私と彼の八年間(2)
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「ん……」
気付けばリビングの電気は落とされ、いつのまにか窓の外が明らんでいる。
時計を見ると七時を過ぎたところで、私はかなりの時間を眠ってしまったのだとわかった。
「あ、起きた? だいぶ飲んでたもんね。はいお水」
いつのまに来たのか美花がコップに入れた水を差し出してくれる。
「ありがとう。ごめんね、こんなところで寝ちゃって」
「ううん。逆に風邪引かないか心配だったよ」
見ればブランケットがかけられており、恐らく美花がかけてくれたのだろう。
「それよりさ、葵……これ」
そう言って美花が差し出したのは昨日私が預けておいたスマホ。
「ああ、ありがとう。助かったよ昨夜は。お陰で流されずに別れられた」
そうだ。私は俊と別れたんだ。
昨日の出来事なのに、まるで遠い昔のような不思議な感覚に陥りそうになる。
やがては俊と付き合っていた事実さえ、無かったことになるのかもしれない。
「……いや、そのことなんだけどさ」
「何?」
「自分で見た方が早いと思うから、スマホ開いてみて」
私は美花に言われた通りにスマホの画面をつける。
「……っ」
そこには上から下まで通知で埋め尽くされたディスプレイがあった。
差出人は全て俊からで、ひっきりなしに連絡が来ているらしい。
『今、どこ? 迎えに行くから教えて』
『いつも勝手に決めんなよ』
『俺は別れたくない』
『ごめん。話がしたい』
大体内容は全てこんな感じで、唐突の別れ話に戸惑っている様子が伝わってくる。
「ねえ、本当にこれでいいわけ? 絶対向こうは納得してないよね。葵だって見るからに辛そうな顔して……話し合った方がいいと思う」
「話し合ったら、ダメなの」
「なんでっ……」
「結局私は俊には敵わないから」
付き合っていたとき、喧嘩のような言い合いになったことが数回あった。
その全てにおいて私が折れるような形で解決したことを覚えている。
私は振られたくないあまりに、俊に対して引け目のようなものを感じていたのかもしれない。
「元はと言えば私たち釣り合ってなかったんだよね。俊みたいな人気者と、私みたいな地味女」
「今の葵は全然地味女なんかじゃない。それに、その葵を好きって言ってくれたのは彼なんでしょ?」
「あの時は、まだ世界が狭かったから。大人になって色々と変わることもあるんだよ」
「どうすんの? それ……」
美花は私のスマホの画面に視線を落とす。
こうしている間にも、止むことなく新しい通知が画面を埋め尽くしていくのがわかった。
「どうもしない。このままブロックするよ。ごめん、美花に渡す前にしておけばよかったね」
私はそう言って画面を指でスライドさせて、俊からの連絡をブロックした後に連絡先も削除した。
本当は目を閉じていても口に出して言えるほど、彼の連絡先は頭に入っている。
その記憶を塗り替えることができるようになるのは果たしていつになるだろうか。
◇
俊に別れを告げてから二ヶ月。
彼からの連絡を遮断したことによって、あれ以来彼がどうしているのかは全くわからないし、彼とも一切のコンタクトをとっていない。
ただ一つわかったことは、彼がいなくてもなんとか生きていけるのだということ。
あの頃の私は彼が全てで、彼がいない世界など想像もできなかった。
でも今は違う。
彼がいなくてもいないなりに、人生を楽しめるようになっていた。
仕事終わりに同僚たちとお酒を飲みに行って美味しいご飯を食べるのも楽しいし、休みの日は一人で映画を観たりオシャレなカフェを開拓することにハマっている。
美容院やネイルサロンで自分磨きをするのも良いモチベーションになることがわかった。
俊と付き合いたてのキラキラとした日常には及ばずとも、この数年間よりはよほど充実した生活を送っているのかもしれない。
「なんか雰囲気変わったよね? すごく明るくなったというか」
最近そんな声をかけられることが多くなった。
俊のことでウジウジしていた自分の殻を破ることができたということなのだろうか。
「今度職場の人の紹介でご飯行くんだけどさ、葵もどう? みんなフリーの人たちなんだ」
そんなとき、美花からある食事会の誘いを受けた。
俊と別れてから新しい出会いなどもちろんなにもなく。
それは自分から出会いを求めに行っていないという理由が大きいのかもしれない。
「今はまだいいかな……ようやく一人の時間を楽しめるようになってきたし。あんまり彼氏っていう気分じゃなくて」
それが正直な気持ちであった。
「そっか……じゃあ普通に食事しに来てよ! すごく美味しいイタリアンなんだって。私も葵がいてくれたら楽しいし」
「うん、それならいいよ」
そう答えると美花は嬉しそうに手を振ってエレベーターに乗り込んでいった。
◇
別れてから一週間ほど経ったある日、私は同棲していた家に荷物を取りに行った。
平日の昼間という、俊が絶対に在宅しているはずのない時間帯を狙って。
ガチャリとドアを開けると、懐かしい家の匂いがする。
当たり前のようにこのドアを開けて生活していた日々はとうの昔のようだ。
慣れた足取りで廊下を真っ直ぐに進みリビングへとつながるドアを開けた私は、その先に広がる光景に思わず息を呑んだ。
「汚な……」
散らかり放題の部屋。
畳まれずにそのまま放置された洗濯物や、食べっぱなしの食器たち。
この部屋を出てからたった一週間の間に、そこはすっかり廃れた場所へとその姿を変えてしまっていた。
足の踏み場もないその部屋をかき分けるようにして慎重に歩きながら、私は自分の持ち物をスーツケースにまとめていく。
ガラステーブルの上に置いてある腕時計をしまおうと手を伸ばしたそのとき、何かが目に入り私は手を止めた。
「これ……」
テーブルの上には、有名なブランドの小さな紙袋が置いてあった。
よく見ると紙袋の下にはメモが挟まれている。
『愛してる。葵じゃないとダメなんだ。連絡が欲しい』
見慣れた俊の字でそう書かれたメモと紙袋が、私に昔の記憶を思い出させた。
「葵はさ、どんな指輪がいいとかあるわけ?」
あれは四年前のこと。
社会人になりたての私たちは初めての給料で大人びたレストランで食事をした。
その帰り道に通りかかった百貨店で行われていたブライダルフェア。
何の気なしにショーウィンドウに飾られた指輪を見つめる私に、俊が唐突にそう尋ねてきたのだ。
「私? 私は……あれがいいかな。あの真ん中にダイアモンドが嵌められてるやつ。シンプルだけど、婚約指輪って感じがして好き」
「あのブランド、超王道じゃん」
「いいじゃん別に。女の子にとっては憧れのブランドなの」
「ふーん、そんなもんなのか」
あの日サラリと交わしたそんな会話を思い出す。
そして目の前に置かれている紙袋は、まさしくそのブランドのものであった。
袋を開けずともその中身が何であるか予想するのは容易いことだ。
「……馬鹿じゃないの」
月日が経てば趣味や好みも変わるもの。
あれから四年経って、私はもはやあのブランドへの興味は失いかけていた。
俊の中で私の時間は止まったままなのだろう。
——今更、遅いのよ……。
私は紙袋を開けることはしなかった。
そのまま奥に置いてあった腕時計だけを手に取り、他に必要なものだけを詰めて足早にアパートを後にする。
それ以来あのアパートには一切足を踏み入れていないし、俊がどうしているのかはわからない。
今もあのアパートに一人で住んでいるのか、新しい誰かと生活を共にしているのか。
全く気にならないかと聞かれたら嘘になるかもしれないけれど、もう終わったことだと自分に言い聞かせながらこの二ヶ月間過ごしてきたのだ。
あと少し。あと少しで完璧に彼のことを記憶から追い出せるだろう。
◇
「葵、今日は来てくれて本当にありがとう! お陰ですごく楽しかった。また月曜日、会社でね」
美花に誘われた食事会は意外にも楽しくて。
美味しい料理にお酒、楽しい会話に心が癒される。
思っていたほど合コンのようなノリはなく、仕事関係の情報交換をしたり趣味の話で盛り上がったりと、かなりの盛況であった。
すっかり終電近くまで場を楽しんだ私たちは、それぞれの家路へと向かうために解散する。
どうやら美花は彼氏が迎えに来てくれるらしい。
「あれ、中村こっち方面なの? 電車?」
美花と別れた私は、近くにある地下鉄の駅に向けて歩き出そうとしていた。
「そうなの。地下鉄だよー。ちょっと前に引っ越してさ、会社から少し遠くなっちゃった」
新しく私が見つけたアパートは、会社から地下鉄で七駅ほど離れた場所にある。
同棲していた家は会社の隣駅であったため、引っ越し後は通勤が思いの外面倒になってしまったが仕方がない。
「俺も地下鉄。一緒に行こうぜー」
「行こ行こ。早く行かないと、終電逃しちゃう」
私は偶然食事会に参加していた同じ会社の同期、山内拓真に声をかけられて一緒に帰ることになった。
「お前さ、同棲してなかった? 長く付き合ってる彼氏と」
「やば、よく覚えてるね。その人とは別れたんだ」
「まじで? 長すぎた春ってやつか」
「ほんとずけずけと物を言うの、やめた方がいいよあんた」
山内は悪い人ではないが、こういうところがある。
人の心を見透かしたような目つきとその発言に古傷を抉られそうになって身構えた。
「悪い悪い」
「そんなんだから、いつまでたっても彼女できないんだよ」
「今はお前もフリーだろ。お前に言われたくないわ」
「ああ、そうだったね……」
ふとした時に思い知る現実。
自分が望んで手放したはずなのに、たまに胸が苦しくなるのはなぜだろうか。
「……ごめん。言いすぎたわ」
「いや、事実だし。別にいいよ」
傷ついた顔を見られたくなくて、私は必死に口角を上げて誤魔化す。
「なぁ、明日休みだろ? この後もう一軒……」
「葵!」
山内が何か言いかけたのと同じタイミングで、その声を掻き消すように後ろから名前を呼ばれた。
思わず喉がひゅうっと鳴って、息が止まりそうになる。
その声の主が誰であるかは、振り向かずともすぐにわかった。
わかるからこそ私は振り返らない。
「葵」
返事のない私に痺れを切らしたかのように、再びその声は私の名を呼んだ。
「何? 私もう鍵も返したよね? 今更話すことなんてないと思うんだけど」
私は正面の景色を見つめたままそう告げる。
思ったよりも冷たい声が出た自分に驚いた。
「は!? まだ何も話し合ってないだろ! 葵が勝手に出ていっただけで、俺は納得してない! 大体こいつ誰だよ。二人で何してんだよ!?」
俊の理不尽な怒りは無関係の山内へと向けられる。
「会社の同期だよ。みんなで食事会があって、その帰りなの。俊とは違う……失礼なこと言わないで」
「同期……?」
私は俊の反応を無視して山内の方を向く。
「ごめんね面倒なことに巻き込んで。今日はここで解散にしよう」
「……お、おう。お前は大丈夫なわけ?」
「うん、多分」
「多分って中村……何かあったらすぐ逃げろよ」
山内は少し困ったような表情を浮かべながら、私にヒラヒラと手を振って人混みの中へと消えていく。
——食事会なんて、参加しなければ良かった。
先程までの楽しかった気分が一気に興醒めである。
俊は今私が一番会いたくない相手なのだ。
私は覚悟を決めて、ようやく後ろを振り向いた。
会わない二ヶ月の間に随分とやつれた姿に内心驚く。
目の下の隈は目立ち、頬もこけているように見えた彼は、私がこちらを向いたことを確認すると弱々しく微笑んだ。
「俊痩せたね」
「……お前が急にいなくなったから」
そう言って縋るような視線を送る俊の姿に、私は何も感じない。
「私は何も話すことはないんだよね。もう終わった関係だし、後腐れなくお互い別の人を探そう」
「俺は絶対に嫌だ」
「何言ってんの。今更やめてよ」
「俺はそんなの嫌だ!」
子どものように大声で駄々をこねる俊の様子に、周りを歩いていた人々がチラチラとこちらを振り返り始めた。
「ほんとやめて、こんな街中で……」
「じゃあ二人で話せる静かなところへ行こう」
「……だから今更話すことなんてない」
「話さないと、俺は納得しない。約束するよ、お前に変な真似したりすることはないから信じて欲しい」
「そこは心配してないけど……」
このままでは埒があかない。
私は心の中でため息をつくと、俊とその場を後にすることを決めた。
◇
「葵がいなくなってから、生きた心地がしなかった。なあ、葵の中にはもう俺はいないのか……?」
結局私たちが行き着いた場所は、長年共に暮らしたアパートだった。
二ヶ月ぶりに足を踏み入れたそこは、最後に訪れたあの日よりもさらに荒れ果てていて、生活感を全く感じない。
「……汚すぎて座るところないんだけど」
「ごめん、葵はベッドに座って……俺は離れて座るから」
そう言いながら俊は私から距離を取って、リビングのダイニングチェアに腰掛けた。
「私はもうあの日で俊とは終わったと思ってる。今更やり直すつもりもないよ」
「どうしてだよ……俺らずっと一緒にいただろ? そんな簡単に終わりとか言うなよ……」
「だから何? 過ごした長さなんて関係ないよ。それに最後の方なんて別れたも同然だったじゃない」
「俺は、いずれはお前と結婚するつもりで……指輪だってっ……」
「あのテーブルに置いてあった箱のこと? 私、もうあのブランド好きじゃないんだよね」
俊は私の言葉に目を見開くと、くしゃっと顔を歪めた。
「何だよ、それ……お前があの指輪が欲しいって言ってたじゃねーか」
「それ何年前の話? 社会人なりたての頃じゃん。俊は私のこと全然見てないし、わかってない」
「俺は葵と結婚したい。葵以外考えられない」
「いやいや、やめてよ。結婚なんて考えてないって去年言ってたじゃん」
「っそれは……」
「私さ、あの時になんとなく俊と別れようと思い始めてた。なかなかきっかけが掴めなかったけど、なぜか急に気持ちに踏ん切りがついたの。一人になってみたら意外と快適で、今まで俊の顔色を気にして振られないかビクビクしていた自分が馬鹿みたいだなって」
俊は俯いたまま言葉を発さない。
「私たち、もう無理だよ。俊はほとんど家に帰ってこなかったし、ご飯作って待ってても外で済ませてくるし。連絡だって寄越さない日も多かったよね? 急にどうしたの? 本命の彼女に振られたりした? 結婚したいってのも、家事だけしてくれる都合いい女が欲しいからでしょ? 私はそんなのまっぴらごめんなの」
黙ったままの俊に見切りをつけて、私は立ち上がった。
膝の上に抱えたままでいた鞄を肩にかけると、リビングのドアへ向かって歩き出す。
「もう帰るね。これ以上話しても時間の無駄だし。じゃ……」
「待てって!」
俊は勢い良く立ち上がると私の元へ駆け寄る。
いつかと同じように掴まれた手首が痛い。
「痛い、離して」
「じゃあ帰るな」
「何それ脅し?」
「ごめん、でも俺……お前が好きだ……俺の初めては全部葵なんだよ……何か勘違いしてるのか知らねーけど、他に女なんていないから。葵しか知らないんだよ……」
俊の声が震え始め、ポロポロと涙を流し始めた。
俊が泣くのを私は初めて見たかもしれない。
何かあった時に泣くのはいつだって私で、俊はその度に私の背中を撫でて慰めてくれていたのだから。
「ごめんな、葵……お前のこと放ったらかしにして、たくさんひどいことして、たくさん傷つけた」
「別にもういいから。もう忘れて」
「忘れられるわけないだろ!」
その言葉と共に私は俊に抱きしめられる。
息もできないほどの強さに息苦しさを感じた私は、彼の胸元を必死に押し返そうとするがびくともしない。
「ねえほんとやめて? こういうことしないって、約束でしょ」
「お前が出て行こうとするからっ……」
「私もう俊のこと、前みたいに好きじゃない」
はっと俊の息が止まるのを感じた。
それと同時に時間までもが止まったように私たちの間に静寂が訪れる。
「嘘だろ……なぁ、嘘って言えよ」
「嘘じゃない。ちょっと前からそう思ってた。愛されない、先の見えない関係が辛くなったの」
「俺は、お前と結婚する。愛してるんだよ」
「私はもう結婚したくない。私の中でその時期はとっくに過ぎちゃったんだよね。今更俊と結婚したいとか、全く思わない」
一度ずれた歯車が元通りになることはないのだ。
俊はこの世の終わりのような顔で呆然と佇む。
いつのまにか掴まれていた手首も体も解放されて、私は自由の身となった。
「私行くね。じゃあ、元気で」
最後になんて言葉をかけたらいいかわからずに当たり障りのない言葉をかけると、私は再びリビングのドアから廊下へ向けて歩き出した。
「俺、仕事変えたんだよ……」
だが俊はそんな私の足を再び引き止める。
「そう。別に私には関係ないから」
「葵がいなくなって気付いた。営業してた時の俺がいかに最低な男だったか。遅くなる連絡も無しに葵のこと夜遅くまで待たせて、手料理も何度も無駄にして……」
「もう、いいよ」
「仕事の付き合いだからって当たり前のように女の香水の匂いがついたスーツで帰っても、葵は何も言わなかった。休みの日も、俺はちっとも葵のことなんて構ってやらなかった。最低な彼氏だよな」
「もう、やめてっ……」
思い出したくなかった辛い記憶が蘇る。
俊の大好物を作って待っていた彼の誕生日、結局その想いが報われることはなかった。
冷え切った料理たちを皿に移し替えてラップをした時の虚しさは、二度と忘れることはできない。
付き合ってからの七回目の私の誕生日、一言おめでとうの言葉が聞きたくて夜遅くまで待っていた。
もしかしたら何かケーキでもあるかもしれない、なんて抱いた淡い期待は呆気なく打ち砕かれる。
全身から甘ったるい香水の香りを漂わせて俊が帰宅したのは、とうに日付が切り替わった頃。
私の誕生日はもはや終わっていた。
それでも笑って彼を出迎えたが、そんな私を見て俊が告げたのはたった一言。
『まだ起きてたの?』
そしてそのままシャワーを浴びてリビングで寝てしまった俊の姿を見て、私は一人寝室で声を押し殺して泣いた。
次の日スーツから出てきた名刺は、ビリビリに破ってゴミ箱へ捨てた。
そんな日々を繰り返すうちに、私の心は剥がれていったのかもしれない。
いつしか感情が鈍くなり、俊への恋心も薄らいでいった。
というよりも、無理やり自分で蓋をしたという言い方の方が正しいだろう。
そうしないと私は崩れてしまいそうだったから、自分で自分を守るために無意識にそうしていたのだと思う。
「俺は葵に甘えてたんだ。葵が隣にいるのが当たり前だと勘違いしてた……」
泣き腫らして赤くなった目元を隠すことなく、俊は私の方をまっすぐ見つめる。
なんとなく彼と視線を合わせることはできなくて、私はそっと顔を横に向けた。
「異動願いを出して、営業部から異動になった。新しい部署は飲み会も残業もかなり少なくなる。これからは俺も家事やるし、休みの日は葵のために時間を使いたい。だから……戻ってきてくれないか……」
だんだんと声が小さくなり、最後の方は掠れ声で囁くように告げた俊は、以前よりひと回り小さく見えた。
「私、俊のこと前みたいに好きじゃないんだよ? 嫌いではないけど、本当になんとも思ってない。将来のことも考えられないし、一緒にいたって時間の無駄だと思う」
「それでもいい。葵が一緒にいてくれるなら、葵とまた暮らせるなら、それでいい。お前と何の繋がりもなくなるなんて、耐えられない……」
顔を片手で覆った俊の口からは嗚咽が漏れる。
「俺、葵がいないと生きていけないから」
「……それも脅しだよ……」
「でも本気だから。お前がいないなら何のために仕事して生きていくのかもわからない。こんなになってやっと気づくなんて、馬鹿だよな。本当にごめん葵……」
静まり返った部屋には彼の嗚咽だけが響き渡っていて、私はそんな彼をどこか他人事のように見つめていたのだった。
お読みいただきありがとうございます。