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私と彼の八年間(3)

「俺今日帰り早いんだ。どこか飯でも行く?」

「ううん、お金もったいないし」

「じゃあ俺作るよ。葵今日残業あるんだろ?」

「無理しなくていいのに。お惣菜とか買おうよ」

「無理なんてしてない。葵が隣にいるのが幸せなんだよ」

「またそういうよくわかんないこと言って」

「俺は本気だよ。葵がいると自然と頑張れる」


 あれから半年。

 結局私は同棲していたアパートに逆戻りしていた。

 本当はあの場ではっきりと拒絶するべきだったのかもしれない。

 でも私にはできなかった。

 あのままでは俊が本当に壊れてしまいそうだったから。

 俊の苦しむ顔は見たくなかった。

 結局は惚れた弱みなのだろうか。


 散々彼に傷つけられておきながら、この期に及んでまだ彼のことを案じてしまった自分には呆れてしまう。

 八年間という月日は思いの外私の心の奥深くに絡まりついて、解けてはくれないらしい。




 荒れ放題だった部屋は俊が数日かけて元通りにしたらしく、私が荷物をまとめて部屋へ戻ってきたときにはすっかり綺麗な状態へと様変わりしており。


 まるで人が変わったかのように彼は家事に仕事に勤しむようになった。

 というよりも、昔の俊に戻っただけなのかもしれないが。


 あれほど恋しく思っていた以前の俊が戻ってきてさぞ嬉しいかと思いきや、私は未だどこか他人事だ。


 そして俊とヨリを戻したのかと言われると、果たしてどうなのかわからない。


 同じ屋根の下で共に食事をとり、並んで眠る。

 ただそれだけの曖昧な関係なのだ。

 私が別れを告げたあの日以来私たちはセックスどころかキスすらしておらず、俊もそれを求めてはこない。

 他人から見れば理解し難い関係だろう。


「葵、明日もここにいるよな? 起きたらいなくなってたりしないよな?」

「多分ね」

「多分ってなんだよ……俺明日もちゃんと早めに帰るから。どこにも行かないで待っててくれるって約束してくれよ……」


 私が戻ってきてからというもの毎晩のように俊が尋ねるその言葉。

 問いかけられるたびに、なんと答えるのが正解なのかわからなくなる。

 『絶対』なんて約束できないことは言いたくない。

 世の中絶対なんてことは何一つないのだ。

 

 八年前の自分は、俊との関係がこうも変化してしまうなど思ってもみなかっただろう。


 あれ以来俊は私がどこかへ出かけたまま戻ってこなくなることを過剰なほどに恐れ、心配するようになった。

 だからといって束縛されるということはないのだけれど、彼の心をこれほどまでに不安に縛り付けてしまっていることに対して、罪悪感に似た感情を覚え始めている。


 常に私に気を遣い私の顔色を伺いながらの生活に、俊は嫌気がさすことはないのだろうか。

 この関係のまま先の見えない未来へとずるずると続いていくのは、俊のためにも私のためにも良くないのではないか。

 そう思いながらも、自分がどう動くべきなのかわからないまま時間だけが過ぎていく。

 




「明日さ、葵の誕生日だろ? お互い仕事休みだし、どこかで外食しないか?」


 仕事終わりの金曜日、夕食を食べ終えて一息ついた頃唐突に俊が切り出した。

 付き合い始めてから八回目の誕生日。

 私は二十七歳になる。


 七回目の誕生日は、今思い出しても最悪な思い出となってしまった。

 次の誕生日を俊と迎えることは恐らくないだろうと思っていたというのに、人生とは何が起こるかわからないものである。


「誕生日覚えてたんだ。びっくり」

「覚えてるよ、そりゃ……何年付き合ってきたと思ってんだよ」

「去年は全くそんな素振り見せなかったからさ」

「……ごめん。今さら何言っても言い訳にしかならないけど、仕事で色々あって追い込まれてた……」

「もう私も二十七でお祝いって年齢でもないし。いつも通り、家で食べようよ」


 私がそう告げると、俊はあからさまに落ち込んだ表情で俯いた。


「葵はさ……俺のこと嫌い?」

「嫌いじゃないよ。俊は私にとって大切な人だから。俊に支えてもらったおかげで大学生活も、慣れない社会人生活も頑張れた。でも……もう前みたいな気持ちには戻れないの」

「この先、俺のことをまた好きになってもらえる可能性はあるのか?」


 また難しい質問をぶつけてきたものだ。

 将来のことなど誰にもわからない。

 下手に俊に期待を持たせてしまう回答もしたくなかった。



 ——今がそのときなのかもしれない。


 私は俊に、かねてより思っていたことを伝えることにした。



「ねえ、俊」


 すると俊はまるで私が言おうとしていることに気付いたかのように、ビクッとその体を震わせた。


「俊は、辛くないの? こんなに毎日私のご機嫌取りみたいなことして、それなのに私は素っ気ない態度で。報われないじゃん」

「俺は、お前がいなくなることの方が辛いから。葵が隣にいてくれるならなんだってする」

「もう少し視野を広げた方がいいと思う。自分が苦しむだけだよ。私以外にも女の人なんてたくさんいるんだし、俊ならすぐに見つかると思うよ」

「なんでそんなこと言うんだよ……」


 俊は消えてしまいそうなほど微かな声でそう呟くと、手で顔を覆いながら背を向けた。

 恐らく泣いているのかもしれない。


「私もあのときはっきり俊のこと拒否するべきだった。一緒には暮らせないって、はっきり断らなかった私も悪いと思ってる。ごめんなさい」

「……」


 俊からの返答はない。

 代わりに聞こえてくるのは、いつかと同じ嗚咽だけ。


「もう、終わりにしよう?」


 静まり返ったリビングではポツリと呟いた私の声さえ大きく聞こえる。


「嫌だ」

「俊」

「嫌だ、嫌だ、嫌だ!」


 すると俊は突然私を引き寄せ、強く抱きしめた。


「俺は絶対葵を離せないし、離さない。他の男のものになるなんて許さない。たとえ葵が俺のことを好きじゃなかったとしても、それでいい。俺はこの半年間本当に幸せだったんだ。幸せだったんだよ!」


 はあ、はあ、と息を切らしながら叫ぶようにそう告げた俊の顔はよく見ることができない。

 だが彼の顔が触れた私の肩口が湿り気を帯びたことから、涙を流しているのは確かだろう。


「たくさん葵のこと傷つけてきた俺のことが許せないのはわかってる。そうそう簡単に葵の心の傷が消えることがないのもわかってる。だけど……俺にその償いをさせてもらえないか……」

「俊、でも……」

「好きだよ葵。高校三年生の頃からずっと。散々嫌な思いさせたけど、これだけは信じてほしい。何言っても信じられないかもしれないけど、俺はこの八年間、葵以外の女とやましい関係になったことは一度もない。俺の初めても何もかもが葵のものだから」

「……スーツに香水の匂い、ついてたけどね」

「あれは、営業の時の上司に連れられて断れなかったんだ……でもやましいことは誓ってないんだ、信じてほしい……」


 わかってる。

 仕事の付き合いで仕方がなかったことくらい。

 ビリビリに破いたレシートがその事実を物語っていたし、現に部署が異動になってからというもの俊の飲み会は一気にその数を減らした。


 だけどあの時の私は限界だったのだ。

 我慢して抱えていたものが爆発してしまったタイミングがあの時だったのだと思う。


「なあ、葵……もう一度やり直したい。ゼロどころかマイナスのスタートだってことはわかってる。それでもお前がいなくなるよりも何倍もマシだから……」

「わからない」

「……え?」

「わからないの!」


 再び私の中で何かが弾け飛んだ。


「将来なんてどうなってるかわからないし、約束なんて無意味だったじゃん。俊だって今はこうして焦って私のこと引き止めようとしてるけど、またヨリ戻したらそのうち前みたいになるかもしれない。もう傷つくのは嫌なの、不安になりたくないの!」

「葵……」

「なんで帰ってきてくれなかったの!? なんで誕生日の日……私待ってたのに……ずっとずっと待ってたのに!」


 俊に別れ話をした時ですら流すことのなかった涙が、今になって溢れ出る。


「おめでとうって、俊に言ってもらいたかっただけなのに! なんでっ……なんで!」


 一度溢れ出した感情と涙を止めることはできない。

 わあぁっと大声をあげて泣く私を俊はただただ抱き締めながら、落ち着かせるように頭を撫でていた。


「私はいつだって俊には敵わない。昔からそうだった。俊と私じゃ釣り合わなかったんだよ」

「そんなこと言うなよ!」


 俊が私を抱きしめる腕に力が入る。


「葵は昔から誰よりも可愛かったよ。話しやすくて、一緒にいると時間が過ぎるのもあっという間で楽しくて……ずっと一緒にいれたら幸せだなって思ってた」

「今はもう違う」

「違わない」

「また仕事が忙しくなったら前の俊に戻るかもしれない。そうしたら連絡もつかないし、ずっと待ってても帰ってこない。あのときの俊の中には私の存在なんてカケラも無かった。俊のことを待ち続けて裏切られるのにはもううんざりだよ」


 俊は何も答えなくなった。

 だが私を抱きしめるその腕の力が緩まることはない。


「俺さ」


 どのくらい沈黙が続いただろうか。

 抱きしめられていた体を離そうとしたその時、再び腕にグッと力が込められたかと思うと俊が口を開いた。


「憧れてた営業の仕事について家に帰れば大好きな彼女がいて、浮かれてたんだと思う。蓋を開けてみればただの接待続きで毎日上司と客の機嫌を取りながら飲み会三昧。頭の中で考えてた理想とはかけ離れてて、俺のやりたかったことって何だったんだろうって自暴自棄になってた」

「……」

「それでも葵は昔と変わらず優しくて俺のことだけ見てくれてて。俺は葵の優しさに甘えてた。八年間も一緒にいたんだし、葵が俺から離れていくことはない。いつかは葵と結婚するだろうから今はどうでもいいやって……しょーもない男だよな」


 俊の言葉の節々には自嘲の雰囲気が漂っている。


「俺はこんなに大変な思いしてんだから、これくらい許されるだろって思い上がって勘違いしてた。だけど、葵が出て行ってようやく気づいた。遅すぎるだろうけど、俺バカだからさ……ごめんな」

「……もういいから」

「葵が出て行って連絡も取れなくなって、初めて葵の気持ちがわかった。ああ、見えない相手を待つってどうしようもなく苦しくて辛いんだって。しかも俺はたったの二ヶ月でこんなに苦しかったのに、葵は何年も耐えてたんだなって……俺は葵にそんな思いをずっとさせてたんだって気づいたら、申し訳なくて……」

「もう聞きたくない、やめて俊」

「すぐに葵の会社に行こうと思ったんだ。だけど、今行ったところでどうせ拒否られてもう今度は二度と会えなくなるかもしれない。だから、環境を変えて俺自身もリセットしてから葵に会いに行こうと思った」


 俊はもちろん私の職場を知っているし、何度か迎えにきてもらったこともあるので場所もわかっている。


 別れを告げた当初は職場に俊が現れたらどうしようかと不安に思っていたが、意外にも彼は現れなかった。

 その行動の裏にはそういう理由があったのかと今納得する。


「本当はもっと冷静に、葵に謝るつもりだったんだ。だけどあの男と一緒にいる葵をみたらそんな考えも吹き飛んで頭ん中真っ白。葵が他の男のものになるなんて許せねーって……。結局俺は情けない男だよな」


 でも、と俊は続けた。


「もう葵にはとっくに情けないところを見られまくってるよな……」

「確かに、そうだね」


 私はついクスリと笑ってしまった。

 俊はそんな私の様子に、ホッとしたように肩の力を抜いた。


「最悪の彼氏だったと思う」

「わかってる。それに関しては何も言えないし言うこともない」


 ようやく俊は抱きしめていた私の体を離した。

 これまで見ることのできなかった互いの表情が初めて明らかになる。


 やはり俊は泣いていた。


「俊、泣いてばっかり。付き合ってた時は俊が泣いた顔なんて見たことなかった」

「……ごめん」

「別に謝る必要なんてないけど」

「なぁ葵。お前の気持ちが伴わなくても、俺頑張るから。もう少しだけでいい、俺に時間をくれないか……」


 苦しげな表情を浮かべながらも、俊は真っ直ぐに私の目を見つめてそう告げた。

 私はそんな彼の表情をぼうっと見つめながら、これまでのことを思い返していた。


 水族館に行った初めてのデート、夜の公園でのキス。

 俊のサッカーの試合を応援に行ったこと。

 私が大学のことで悩んでいた時、新幹線に飛び乗って駆けつけてくれたこと。


 ふと視線を横にずらすと、とあるものが目に入った。


「俊、あれ……」


 俊は私の視線の先にあるものにすぐ気づいたようで、さっと立ち上がると目的のものを手に取って戻ってくる。


「……なんでこんなもの……」


 俊の手には写真立てが。

 そしてそこには高校の制服を着て笑い合う私と俊の姿があった。


「この前部屋の片付けしてたら出てきたんだ。俺、このときの葵の表情が好きで……」


 今よりも垢抜けていない私と、幼さの残る俊。

 写真に映る二人の間には、何のしがらみもなかった。

 再び目の奥がツンとし始めて、視界がぼやけていく。


「私、すごい地味」


 そんなことが言いたいわけではないのに、なぜか言葉が浮かんでこない。


「なんで? 俺にはすげー可愛く見えるよ。俺葵の笑った顔が好きなんだ」

「この頃の私たちになんか、もう戻れないっ……」


 涙が溢れ出て、嗚咽でうまく息継ぎができなくなる。


「葵に辛い顔ばかりさせてごめん。お前が出ていった後、あんなふうに葵が笑う顔を見てないなって気付いた。俺のせいだ。あんなにいつも楽しそうに笑ってたお前が……」

「私もう俊の前であの頃みたいに笑えるかわからない。何言われても、俊のこと信じられないっ……」

「わかってる。何年も葵を傷つけておいて、すぐ許されるとも戻れるとも思ってない」


 俊の手が私の顔に添えられ、そっと指で涙を拭われる。


「俺頑張るから。ずっと待ってるから……」




 数日後、私は俊との二度目の同棲を解消した。


お読みいただきありがとうございます。

残り2話(最後は俊サイド)で完結です。

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