私と彼の八年間とその後
「俊の気持ちはわかった……でも同棲は一旦終わりにしたい。俊も私のことに囚われすぎないで生活してほしいの」
「……また勝手に俺の前からいなくならないよな?」
「うん……」
「俺会いに行ってもいい?」
「いいけど……」
俊との同棲を解消してから私は再び一人暮らしを始めたのだが、彼は懲りずに毎日のように私の元を訪れた。
「……さすがに来すぎじゃない?」
「でもちゃんと夜には帰ってる」
「なにそれ意味わかんない」
「意味わかんなくても、これからも来るから!」
二人並んでテレビを見てご飯を食べて、たわいもない会話をして笑って過ごす。
まるで付き合いたての頃に戻ったようだ。
剥がれかけていた心が、穏やかな膜で包まれるように癒されていく。
俊は、あれ以来決して二人の関係について進展を求めることはしなかった。
私の気持ちを尊重して、私の傷が癒えるのを待っている様子に胸が苦しくなった。
いつ頃からだろうか。
二人で過ごすその時間が当たり前になり、私の中でなくてはならないものへと変わっていったのは。
二度目の同棲の時のように俊が私の顔色を窺いすぎることは無くなり、私も彼に対して引け目を感じることが無くなった。
その結果、以前よりも彼に自分の気持ちを素直に伝えられるようになった気がしている。
彼と付き合っていた八年間の間に溜め込んだ気持ちたちが、少しずつ解放されていく。
別れる前からしばらく作っていなかった手料理も、久しぶりに彼に振る舞いたいと思えるようになった。
「葵が一生懸命作ってくれてたのに、俺はそれを何度も無駄にして……」
俊は泣きながら美味しい美味しいと何度も繰り返して料理を口にしていた。
そしてそんな彼の姿を見て思わず微笑んでしまっている自分がいたのだ。
私の中で俊への思いが再び大きくなり始めていることに気づいた瞬間であった。
営業の仕事をやめたことで時間にも気持ちにも余裕が出た俊は私の大好きだったあの頃の彼に戻り、昔と変わらぬひたむきな思いをぶつけてくれている。
それどころか素っ気ない態度を取り続けた私のことを、ずっと包み込むように支え続けてくれた。
元はと言えば彼が蒔いた種なのだからと言ってしまえばそれまでなのだが、彼は確かに変わったのだ。
未だに彼に対して昔感じていた燃えるような恋心は戻っていない。
だが俊は私の人生の中に当たり前のように存在していて、彼のいない人生を一人で歩んでいく自信も無かったし、彼の隣に別の女性が並ぶ姿を見るのも嫌なのだ。
——本当に馬鹿だ。自分からまた同じ道を歩こうとするなんて。
でも、それでもいいと思える自分がどこかにいるのだ。
この気持ちに正解はあるのだろうか。
◇
そして迎えた俊の二十八歳の誕生日。
私は彼には内緒でお祝いの準備を整えた。
二十六歳の誕生日は俊が帰ってこず、お祝いも無駄になってしまった。
二十七歳の誕生日は、ちょうど別れていた時期だった。
そのため彼の誕生日をお祝いするのは実に二年ぶりである。
彼の大好物のロールキャベツとチョコレートケーキを用意して、私は彼の到着を待った。
「お仕事お疲れ様」
「お邪魔します」
もはや毎日のように訪れているというのに毎回律儀にそう挨拶する俊に、笑ってしまいそうになる。
今日のお祝いのことはまだ何も伝えていないのだ。
私は平静を装って彼をリビングへと連れていく。
「すげーいい匂いする。今日の晩御飯何作ってくれ……」
リビングへと足を踏み入れた俊は、そのまま固まった。
恐らく飾り付けられたダイニングテーブルが目に入ったのだろう。
「え、これどういう……」
「お誕生日おめでとう、俊」
「え……」
相変わらず俊は目を見開いて固まったまま、言葉すら出てこない様子。
「今日、誕生日でしょ? 二十八歳の」
「葵……」
「二人でお祝いするの、久しぶりだね」
そう言って微笑むと、俊は顔をくしゃりと歪める。
そして次の瞬間、私は彼の腕の中にいた。
「しゅ、俊……苦しい……」
「葵っ……ありがとう、葵……」
抱きしめられた体からは、懐かしい大好きな香りがする。
私はその香りをもっと嗅ぎたくなって、彼を抱きしめ返した。
「っ葵……?」
「俊、そのまま聞いてて」
突然の私の行動に戸惑う様子を見せながらも、俊は大人しく私の言うことに従った。
「私、俊のことが好き」
「え……」
「最初に付き合っていた時みたいに、俊のことしか考えられなくなるような激しい気持ちじゃないの。だけど俊のことが大切だし、ずっと一緒にいたい。俊が他の女の人と一緒になるのは見たくないんだ」
「俺が葵以外のやつと一緒になるわけないだろ!」
「もう、最後まで聞いてってば」
「あ、ごめん……」
コロコロと変わる俊の表情を見上げていると、なんだか可愛く思えてくる。
「正直まだ昔のことがトラウマになってるのもあって、俊にはまた迷惑かけちゃうかもしれない。それでも良ければ……これからも俊の誕生日を一番にお祝いするのは私でもいいかな?」
「っ当たり前だろ!」
俊はより一層抱き締める力を強めた。
「俊、苦しいってば……」
「離れたくない。一瞬も離したくないぐらい好き」
「ご飯、冷めちゃう」
「あっ!」
私の言葉で慌てたようにパッと体を離した俊を見て、私は思わず笑ってしまった。
「何そのびっくりした顔、ウケる」
「葵、お前の今の顔……あの時と同じだ」
「え?」
「俺が大好きな葵の笑った顔だ」
俊はそう言うと私の後頭部に手をやりグイッと引き寄せた。
勢いよく唇が重なり合う。
「んっ……」
「あっ、ごめん……つい……」
「俊も、卒業式の時と同じことしてる」
「ああ……確かにな……」
俊は泣き笑いのような表情を浮かべた。
「葵、俺今度こそ本当にお前のこと幸せにするから。やり直したばっかで何言ってるんだって感じだけど、俺は葵と結婚するつもりだから、覚えといて」
私も涙で滲んだ目を手で押さえながら、強く頷いたのだった。
◇
二人きりで過ごす久しぶりの誕生日。
用意したロールキャベツとチョコレートケーキはしっかりと俊のお腹の中へと収められた。
お洒落なペアのグラスにシャンパンを入れて乾杯し、食後はルームキャンドルを照らした室内で映画を観た。
二人並んでソファに座り、一つのブランケットに包まれる。
食後の満腹感と暖かさも相まって私は少し眠くなり、俊の肩にもたれかかった。
俊はそんな私をチラと見て、安心したように微笑みながら頭を撫でる。
こんな日が、再び訪れるなんて。
若い頃のような刺激に溢れた恋もいい思い出だった。
だけど今のこの落ち着いた関係も悪くはないだろう。
そして私たちは久しぶりに体を重ねた。
◇
「葵、大丈夫?」
久しぶりの行為に俊は終始私のこと労ってくれ、今もこうして甲斐甲斐しく世話を焼かれている。
「俊が優しくしてくれたから、大丈夫」
「そっか。それなら良かった」
「俊……」
「ん?」
「俊はずるい。そんなに格好良くって……」
「またそういうこと……俺からしたら、お前の方がよっぽど心配だよ」
「私?」
「そうだよ。最初に別れようって言われた日、家を出る葵の姿にドキッとした。無性に色っぽくて、掴んでもすり抜けそうな感じがして、どうしようもなく焦った」
あの日、確かに俊はいつもと違った。
「高校の時から可愛かったけどな。俺の中ではずっと葵だけが一番だよ」
そう言いながら俊は私の唇を指でなぞる。
「たくさん傷付けて、散々遠回りしたけど……これからまたよろしくな」
「うん。でももう傷つくのは嫌だよ」
「わかってる。本当に反省したんだ。これからは死ぬまで大切にするから」
「またそういう大袈裟なこと言う」
「俺は本気だし」
それから恥ずかしさを隠すように俊に頭をぐしゃぐしゃっと撫でられた後、私たちは再びキスを交わした。
◇
「お母さーん! お父さんも待ってるから早くしてよ」
「ごめんごめん、支度が終わらなくて」
とある日曜日の午後、一向に二階から降りてこない私に痺れを切らして娘の澪が迎えに来た。
「あれ、その指輪初めて見た。お母さんの趣味とは少し違くない?」
澪は鏡の前に座って身支度を整えていた私の右手の薬指に視線を落とし、少し目を見開いてそう尋ねる。
私は澪に続いて指輪に視線を向けると、そっと微笑みながら指輪を撫でた。
「お父さんが、昔くれたの」
「お父さんが?」
「そう、まだお母さんたちが結婚する前にね」
「へえ。お父さんもなかなかやるね」
あの日開けることはなかったブランドの紙袋の中に入っていた指輪は、今私の手元で輝いている。
「何か俺の話したか?」
「あ、お父さん。お母さんの支度まだかかりそう」
「じゃあ澪は先下降りてろ。お父さんたちもすぐ行くから」
澪は言われた通りに部屋を出て階段を降りて行った。
代わりに私の部屋へと入ってきたのは背の高い男性だ。
「俊……」
「俺の話、してたの?」
「聞こえてたの?」
「ところどころだけ」
「あなたが昔くれた指輪の話をしていたの」
私の目の前には、あの時から少し年齢を重ねた愛しい人の姿が。
俊は私の手元を見ると、ニッコリと笑って私を後ろから抱きしめた。
「最近やっと着けてくれるようになったな」
「だって、なくしたりしたら嫌だから」
「そうしたらまた新しいのを買ってやるって言ってるのに」
「だめ、これがいいの」
俊はその言葉に嬉しそうな表情を浮かべた後、私の耳元に唇を近づけてこう囁いた。
「葵、愛してる」
「私も愛してる。俊」
そんな私たちの後ろでは、十八歳の二人が今も変わらず写真立ての中で笑い合っている。
あのとき苦しんでいた二十代の私にこう伝えてあげたい。
あなたが初めて愛した人は、今もあなたの隣にいますと。
次回俊サイド(別れを告げられてから〜プロポーズまで)を掲載しまして、完結となります。