はじめ
こぼれそうになる涙を、気合いで堪える。だって、メイクが崩れたら嫌だもの。アイラインもマスカラも、もちろんウォータープルーフだけど、泣くとやっぱり取れちゃうのよね。知ってるわ。此処に戻って来るまでに、何度も何度も経験したもの。泣いて崩れたメイクって、綺麗に直せないのよね。だから泣かないのがいちばん。頑張れアタシ。
父さんに恥晒しって言われたぐらいで折れてちゃダメよ。勘当されたから何よ。御先祖さまに顔向け出来ない?知ったこっちゃないわ。でも母さんに泣かれたのはハッキリ言って傷ついた。大の大人が泣くほどのことなの?息子が実はオネエだったんですって正直に告白したことが。だってずっとそうだったのよ?誰にも言ってなかっただけで。アタシはずっと、綺麗にメイクしてお洒落なお洋服を着てカッコいい男の人と素敵な恋に落ちる夢を見ながら生きてきたんだもの。
もう疲れたのよ。男のフリして生きることに。告白してくれた女性をフリ続ける生活に。虚像の自分を演じ切れなくなったの。心がボッキリ折れちゃったのよ。アタシは何のために、誰のために生きてるの?父さんのため?母さんのため?由緒正しき御先祖さまのため?違うわ。アタシはアタシよ。誰にも認めて貰えなくたってーーー
ごめんムリおまえキモいわ。無いわ。
先輩の声が脳裏に蘇る。
そうですか。好きになっちゃってごめんなさいね。だってしょうがないじゃない。誰を好きになるかなんて、自分じゃ選べないんだもの。アタシだって自分より顔面戦闘力の低い男に恋するなんて思ってなかったわよ。先輩が好きだった子がアタシのこと狙ってるからってそれが理由でフラれたなんてそんなの知らないわよ。
アタシがずば抜けて美形なのはアタシのせいじゃないわ。身長が百八十超えたのも自分で選んだワケじゃない。女性にモテまくったからって、芸能事務所とモデル事務所にスカウトされまくったからってぜんぜん嬉しくなかったわ。だって誰もアタシの中身なんか見てなかったもの。何よ。どうせキモいわよ。キモくてごめんなさいね。そんなのーーー
そんなの、アタシがいちばんよく分かってるのよ。
ぼろ、とついに涙がこぼれた。一粒こぼれたら止まらなくなった。唇を噛んで嗚咽を堪える。口紅取れちゃう。でもしょうがない。しょうがないのよ、何もかも。これが現実。結局これが現実なの。
泣いても喚いてもなにも変わらない。アタシの普通はみんなの普通じゃない。知ってた。だから言えなかった。父さんが望むように、母さんが願うように、周りのみんなが期待するように、立派な日本男児に擬態して生きるしか無かったの。だってアタシは弱いから。こうなるのが怖くてずっと黙って生きてきた。みんなが必要としてくれた虚像のアタシが死んだ今、本当のアタシは誰にも必要とされてない。そんなの分かってる。
顔を上げる。何処かしら此処。歩いている道路の両側は林ーーーと言うか森だ。ぎっしりと脈絡なく生い茂った木々の一本に「保安林 往生市」と書かれた黄色いプレートが斜めにぶら下がっている。道路の先には橋。あてどもなく道なりにただ歩いていただけだったのだけれど、いつの間にか商店街を抜けて裏山に続く坂道を登り、山を突っ切る道を進んでいたってことみたい。昔と違って道路が立派に整備されていたからぜんぜん気が付かなかった。
川に隔てられた山と山を繋ぐために作られた大きなこの橋はーーーなんて名前だったかしら。記憶を探るが出てこない。アタシが生まれた頃には既にあったと思うけど、道路同様、この橋も改修されたように見受けられる。広くなった歩道はただの殺風景なアスファルトではなくなっていて、小洒落た細かい煉瓦だかタイルだかが綺麗に敷き詰めてある。車道より歩道の方が一段高い。整然と並んだ街灯もちょっと凝ったデザインだ。
お金かけるところ間違ってるんじゃないかしら往生市、と、どうでもいいことを思う。この道は昔から、大して交通量の多い場所じゃないのに。
引き返す理由もないからそのまま橋を渡る。森が途切れて空の下に出る。鉛色の雲がどんよりと頭上に厚く重く垂れ込めている。三月末の微妙な天気。大気を支配するのは、冬に近い湿った寒さ。雪が降る日の鋭い寒さとは違うけれど、吐いた息が白く曇るくらいに今日の気温は低い。降るならきっと雨じゃなくて霙。うっかり春物のコートを羽織って帰省してしまった自分の判断の甘さが恨めしい。宮城の気温を基準に考えるべきじゃなかった。だから嫌なのよ岩手は。
橋の真ん中より手前の辺りで何となく足を止める。山と山の間から栄為子の街が見渡せる。悪くない眺めだった。天気が良くて精神状態が良ければ、きっともっと綺麗に見えると思う。
特に意味もなく橋の欄干に寄りかかって下を覗く。下を流れるのは御頭川。ずっと先で一級河川の北上川へ合流する、大きくも小さくもない普通の川だ。川の両脇には木が密集している。密集した木を挟んで、川と並走する細い道路が一本。豆粒くらいのサイズの色んな種類の車が、途切れず行来しているのが見える。この橋よりあっちの道路を拡張すべきなんじゃないかしら。狭いのよねあそこ。アタシにはどうでもいいことなんだけど。ため息をつく。御頭川を眺める。滔々と流れる水の色は深い緑。意外だわ。ずいぶん綺麗な色なのね。
「…………綺麗」
無意味に呟く。落ちた涙が川に吸い込まれて行く。辺りには誰もいない。涙で溶けて景色が歪む。
疲れた。もうやだ疲れた。もうじき日が暮れる。足は痛いし身体は冷え切ってる。無駄に歩き回ったって何処にも行けないのに。何処にも行き場所なんて無いのに。何やってんだろアタシ。バカみたい。そう思ったら猛烈に悲しくなった。ふええ、としょぼくれた情けない声が漏れる。涙も声も抑えられない。恥ずかしい。大の大人がみっともない。洟水ぐらい擤め、と思うけど身体は動かない。
もうやだ。寒い。疲れた。苦しい。苦しくて悲しい。アタシはただ、アタシが思う普通の人生を普通に生きたいだけなのに。どうして?なにもしてないのに、なんの評価も求めてないのに、どうして勝手に否定されなきゃいけないの?どうして一方的に叩かれなきゃならないの?こんなアタシを認めてくれなんて、そんな贅沢は言ってない。理解してくれなんて甘えたことも言ってない。アタシはただーーーそっとしておいて欲しいだけなのに。そんな願いすら許されないの?この先ずっとこれが続くの?メイクもお洒落も楽しめないまま、密かに誰かを想うことすら出来ないままで、他人に怯えて生きていかなきゃいけないの?ひとりで?ずっと?
川が流れている。アタシの足の下で。
深い緑。綺麗。とても綺麗。
手を伸ばしたら届くかしら。
どうしたのかしら。
なんだか身体が軽い。
いままでの重苦しさが嘘みたい。
ふわ、と風が頬を撫でた。
ああ、
なんて綺麗な色なのかしら。
吸い込まれそうだわ。
こんな場所にいるよりも、
あの綺麗な色の世界にいる方が
幸せでいられるんじゃないかしら。
欄干に足をかける。思ったより高い。
誰かがそっとアタシの手を引いてくれた。
大丈夫。登れるわ。
背中になにかが優しく触れた。
行こう、と言うように。
ええ。そうね。いま、そっちに行ーーー
「いッ!?」
びきっ、と身体に衝撃が走った。アタシは目を剥く。突然の激痛。服の上から何かが凄まじい力でめきめきと皮膚や肉に喰い込んでくる。腰の辺りだ。ワケが分からない。痛い、とにかく痛い!
「った、痛い痛い痛いっーーーきゃあッ!?」
ぐらっ、と身体が傾いだ。落ちようとしていた方向とは逆の方に。重心が変わって視界が入れ替わる。曇天が視界を掠める。物凄い力がアタシを引っ張り、橋の内側に引きずり落とそうとしているらしい。っていうか痛い!!皮が千切れる!!そんなに引っ張らないでよ!!このコートお気に入りなのに!!
ひぅっ、と背面に落下時特有のイヤな浮遊感。え?ヤバくない?落ちてないアタシ!?受け身!ムリたぶん間に合わな
「いッ!!」
と奥歯を噛み締めた瞬間、身体に衝撃。身を固くして耐えるーーーってあら?あんまり痛くない?っていうか体勢が変だわ、何処かに引っ掛かったのかしら?
おそるおそる目を開ける。グレーの曇り空を背景に、鈍色をした深い瞳が心配そうにアタシをじっと見つめている。骨格のはっきりした彫りの深い顔立ち。堂々とした太い眉に二重で縁取られた大きな目。しっかり通った鼻筋に太い唇。凛々しく逞しい顎のライン。モノクロームの銀幕スターを思わせる、渋いタイプのまぎれもない男前!男前がアタシの目の前に!至近距離で視線が交わる。アタシの身体は、男前の腕にしっかり支えられている。
「ーーーーーーーーー!」
きゃあああああああ!!ウソ、やだ、ヤバくない!?トキメキ爆発!!トゥンク到来よ!!ウソでしょ何これ、ヤダ、ちょっと、すごいわ!!夢!?夢なの!?ーーー落ちようとした所をこんな素敵な殿方が助けて下さるなんて!!しかもお姫さま抱っこ!お姫さま抱っこよぉ!!腰はめちゃくちゃ痛いけどこの方の手形なら家宝だわ!!やったわアタシ!!これで明日も元気に過ごせるわね!!ーーーって、あら?
なんでアタシ、川に落ちたいなんて思ったのかしら?
男前が丁寧にアタシを地面に下ろして立たせてくれる。なんともガタイが良い。首が太くて手も大きい。っていうかデカいこの人!アタシだって百八十ちょっとあるのに、それよりさらに上背がある。
すかさず服装チェック。白地に不動明王がプリントされたロンTに、シルバーグレーの、フードに白いファーがついた薄手のダウンを前を開けて羽織っている。炎の刺繍が入った黒の緩めのパンツに、ソールの厚い黒いレザーのスニーカー。首には梵字がひとつぶら下がったゴツいシルバーのネックレス。左手首に虎目石の数珠がじゃらついている。そして、ピカピカのスキンヘッド。なんて言うのかしら、オラオラ系ファッションてこんな感じなの?ーーーすごく似合ってるけど、この人……えっと、なんの仕事してる人なのかしら。カタギの人かしら。
なんと言ったらいいものか逡巡していると、唐突に男前ががっしとアタシの両肩を掴んだ。驚くアタシの目の前でさらに驚くべき事態が発生。男前の大きな瞳にみるみる水が盛り上がり、あっという間に怒涛の勢いで溢れ出す。見ているこっちが痛くなるくらいの深い皺を眉間に刻み、口元をぎりりとキツく結んだ男前が、滝のようにドバドバと涙を流しながら、首を左右にぶんぶんと激しく振った。
ちょっと待って!?こんな、ワンピースのキャラみたいな泣き方する人、現実世界に存在しますか!?なに何ナニ!?どうされました!?どういうこと!?なんで貴方が泣くの!?
ばっ、と手を離した男前が歩道に伏せる。両手をついて額を小洒落た煉瓦にぶつける。え?ウソこれ土下座じゃない?なんで!?
「ちょっーーー!あの、止めて下さい、困りますってば!あの!?もしもし!?」
男前は土下座を止めない。し、どういうワケだか一言も喋らない。ごん、ごん、と額を打ちつける音だけが響く。えええ!?ちょっと待ってよナニこの状況!?なんで!?なんなの!?ーーーアタシにどうしろと!?
からん。
音のした方を向く。からんからんと踵を鳴らして人が歩いて来る。下駄かと思ったが違う。昔の和式トイレに置いてありそうな、量産型の木の突っかけ。ソレを履いた足はこの寒いのに素足。
「ソイツは諸事情により、経以外は喋れない」
どこやら投げやりな調子で、橋を歩いて来た男性がたぶんアタシに向けて言った。
スキンヘッドの男前とは対照的な、モッサモサの頭。アフロと呼べるほど髪型が整っていない。天然パーマなのかしら?お雛様みたいなすっきりした細い面に、細めの割と整った眉。つり気味の糸目。すらっとした適度な高さの鼻に薄めの唇。好みは分かれそうだけど、こちらも二枚目の範疇。やだ素敵!塩系のイケメンが登場したわ!!
糸目の男性は、どう見ても特注の、大きな真ん丸いフレームの眼鏡をかけている。醒めた藍鼠色の作務衣に、鮮やかな梔子色の、綿の入った厚手の上着。上着には紺色の糸で麻の葉模様の刺し子が施されている。かなり特徴のある服装。一度すれ違ったら絶対に忘れない。
スキンヘッドの男前とは違って、こちらはなかなかの痩せ型だ。身長はありそうだけど、猫背で姿勢が悪い。両手を上着のポケットにやる気無さそうな感じで突っ込んでいる。
キツネのお面みたいな細い目をした男性は、渋い男前のそばまでダルそうに歩いて来ると、適当な距離で足を止めた。いまだに土下座を継続している男前を見下ろすと、心底めんどくさそうにはぁ、とため息をつく。
「キヨ。落ち着け。引っ張られただけだーーーいますぐ死にてぇワケじゃねぇんだろうよコイツは」
キツネ目の男性の言葉に、男前がようやく顔を上げる。泣いたせいか鼻の頭が赤くなっている。大きな目が、まっすぐにアタシの目を捉えた。眼差しには問い。大丈夫かとアタシを案じる色がある。
そうか。アタシに死んじゃダメだって言いたかったのかこの人。死なないでくれって、そういう意味の土下座だったのね。ーーーアタシも別に飛び降りるつもりは無かったハズなんだけど。でも無意識に欄干を乗り越えようとしていたのだから、助けて貰わなければ危なかったのは間違いない。とりあえず黙って頷く。納得したように、膝を払って男前がのそりと立ち上がる。
「ーーーアレに引かれるとは、だいぶ参ってるらしいな猫目」
投げやりな声がアタシを刺した。猫目。思わず塩顔イケメンの顔を見る。糸目の片方が薄く開き、鳶色の瞳がアタシを見ると、ふん、とめんどくさそうに鼻を鳴らした。
まさか……アタシが誰だか分かるのこの人⁉︎実の親でも気づかなかったのに!誰?誰かしら?記憶を探る。出てこない。年は同じくらい。同級生?髪型と服装が特徴的すぎて記憶の照合の邪魔をする。でもこの喋り方には覚えがあるような?うーん……ううん。
「ーーーごめんなさい、どちらさま?」
ムリ思い出せない。諦めて素直に尋ねる。
キツネ目の男性が片眉を上げ、再び軽く鼻を鳴らした。顎をしゃくって何故か隣に立つ渋い男前を示す。
「コレは巌猿清晴。おまえのーーーデコの傷の犯人な」
えっ。
ぱん、と思わず額を押さえる。左の髪の生え際。五針縫ったあの時の傷。巌猿清晴ーーー巌猿清晴ですって!?あのクソ野郎が!?この男前なの!?はァ!?マジで!?
「アレは猫目実篤。おまえの」
固まるアタシを無視し、男前に向かって糸目の男性が言葉を続ける。
「鼻をヘシ折った張本人だ」
渋い男前が目を見開く。ゴツい手が素早く鼻筋を押さえる。鈍色の瞳がアタシを上から下までなぞる。きっちり二往復。ぱちぱち、と大きな目が瞬く。
何よコラ。なんか文句あんの?そりゃあね!髪も伸ばしたしメイクもしてるし、あの頃とは似ても似つかないとは思うけど!でもアンタほどじゃないわよ!返しなさいよアタシのトキメキ!!
沈黙が場を支配する。何をなんて言ったらいいのか分からない。処理できない情報が多すぎる。呆然とお互いを見つめていたアタシと男前が、同時に糸目のイケメンに視線を向けた。
この男前があの巌猿清晴なら、じゃあ、アンタは誰なのよ。
「ーーーオレは狐禅寺。おまえの記憶に残ってるかどうかは知らねぇけどな」
視線を受けた糸目のイケメンが、はん、とどこやら皮肉げに笑みを喰む。
ようやく分かった。狐禅寺豊彦!何でよ!?おかげでますます分かんなくなったじゃない!なんなの?何がどうなったら狐禅寺豊彦と巌猿清晴が並んでアタシの目の前にこのタイミングで現れるのよ!?
「まァ大体察しはつくけどな。でもそっから飛び降りんのは止めといた方がいい。ああなる。分かんだろ」
アタシの無言の問いかけを無視して、再び狐禅寺豊彦が顎をしゃくった。が、示した先には何もない。誰も通らない、両側にめちゃくちゃ広い歩道がついた片側一車線の立派な橋が、がらんと寂しくあるだけだ。
「ーーーああなる?って、何が?」
ぽかん、と巌猿清晴が口を開けた。狐禅寺豊彦を見、アタシを一瞬見て、また狐禅寺豊彦に視線を戻す。何か言いたそうな空気。
「あ?おまえ視えねぇのもしかして?」
狐禅寺豊彦も怪訝そうな顔をする。
「猫目八幡の息子がか?ーーーぜんぜん?マジで?」
何の話よ。理解できないんだけど。と言う心の声をそのまま表情に出すと、んだよめんどくせぇなぁ、と狐禅寺豊彦がぼやいた。
「まぁそうかーーー幾ら弱ってるッたって、ちょっとでも視えてりゃさすがに近寄らねぇか。おまえなら、霊感ぐらい普通に持ってんだろって思ってたんだけどな」
ふーん、と意味ありげに狐禅寺豊彦が息を吐く。がりがり、と天パ頭をダルそうに掻くと
「しょうがねぇ。じゃあ、まァ出血大サービス。オレの“目”、貸してやるよ」
そう言ってアタシに向けて薄く微笑む。
……めをかす?とは?そもそもアンタたちさっきから何の話をしてんのよ?
意味が分からず首を傾げていると、狐禅寺豊彦がポケットから右手を引き抜いてキツネさんを作った。影絵の時にやる、人差し指と小指を立てて残り三本の指をくっつけるアレだ。狐禅寺豊彦がすいと腕を伸ばし、じっとしてろと言い置いて、キツネさんの真ん中の穴をアタシの左目に当てる。これが……何?
「コン」
狐禅寺豊彦が呟く。
瞬きした瞬間、ずっ、と視界がブレた。
顔がある。男だ。頭部は一口齧ったゆで卵みたいに欠けていて、崩したあん肝を果肉多めの真っ赤な苺ジャムで和えたような中身がでろりと溢れている。白目の黄ばんだ、血走った小さな目がじっとりとこっちを睨んでいる。ただの生首ではない。橋にみっちり詰まるくらいに巨大だ。
風に揺られながら、欄干に人が立っている。ひとりではない。数人いる。みんなそれぞれ身体のあちこちがあり得ない方向にバキバキに曲がっている。べっとりと赤黒く濡れたその姿からは性別が判断出来ない。そもそもどれも、頭が付いていない。
橋と欄干の間にぶよぶよの白いモノが幾つも詰まっている。大量のパン生地のような不定形の物体たち。出鱈目に刻まれた深い皺の間から、爛れた眼球や髪の毛や指が適当にはみ出している。びちょり、びちょりと汁気を含んだ音を立てて、塊たちが隙間からじわじわと這い上がって来ている。濁った沢山の黒目が確かに此方を睨んでいる。
ぼたぼたと正体不明の液体が上から垂れている。出所は街灯。夥しい数の生首が街灯のあちこちに引っ掛かっている。どれひとつとしてまともなものは無い。壊れた頭部や顔面を血糊で固めた数々の首が、ごとり、ごとりと収穫期の果実のように橋に向かって落下して来る。落ちた首が髪を振り乱して橋を跳ね、不規則に転がっては止まる。延々とそれが繰り返されている。
はっきり見えるモノもあれば透けているモノもある。細部を確認出来ない黒い影や白い靄が至るところにある。いやーーーいる。
なにこれ。手品?プロジェクションマッピング?ーーー違う。とはっきり本能が告げる。
幽霊。お化け。正しい呼び方は知らない。漠然としか意識したことの無かった存在が、紛れもない実体として、いま目の前にいる。
その存在を信じていたワケでも否定していたワケでもない。アタシが彼らについてこれまで無関心でいられたのは、単純に接点が無かったからだと、たったいま分かった。
ーーー彼ら。生命を持たない意思ある存在。その存在を認識した瞬間に気が付いた。彼らからは、凄まじい感情の臭いがする。
怒り。悲しみ。憎しみ。怨み。嫉み。苦痛。嫌悪。ごちゃ混ぜになった激しい負の感情が、べっとりと濃密な気配を以て辺りに漂っている。
彼らの意識がこっちを向いているのが分かる。憎悪と敵意が、生ぬるい腐臭と共にアタシに絡み付いて来ようとする。
「ひっーーーい、だぁッ!?」
悲鳴を上げる瞬間を見計らい、狐禅寺豊彦が服の上から思い切りアタシの腰の皮膚をつねった。さっき巌猿清晴に鷲掴みにされた場所だ。痛いッて!!なんなのアンタたちさっきから!!あとコート痛むからやめてよホント!
「おまえ神社の息子だろ。騒ぐなってこの程度で」
本当に何でもないことのように、感情のこもらない声で狐禅寺豊彦が言った。
そんなこと言われても!アタシは確かに神社の息子で禰宜の資格も取ったけど!ついこの間まで宮城の大っきい神社で見習いでお勤めさせて貰ってたけど!だけどこんなぐちゃぐちゃな幽霊なんか見たことないわよ!!アタシ霊感ないんだもの!!初めて見たのがコレよ!!普通叫ぶわよ!!との思いを込めて、全力で狐禅寺豊彦を睨む。
「好きであんな姿のまま留まってるワケじゃねんだ。ぎゃあぎゃあ喚く前に、ちゃんと敬意払ってやれよ。神主だろうが」
淡々と言われて言葉に詰まる。それはーーー確かに。そうだわね。……ええ、もちろん、アタマでは分かるわよ?でもこの映像って、なかなか理性を超えてきてると思わない?
狐禅寺豊彦は眉のひとつも動かさず、凪いだ海のような静かな顔で、眼前に広がる光景を見ている。隣に立っていても、彼から動揺も虚勢も感じとることは出来ない。普通だ。ーーーコレが狐禅寺豊彦にとっての普通?この人は、いつもこんなモノを見ながら生活しているの?
「おまえの精神状態が良くなかったから、アイツらに引っ張られたんだろ。心のどっかで死んでもいいやって思ってたんじゃねぇのか」
狐禅寺豊彦はアタシの方を見ない。静かな声だけがアタシに向けられている。
「此処はこういう場所だ。よく人が落ちて自殺する。橋の上での事故も多い。事情を知ってるヤツは此処を通らねぇ。ま、この通りだからな。霊感なんか無くても、此処がヤベェのは元気なヤツには分かる」
ふん、とつまらなそうに狐禅寺豊彦が鼻を鳴らした。まだキツネの“目”はアタシに付けられたままだ。もう十分なんですけど、と言おうとすると
「キヨ。サクッと行っとけ」
とやる気のない声が巌猿清晴にかけられる。ぴゅう、と元気な口笛が応えた。
ぐっ、と笑顔で親指を立てて見せると、大男がダウンのポケットから何かを取り出す。御線香と使い捨てのライター。それから細長い金属のケース。ゴツい手が丁寧に束を解き、ライターの火力を最大にして一気に火をともす。淡く煙を燻らせる御線香を金属のケースにそっと載せ、静かに地面に置くと、自身もその前に腰を下ろした。襟を正して地面に正座をすると、合掌して深く頭を垂れる。左手首にぐるぐる巻かれていた虎目石の数珠が、いつの間にか手にきちんとかけられている。
すう、と巌猿清晴が息を吸った。気配が変わる。しん、とした厳かな空気。つられてアタシも思わず背筋を伸ばす。
「ーーー魔訶般若波羅蜜多心経ーーー」
惚れ惚れするような深い美声が響き渡る。ざあっ、と風が吹いた。
べとつく厭な感情を孕んだ空気が綺麗に吹き散らされて行く。ふわ、と鮮やかな新緑の香りをアタシの鼻が嗅ぎ取る。花の季節の春を過ぎ、芽吹いた緑がすくすくと葉を広げる初夏を控えた山の匂いだ。清浄で爽やかな香りと共に、白檀に似た穏やかで品のある香りが辺りをゆっくりと満たして行く。
この匂いを知っている。お寺で嗅ぐ匂い。仏さまの匂いだ。棘も角もない優しい香り。読経が朗々と続いていく。不思議だ。巌猿清晴から仏さまと同じ匂いがする。
「キヨはいろいろ悔い改めて今は坊さんやってんだよ。ああいうのを放っておきたくねぇらしい。此処も定期的に供養に来てる。おかげでおまえを見つけたってワケだ」
狐禅寺豊彦が解説をくれる。お坊さんーーーあの巌猿清晴が。スキンヘッドはファッションじゃなかったのか。
……情報が多すぎて処理が追いつかない。巌猿清晴。狐禅寺豊彦。
この十三年の間に、この二人に何があったのかしら?
あの巌猿清晴がどうして今は喋れないのかしら?
別人としか思えないこの変わり様は何なのかしら?
さも当然のように幽霊の存在を肯定する狐禅寺豊彦は何者で、“目”を“貸す”なんて、なんでそんなことが出来るのかしら?
そもそも、どうしてこの二人が一緒に行動してるのかしら?
……それに、幽霊って普通にいるモンなの?
アタシが引っ張られたって、なんかそういう霊現象?的なことが実際に起こり得るものなの?
お経ってやっぱり幽霊に効果あるものなの?
いろんなことが、昔あった出来事も含めてぐるぐる頭の中をめぐる。でも、何から話していいのか、そもそもこの二人とどこまで関わっていいのか、ちょっと判断出来ない。何も言えずに結局、アタシは黙ってただ目の前の光景を見つめる。
ぼんっ、と御線香から火柱が上がった。めらめらと何か言いたそうに炎が揺らぐ。巌猿清晴は動じない。般若心経は佳境に突入している。キツネの“目”の向こうで、幽霊たちの姿がそれぞれ徐々に輪郭を失ってぼやけて行く。
「ーーー波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経ぉーぅ」
読経を終えた巌猿清晴が深く一礼した。見えるところにはもう何もいない。腐臭のような重苦しい臭いも無くなっている。
「成仏、したの?」
アタシの問を、いいや、とキツネさんを解除した狐禅寺豊彦が即座に否定した。
「一時的に退いてるだけだ。隙間にな」
隙間。って何処よ。なんか怖いんだけどその単語。
「ああなったヤツらを相手に、普通の供養だけで成仏を促すのはめちゃくちゃ効率が悪い。換気扇にギットギトにこびり付いた油汚れを、水だけで綺麗に落とそうとするようなもんだ。けど、キヨはどうしても、本人の意思で静かに成仏して貰いてぇんだとよ」
めんどくせぇ、と狐禅寺豊彦がため息をつく。
御線香を片付けた巌猿清晴がこっちに戻って来る。狐禅寺豊彦の斜め後ろに立つと、じっとアタシのことを見た。ぐい、とゴツい手が狐禅寺豊彦の肘を辺りの布を引く。小さい子どもがお母さんにお菓子を買ってくれとねだるように、ぐいぐいとしつこく服を引っ張り続ける。
はぁ、と狐禅寺豊彦がさっきより深いため息をついた。片手をモサモサの頭に突っ込み、がりがりと雑にかき回すと
「おまえどうすんだこれから。予定とかあんのか?」
とアタシに尋ねる。
「無いわよ。ーーーなんにも無いわ」
思わず俯く。
現実と向き合わざるを得ない。いまのアタシは仕事もなく、親には勘当されて行くあても無ければすべきことも無い。夢……はあるけど希望が無い。いま住んでいるのは宮城だけど、急いで帰る理由はない。どうせ仕事は辞めちゃったし、いまの精神状態で向こうの知り合いに顔を合わせたくもない。
今後のことより、とりあえず今日これからどうするかを考えなきゃならない。宮城に戻るか、この辺で泊まる場所を探すかだ。
「じゃあウチに来い。コイツも居候してるし」
狐禅寺豊彦の言葉に、ぱっ、と巌猿清晴が表情を変えた。嬉しそうにぴょんぴょん跳ねながら、ばしばしと狐禅寺豊彦の背中を叩く。
「えっ…………でも、」
予想外の展開に驚くアタシの手を、がし、と巌猿清晴が握った。冷え切った手に穏やかな温もりが伝わる。単純に優しい手だ。ご機嫌なトトロみたいな笑顔で男前がアタシに大きく頷く。
「ひとりでいると、それだけで死にたくなる時あんだろ。とりあえず人のいるトコに居とけよ」
からん、と木の突っかけの踵を鳴らし、狐禅寺豊彦がアタシ達に背を向けてダルそうに橋を歩き出す。アタシの意見を聞く気は無いと言わんばかりの態度だ。
……ものすごくどうでもいいことだけど、狐禅寺豊彦の後ろ姿がルパンに似ている。上着に両手を突っ込んでいて猫背でガニ股。足が長くて細っそい。頭はモサモサだけど。ぷ、と自分の考えがどうでもよすぎて思わず笑ってしまう。あら、あらら?アタシーーー笑えるじゃない!
ばし、と巌猿清晴がアタシの背中を一発軽めに叩いた。いい笑顔でぐっとアタシに親指を立てて見せると、狐禅寺豊彦の後を追って大股で堂々と歩き出す。
どうしようか迷っていると、ぐう、とお腹が鳴った。そういえばお腹減ったわ。寒いし足は痛いし。……どうせ行くあてもないし、なんか折角だから、今見たコレのこととかも詳しく聞いてみたいわよね。ーーーそうね。
袖擦り合うも多生の縁よ。せっかく誘ってもらったんだもの、此処は大人しく、あの二人について行くのが正解なんじゃないかしら?よし。決めたわ。
胸の前でまず合掌する。“隙間”にいるハズのモノ達へ、頭を下げて束の間の黙祷。顔を上げて、アタシも歩き出す。
さあっ、とオレンジ色の光が曇天を裂いた。落ちる寸前のわずかな夕陽が、アタシと橋と山と、そして栄為子の街を照らし出す。
懐かしい、とは思わない。地元に思い入れは無い。でもアタシは結局、何処にも行けずに此処に戻って来た。行き場がないなら見つけなきゃならない。でもそれは後で考えよう。今日は今日のこと。狐禅寺豊彦の家を目指して、もう少しだけ頑張って歩くことにする。