アリスな彼女 2
チェシャ猫といったら、ヤツだろう。
一面の景色は虹色でした。
角度によって色彩を変える空から、柚月ちゃんは落ちていきます。
ただし、その速度はゆっくりで、自由に身体を動かすことができました。
長い時間、ゆらゆらと漂いながら。
自身のつま先を見つめても、穴の底らしき地面は現れません。
柚月ちゃんは、だんだん不安になってきました。
(……ちょっと、これ、底なしなんじゃ)
このまま、ゆっくり着地できる保証もないのです。
何かの拍子に、スピードが早まって地面に激突。
なんて、オチもありえます。
「まずいッ! どうしようッ!?」
真っ青になって、空中をかいてもがく。
今さらって気がします。
落ちる前に考えとけよって話です。
その時、足元が白い光に包まれました。
「!」
視界いっぱい光の輪をくぐって、柚月ちゃんは息をのむ。
見つめていた足先は、木々の中に突っ込んでいます。
小枝や葉っぱが、服や肌に襲いかかりました。
「きゃ─────ッ!!」
腕や足のあちこちに痛みが走ります。
木々の小枝で、肌や布地が引き裂かれたためです。
さっきまでの浮遊感はなく、ものすごいスピードで落下していきます。このままでは地面に激突してしまいます。
もう、駄目!
柚月ちゃんが目をつぶった瞬間でした。
ドスンッ!!
「うッ」
鈍い衝撃に、うめくような低い声音。
引っ張られるような感覚もありません。
「…………あり?」
恐る恐る目を開ける柚月ちゃんは、「んぎゃっ!!」と悲鳴をあげそうになりました。
目の前には、あるはずの景色がないからです。あるのは、不機嫌そうな人の顔だけでした。
「重い」
声の主は、チェシャ猫の漣でした。馬乗りになる体勢で、彼にのしかかっています。
かなり大胆な格好ですが、柚月ちゃんはそれどころじゃない。
「漣ッ? あんた、ここで何してんのッ!?」
目をまるくさせて訊ねるも、漣チェシャは迷惑そうに頭をかくだけです。
「何してるかと訊かれれば、僕は昼寝していた。その最中に、君が上空から唐突に降ってきたんだろう。思いきり腹に着地してきたな。横綱でも落下してきたのかと思ったぞ」
「あぁぁ──もうッ! 嫌味たらたらな状況説明ありがとッ!」
相も変わらず、毒舌の嵐。
柚月ちゃんは頬を膨らませ、ぷんぷんと怒りを露にします。
ですが、彼の口の悪さは生まれつきだと思って、諦めました。
すぐに当初の目的を思い出します。
「おっと、こうしちゃいらんない。あんた、宗真を見なかった?」
漣チェシャは悩ましげに笑った。
「さぁ?」
横目で不敵に笑う眉目秀麗の男。
フェロモン大量発生。
頬杖ついて足を組む仕草すら無駄に尊い。わずかに微笑むだけで大人の色気が大量発生したのだが、柚月ちゃんはがっくりとうなだれただけでした。
「……見たけど、教える気はないのね」
そのフェロモンを完全防御。柚月ちゃんは言葉の意味を正確に理解します。
「じゃー、いいわよ。自分で探すから」
よいしょと漣チェシャを跨いで、スカートを翻します。
身体が離れそうになる寸前、漣チェシャが手首を掴んできました。
「待て」
「何よ。今、あんたに用はな……」
眉間に皺を寄せた柚月ちゃんが振り向くと、バキッと乾いた音が響きました。次に、バッキンッとさらに大きな音がします。
「えぇぇ─────ッ!?」
それと同時に、また急速に落下していく感覚に見舞われます。
どうしたらいいか、柚月ちゃんが一瞬の判断を迷えば。
グンッ!
強い力で、右手首が引っ張られます。
頭上を見れば、木の枝からチェシャ猫が顔を出してきました。
「言い忘れていたが、ここは木の上だ」
「そんな重要なこと、言い忘れんなぁッ!」
宙ぶらりんになった柚月ちゃん、ついつい八つ当たりしちゃいます。
「…………」
すっと、漣チェシャの目つきが鋭くなった。
柚月ちゃんは、反射的に首を竦めてしまいます。一応、助けてくれた恩人に対して暴言を吐いてしまったのですから。
「嘘。やだ、ごめん。悪気はなかったの。許して」
柚月ちゃんは、おずおずと謝ります。
けれど、相手の漣チェシャはドSなのです。冷たい表情のまま、思わぬ反撃を仕掛けてきます。
「……どれのことを謝ってる?」
「いぃッ!?」
目を剥いた柚月ちゃん、噛み合わせた歯の間から悲鳴を洩らします。
「腹めがけて突進してきたことか? 他人が親切に状況を説明してやったのを遮ったことか? はっきり『僕に用はない』と言おとしたことか? それとも、落ちかけた君を助けた人間を怒鳴ったことか?」
「……若干、意味不明な怒りを感じるんですけど。たぶん、最後から二番目あたり」
「…………」
手首から、するっと力が抜けそうになる。
「は、離さないで! お願い、離れたくないのッ!」
恐怖心から混乱してきたらしい柚月ちゃん。
漣チェシャの手を強い力で握り返し、誤解を招く発言をしてしまいます。
しかし、それで許すような彼ではありません。再び、握られた手をするっと離そうとします。
「待ってよッ! あんたと、ずっと一緒にいたいのにッ!」
またまた、わけわからん内容です。
でも、漣チェシャの動きは止まりました。
今ので、躊躇いが生まれたようです(どの言葉に興味を覚えたかは謎ですが)。
「少しは、感謝してよッ! あんたみたいなひねくれ者を好きになってやったんだからーッ!」
柚月ちゃん……それは文句なのか、ノロケなのか。
混乱してるせいで、恋人に対してあんまりな本音が駄々漏れです。
するっ。
手の力が緩みました。当然ながら、漣チェシャ的にはNGっぽい発言ですからね。
「ぎゃーッ! 待った! 今のなしッ!」
わずかに正気に戻ったようですね。
そう。このまま悪態をついても状況は好転しません。
それに気付いた柚月ちゃん。ヤケクソ気味に、大胆な言葉をぺろりと叫ぶ。
「ごめんなさい! おしおきでも何でも受けるから、私を離さないでーッ!」
そこで漆黒の双眸が、きらりと光る。
「……その言葉、忘れるなよ」
「えッ」
短いひと言と共に、握っていた手がパッと離れました。三度、襲われる浮遊感に柚月ちゃんの眦がつりあがった。
「話が違うじゃないかッ! このチェシャ猫野郎ッ!」
柚月ちゃんが、ものすごく口汚く罵ったあと。
トンッ。
「んん?」
不意に爪先が地面に着いていた。
頭上から、ガサガサと葉擦れの音が落ちてきます。木の枝を伝って、漣チェシャが目の前へと着地しました。
「普通、どれくらいの高さなのか確かめるだろ」
「…………えへ」
笑って、ごまかそうとする柚月ちゃん。
そういえば、木の上に着地してから再び落ちても、地面までの距離を確認してませんでした。
そそっかしいにも程があります。
それが、気に入らない漣チェシャ。
いきなり頭突きをかましてきました。
「ぁいたッ」
柚月ちゃんの悲鳴も無視して、ぐりぐりと額を押しつけてきます。
鼻先が触れて、微かに吐息も感じました。唇も、くっつきそう。
何となく恥ずかしくて、柚月ちゃんは顎を引く。
自然と額が押し出されるような形になり、唇との距離を稼ぐつもりなんですが。
漣チェシャのおしおきは、一枚上手だった。
「で、さっきはなんて言ったんだ? チェシャ猫野郎?」
「……ゴメンナサイ」
とりあえず、柚月ちゃんは謝ってみた。