼女の手を引いてリビングの中央へと連れて行く。

 

「夕飯食べる前に、聞いて欲しいことがあるんだ」


 葵の瞳が戸惑うように左右に揺れているのがわかり、その緊張が自分にも伝わってくる。

 だが深呼吸して気持ちを落ち着かせると、俺はゆっくりと口を開いた。


「葵と付き合ってから九年、楽しいこともたくさんあったけどそれ以上に悲しい思いもたくさんさせたよな。本当にごめん」

「もうその話は……」

「最後まで聞けって。でも俺はやっぱり何年経ってもどんな葵になってもお前が好きだ。葵以外との未来は考えられない」


 葵が息を呑むのがわかった。

 俺は用意していた指輪の箱を開けて、葵に見せる。


「愛してる葵。俺と結婚してください」


 何と言われるだろうか。

 彼女の反応が怖くて俯いたまま顔が上げられない。


「……でいいの?」

「え?」

「私でいいの?」

「当たり前だろ! 俺が仕事してるのも何もかも全部葵のためだから。葵、返事は……?」


 葵はポロポロと綺麗な涙を流すと、口元を手で押さえながら頷いた。


「ちゃんと、葵の口から聞きたい」

「っ……私も、俊と結婚したいっ……」

「葵……ありがとう」


 俺は指輪を取り出すと彼女の薬指にはめた。


「これ、新しく買い直したの?」

「ああ。より戻してから葵のことよく見てたら、今何が好きなのかすぐわかったから」

「前の指輪でも良かったのに」


 葵は泣き笑いを浮かべながらそう言った。


「……あれはあれで持ってて。俺もあの指輪見るたびに自分への戒めだと思うようにする」

「何それ、指輪がかわいそう」

「まあ、そのうち着けてくれたら嬉しいけどな」


 新しい指輪はダイアモンドがぐるりと取り囲むようなフルエタニティのデザインだ。

 もちろんそのサイズは彼女の薬指にぴったりで、葵は指輪をつけた指を嬉しそうに眺めた。


「ありがとう、俊」

「こちらこそ。……断られたらどうしようかと思った」

「ずっと、一緒だよね?」

「それはこっちのセリフだよ。もうどこにも行くなよ」

「いかない。ずっと俊の隣にいる」


 葵を抱きしめた俺は我慢できず、彼女の髪をかき上げるようにしてキスをする。

 涙で少ししょっぱい味がするキスは、俺にとっては最高に甘いものになった。


「んっ……俊が作ってくれたご飯冷めちゃう……」

「いいよ、冷めても」

「だめ。せっかく作ってくれたやつだから美味しく食べたい。終わってからにして」

「……わかったよ」


 渋々と体を離した俺に、不意打ちで葵が軽いキスをする。


「寂しそうな顔してたから。もう少しだけ我慢してね?」

「……葵、わざとやってるだろ」



 ああ、俺はいつまでも葵に敵うことはないだろう。

 俺らが初めて出会った高校三年生の時からきっとそうだったのだ。


 たくさん傷つけてしまった分、これからの人生は葵を幸せにすることだけに使っていきたい。

 そんな俺の気持ちは重すぎるだろうか?


 愛してるよ、葵。







お読みいただきありがとうございました!

これにて完結となります。


よろしければ★をいただけると、今後の励みになり嬉しいです。


こちらはムーンライトノベルズ様にてRシーンありバージョンを先行で連載し、日間総合ランキング2位になった作品のR-15版です。


現実でもありえそうなテーマを元に書き上げました。

(現実ではそのままお別れパターンが多そうですが……)


あるあるだな〜、なんて思っていただけたら嬉しいです。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました!


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― 新着の感想 ―
[一言] ハッピーエンドで良かった!
2024/01/18 23:26 退会済み
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