「マスク」「辞典」「パニック」
彼女は、はなびをみたことがない、と言った。彼女は物心ついたときから病院を出ることは許されず常にマスクを身に着けていた。外に出ることができない彼女にとって百メートル四方の世界が全てであって、そこにないものはすべて噂話にすぎなかった。
彼女は常に本を持っていた。噂話を収集することが好きらしく、体調がすぐれているときは時間のある限り私に自慢してくれた。愛用している国語辞典は私に伝えたいことを記録するたびにボロボロになっていったが、彼女はそれをずっと手放さなかった。せかいはもっとひろくて、たくさんのいきものがいて、いっぱいきれいなものがあって、そう言ってくる彼女は誰よりも輝いていて、そんな彼女を見ることが私は好きだった。
次第に彼女と話す機会は減っていった。私はどうしても彼女に笑ってほしくて、花火を撮影して見せた。彼女が初めて見る花火は、実物よりずっと小さくて、ずっと汚かった。しばらくして、彼女は動画を見て泣き始めるものだから、私はパニックになった。文字で見るよりも汚い色だったのだろうと思いひどく後悔したが、彼女は泣きながらも笑顔で、すごくきれい、と言ってくれた。今まで見てきた中で一番素敵な笑顔だった。私は画面に映る小さい花火のことが好きになった。