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朝起きるとき膝が痛い。庇うと足が攣りさらに痛い。
腰も痛い。肩は肩こりが慢性化しているのか常に張ってこれまた痛い。
歳を取るということはこういうことだ。
どれだけ科学が進歩しようとも、医療が発達しようとも老いには勝てない。
ぼんやりと水の中に浮いているような感覚。
それはまるで睡眠から目覚める感覚に似ていた。
意識が浮上し、自分の体を知覚する。
足裏に感じる固い感触、頬を撫でる風。
閉じていた瞼を上げる。
目の前には草花が咲き乱れる草原が広がっていた。
そよ風が花の匂いを鼻へ届ける。
大きく息を吸い込むと肺いっぱいに瑞々しい香りが満ちた。
「これが、ゲーム」
VRMMO【the stone of destiny】に降り立った初心者プレイヤー
朱山 結未 89歳 の最初の感想であり言葉だった。
ゆっくりと一歩を踏み出す。
体が軽い。丸まっていた背中は真っ直ぐに伸び、どこにも痛みを感じない。
まるで若い頃に戻ったような感覚だ。
「なんて素晴らしいのでしょう」
老いさらばえた体から解放されたユミは小躍りする勢いで駆け出した。
最初は脳波を捉えるだけだったVR技術は、時代とともに発達し精神転送を可能とした。
フルイマージョンする際、人の体を丸ごと収納するタイプだった筐体も小型化が進み、今では小脇に抱えれる書類ケースほどの大きさしかない。
一般家庭にフルイマージョンできる小型筐体が普及し、頭部装着式デバイスも非透過型、透過型ともにファッション性が重要視されたりと変化してきている。
ユミのひ孫は幼児期に予防接種を受けるように脳内に直接ナノマシンを挿入する世代となり、日常生活でARとVRを使いこなしていた。
脳内の神経接続を自由に変更出来、記憶、感覚など脳機能の拡張を行えるようになるとゲームの世界はより、リアルな物へと変貌した。
そしてそれは、ユミのように肉体の衰えや病症で満足に動くことが出来ない人間にも、自由に動ける空間と身体を与えてくれた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ゲームを始めるとまず最初にキャラクタークリエイトを行う。
自分そっくりに作る事も出来るし、見た目や性別を好きに変更する事も可能だ。但し、完全没入型でプレイをするプレイヤーは現実の体型や性別を乖離させすぎないことを推奨されている。
これはゲームシステムに因る部分が大きく、ゲームによっては完全没入型でも好きに体型や性別を弄れたりする。
開発費とプログラマーの質次第という大人の事情も絡んでくるのだが、一番の理由は細かくレイティングされたゲーム内容の『どこまで、何が出来るか』で決まってくる。VRゲームを楽しむことが許される12歳から遊べるゲームは自由度が高く、20歳から遊ぶことが出来るゲームではキャラクタークリエイトにおいては制約が多い。
結未が始めた【the stone of destiny】は15歳以上対象であり、性別と体型は現実に準拠する。ことを推奨している。
ゲームを起動し、クリエイト画面まで来た結未だったが、キャラクターの名前を決めるところで躓いてしまった。
あくまでゲームは非現実である。現実から解き放たれて別の人間となれるのだから、名前も好きに決めていいだろう。
だが、最近物忘れが酷くなった気がする結未はキャラクターの名前も『ユミ』とするべきか他の名前をつけるか考え込んでしまったのだ。
中で出会った人に名前を呼ばれても、それが自分の名前だと忘れてしまい、判らなかったら大変である。暫し悩んだ後、結未は『ユミ』と名前を決めた。
次に年齢をデフォルトの少年期に設定し、体型と性別は現実の自分に合わせた。
顔は若い頃の自分を思い出しながら整形するが、どこか今のひ孫に似ていて血は繋がっているのだと少し笑ってしまう。
ヴォイスは自身の声をサンプリングして使用することも出来るが、キャラクターアバターの容姿から自動作成されるのがデフォルトだ。
だが、調整は可能なため、見た目が妖艶な美女なのにバリトンボイスやマッスルボディの男性が幼女声など遊び心で通じるか微妙なラインを攻めるプレイヤーも極一部だが存在していた。
髪と目の色は折角なので現実にはなれない天色を選択する。娘時代に使っていたこの色のペンがお気に入りだったからだ。
髪の長さは視界に入るように腰までのストレートに調整し、最後にデフォルトのアクセサリーから赤いリボンを選択してハーフアップに整えた髪に飾った。
クリエイト画面に常にガイドが表示されるため、高齢者のユミにも難しくなくデザインできた。
服装は、色は選べるが形はデフォルトの7種からしか選べない。
魔法使いを思わせるローブと女の子らしい小花柄のワンピースで悩んだ末、ワンピースを選択し白地に小花を淡い薄荷色で染色した。
街のNPCが着用する全く冒険者らしくないこの服装はプレイヤーからは不人気なのだが、この後装備を身につけた時の不恰好さまで意識が回らないユミにとっては、今、目の前の服装が可愛いか、可愛くないかが重要だった。
武器や防具などの装備品は、ゲーム内で『案内役』と表示のついたNPCから渡されるとクリエイトガイドに書いてあったので、キャラクタークリエイトを完了する。
ふわりと体が浮くような感覚。意識が真っ暗闇に放り出されるも、その闇が怖いとは思わなかった。
ややあって体の感覚を取り戻す。
目を開くと遠く左右に林が、真ん中には小道が通る草原が広がっていた。
ユミが降り立った場所は『はじまりの丘』とされるゲームを始めたプレイヤーが最初に降り立つ場所だった。
ここから真っ直ぐに小道に沿い進むとゲームのストーリーで最初のキャンプ地とされる『初級者訓練場』にたどり着く。そこで案内役のNPCからゲーム内のルールやシステムをクエスト方式で教えられるのだ。
本来なら5分も掛からず駆け抜ける場所をユミは暢気に花を摘んだり、綺麗な小石を見つけては拾ったりと満喫していた。
芝は足首が隠れるほどの高さに伸び、ところどころは膝の高さまで育っている。
カラフルな花を咲かせる草花が混じった草原は差し詰め花柄の緑の絨毯だった。
「あら、可愛らしい。あなたはうさぎさんなのかしら」
そんな草むらの中に見つけた生物は兎に酷似した姿をしていた。薄桃色の体毛に10cmほどの鋭い一本角が額から生えている。
兎と言い切るには些か難のある見た目だ。しかも、一般的な兎よりふた回りほど大きい。
兎もどきは食事中だったらしく白い花のついた植物を食べていた。
「お食事中だったのね、ごめんなさい」
話しかけるユミの存在を気にしていないのか、兎のような生物は黙々と食事を続ける。
時々鼻をひくつかせては後ろ足で起立し、風の中に混じる匂いを感じ取って安全を確認すると再び食事に戻る。
そんな動作を繰り返す兎もどきをユミは面白そうに草むらに座り込んで見ていた。
兎もどきを見つけるまでの間に摘んだ花とその場に咲いていた花を合わせて花冠を編んで時間を潰す。
「ご飯はもう済んだの?」
いつの間にか座るユミの横に来ていた兎もどきに話しかける。もどきはユミの言う事が判っているのか判っていないのか立ち上がると首を傾け、鼻をひくつかせた。
「綺麗に出来たでしょ、あなたにあげるわ」
兎サイズに作られた花冠をもどきの頭に乗せようとして逃げられる。
大きく跳躍しユミから距離をとったもどきに驚き、小さく声を上げ固まるユミをもどきはじっと観察する。
「ごめんなさいね、驚かせてしまったわ」
警戒するもどきに素直に謝るユミをどう捉えたのか、もどきはゆっくりした動きでユミに近づくと彼女に自分の頭に花冠を乗せることを許した。
「素敵よ、とてもよく似合ってる」
微笑むユミに、もどきはプゥプゥと高い音で鼻を鳴らすとそれを別れの挨拶に草むらの中に消えていった。
「素敵な世界ね、あんな可愛い動物がいるなんて」
「どう見てもモンスターなんだが。無知とは時に常識を凌駕するのだな」
浮かれるユミの頭上から若い男の声が掛けられた。