第二話 帰還した者
真っ暗な世界の中で、誰かの呼ぶ声が聞こえた。
誰の声か分からない。聞き覚えの無い声だった。
目を覚ますと酷く体が冷え、悪い夢でも見ていたような、後味の悪さが残っている。咽は渇き、体が重い。
「…み…ず……を…。」
「先生!アヤセさんが目を覚ましました。」
自分が寝ている傍らで、大声で叫んでいる女性がいた。ぼやけた視界とハッキリとしない意識の状態でも、この女性の声が勘に触った。その後に続く、頭痛と吐き気が体を襲う。
(……なんだ?……)
白衣を着た男性が慌てて現れる。瞳孔のチェックと脈を測り、こちらの顔を覗き込んで来た。
「…みず…を…。」
その言葉を聞いたのか、先程の看護師が水差しを咥えさせる。そんな光景を傍らの医師が冷たい視線で眺めている。自分に水差しを咥えさせている看護師を見ると、そこには驚く程の美人がいたが、これはサポートAIで、長時間勤務で重労働な職場の職員をサポートするロボットだった。
「何か覚えている事はあるか。ニューフロンティア・サポート社の業務を遂行中に事故が起きた。あり得ない事だが、サーバーがダウンしたのだ。多重構造のリスク分散型だったのが幸いした。サーバーの総べてがダウンしていたら、大騒ぎだっただろう。」
水を飲み、一息ついている状態で聞かされた事実に、あの時の光景が蘇る。
あのとき、世界がシャットダウンする寸前、あの老婆が優しく微笑んでいた。
「自分が…担当…していた…人は…。」
「済まない。こちらでは分かりかねる。ニューフロンティア・サポート社で確認してくれ。こちらで数日様子を見て、問題がなければ退院してもらう。分かるか?」
医師の言葉に、自分は頷いた。
「自分…は…どれ位…寝て…いまし…た。」
「あぁ、三日程かな。フルダイブのサーバーがダウンするなんて、一歩間違えば廃人になる可能性もあった。今回は犠牲者もなく原因の究明が、急がれている所だ。君は運が良かった。何かあればコールしたまえ。」
そう言うと医者はそそくさと出て行く。その後を追うロボットが出口でお辞儀をしていた。それは、お辞儀のお手本のようにゆったりとした動作で、この場所では違和感を感じずにはいられなかった。それは有明辺りの見本市でお目にかかるお辞儀に思えた。
それから二日程は、検査と回復の為の簡単なリハビリが行われた。その合間に、ニューフロンティア・サポート社から担当者が訪れて来た。今回の事故に関しての簡単な話と、労災についての説明だった。事故現場のサーバーは、現在は復旧し、事故原因を調べているらしい。サーバーを運営する会社からも、見舞金が支払われ、俺はちょっとした小金持になっていた。
「問題がなければ、明日にでも退院出来るそうです。ニューフロンティア・サポート社への復帰は、当社の規定通り、カウンセリングとストレス数値の状況を確認して、具体的な日付を決めましょう。」
そう話す担当者は、愛らしく可愛らしいタイプの女性だった。会社側のあざとさが見え隠れする人選だが、やはり可愛らしい女性に面と向かって文句は言えない。しかも何日もベッドの上で過ごしていると、この女性独特の花のような匂いは、精神衛生上よろしくない。事故当時、自分が担当していた対象者の事が気になっていたが、会社の規定通りの守秘義務のため、何も聞き出せなかった。
明日には退院出来ることになり、誰もいない病室から外の風景を見ていた。そのとき部屋の天井にセットされた監視カメラが、一時的に機能停止していた。日も傾き暗くなった病室の扉が音もなくスライドし、女子高生と思われる女の子が入って来た。彼女は驚く自分の顔を見て、人差し指を唇に当てた。
「なっ?」
女の子は、再び静かにしろとゼスチャーして来た。病室に入って来た彼女は、小型の端末を操作し、抱えて来た何かの機械を部屋の中央にセットし、スイッチを入れた。何かのノイズと頭痛がしたが、それも直ぐに止まった。
「ごめんなさい。状況の説明から順にするべきところだけど、余り時間が無いの。この機械も一時的な誤摩化ししか出来ない。貴方は監視されているわ。貴方は帰還者なのよね。」
彼女の言葉に、全く心当たりのない自分は返事に困っていた。そんな自分に業を煮やした彼女は近付き耳の中を見せろと言って来た。意味が分からないと告げると、直ぐに分かると返された。仕方なく耳の中を見せると、彼女は難しい顔をした。
「やっぱりセットされている。貴方、頭痛が酷くない。耳の中に監視装置をセットされているわ。ご丁寧に最新式のマイクロね。私で外せないわ。まぁ、信用できないでしょうから自分で見てみる。写真を撮るわね。」
そう言って見せられた写真。自分の横顔からクローズアップし、照らされた耳の中に、小さな金属片のような何かがあった。
「どうすればいい。」
「今は、無理ね。心配しなくても監視用だから、何か外部からコントロールされる心配はない。外してしまうと、逆にバレる可能性があるの。ごめんなさい。
私は渚、小田切渚というの。貴方は、綾瀬三月でいいのよね。」
「そうだが、何で知っている。何処かで会ったか。」
「いいえ、貴方と会うのは、これが初めてなの。これは私の一方的な事情で、貴方にどうしても聞きたい事があったの。」
そう話す彼女の必死さが伝わって来た。多分、彼女は抜き差しならない状況なのだろう。悪意を持って騙している人間には見えなかった。
「何が聞きたい。俺に分かる事か。」
「えぇ、貴方にしか分からない事よ。帰って来たのが貴方だけなの。帰還者は貴方一人しかいない。軍内部で箝口令が敷かれ、貴方に不用意に接触することも許されない状況なの。貴方が見た者の中に、何かヒントになるものがあれば、あの人を助ける事が出来るかも知れない。」
「俺が見たもの…いっ…。」
何かを思い出そうとしたが、刺すような痛みに顔を顰める。この状況に、渚と名乗った女性は、部屋の中央にセットした機械を片付け始める。
「もう、時間がないわ。また、方法を考えて、近いうちに何とか接触する。あと、変な検索とか調べものとかしない方がいい。さっきも言ったけど、貴方は監視されている。まぁ、普通にしていれば問題ないから。」
そこまで言うと、慌てて部屋の扉に手を掛け扉を開けた。そこにはサポートAIが立っていた。慌てる彼女に、俺が声をかける。
「その人、慌てて入る病室を間違えたらしい。」
誤摩化しつつ、サポートAIに水を運んで貰う。明日の退院スケジュールと病院の支払いについて質問し、用は済んだと追い払った。
(何が起きたのか調べる方法はないだろうか。自分が検索すると、それが伝わるのか。耳の中にあるものが音を拾っているのなら、監視の目はカメラだろうな。)
それとなく天井に付けられたカメラを窺う。視界の片隅で、微かに赤いランプが見える。
(絶賛監視中のようだ。)
本当は、何が起こっているのか疑問だったが、今は大人しくしていることにする。耳の中にセットされた監視装置は、病院側もグルになっていなければセットする事が不可能なはずだ、従ってここで問題を起こしても何も解決しない。下手に拘束でもされれば、自由に動けなくなると思い、何かいい方法がないか模索するのだった。