プロローグ
自分が尊敬する20世紀の知的巨人としてピーター・F・ドラッカーという人物がいた。他人から未来学者と呼ばれたこともあったが、自分では社会生態学者を名乗ったそうだ。
1909年11月19日。オーストリア・ウィーンに生まれ。ユダヤ系オーストリア人。彼の経歴を眺めていると、揺れ動く時代と世界の情勢を、彼独自の冷静な視点で捉え、自分自身がいかに行動するべきかを、正確に判断していたことに気付かされる。この冷徹とも言える観察眼と全体を捉える視点が、後に彼を有名にする資質であり才能だと私は思う。19世紀の古いヨーロッパ社会の崩壊から、20世紀の新しい社会システムを目の当りにした彼は、多くの重要な経営コンセプトを考案した人物だった。
今となっては、彼の著書は古き良き時代の産物だと言われるかも知れないが、私には共感できる部分や、その先の道標になる重要な役割りを持った本だった。確かに、皆が幸せに暮らすために、如何に考え行動するかなどは、現代の渇ききった人間関係の世界からは古き良き時代と言われるだろう。さらに彼が人格者だと窺えるのが、彼の基本的な関心事が「人を幸福にすること」だったからだ。
そんな彼の思考は組織や企業経営だけでなく、社会や政治についても向けられていた。彼の著書に「プロフェッショナルの条件」という本がある。ただ、この場合のプロフェッショナルはビジネスついてのもので、その他の一般的なプロとは多少意味合いが違っていた。この本は、日頃から常にプロフェッショナルであろうとする自分に、大いに共感できるものであった。
その中で、社会において業績をあげ、何かに貢献し成長するには、単なる業績アップやキャリアアップを目指すものではなく、これからの時代を生きる知識労働者が理解すべき問題を取り上げていた。ちなみに「知識労働者」という言葉は、彼の造語であり後世に広まったものだ。
そして思うのだ。もし、彼が現代に生きていたら、バーチャルリアリティー空間で活動する我々の事を、いったい何と呼んだだろうか。仮想空間での任務に携わる自分は、知識労働者と呼べないし、肉体労働者でもない。もちろん職業軍人という括りは外せないが、かつてのイメージにある職業軍人というものとは明らかに違ったものでもある。
電脳空間やサイバースペースで活動する場合、頭脳や肉体よりも精神の疲弊が著しい。フルダイブと呼ばれる環境は、非常に便利で快適に思えるが、仕事や作戦を行なう者達は、頭脳や肉体よりも精神に多大な負担が掛かっていた。そんな我々を見たドラッカーは、自分達のことを「精神労働者」と呼んだのではないだろうか。仮想空間で働く人間は、その精神の摩耗を対価とし、それに見合う報酬を得るのだ。
21世紀初頭に発表されたVR技術は、百年近くを経て現実世界と区別が出来ないほどの仮想空間を実現していた。このスーパー・バーチャル・リアリティー(SVR)技術は、人々に多くの恩恵と雇用を齎したが、同時に現実世界と同様の犯罪や問題を引き起こしていた。
「司令部よりアルファ-01、状況報告。」
「こちらアルファ-01、指定区域に到着後、対象区画内の状況をモニター中。」
「司令部よりアクセスポイント解析終了、アクセス元は新興国と推定。但し、偽装の可能性あり。作戦行動に当たっては、充分注意されたし。」
「こちらアルファ-01、内部モニター終了。保護対象アバターを確認。何らかの方法で行動及び活動の阻害が行なわれている模様。その周囲に複数のアバターを確認。許可申請が受理され次第、強行突入を開始する。」
「司令部よりアルファ-01へ、許可申請が受理された。繰り返す許可申請が受理された。」
「こちらアルファ-01、これより強行突入を開始する。」
この数分後、このブロックのサーバーが突然ダウンする現象が発生した。フルダイブ中のサーバーダウンや停電は、その危険性から何重もの安全装置と保護機能で守られていたはずなのだが、局所的な破壊と故障が生じていた。
幸いな事に狭い範囲の出来事で、多重に守られた安全装置のため、多くの人間がその難を逃れたが、理論的にあり得ない出来事だと専門家が指摘していた。死傷者もいないことから、騒ぎはそこまで拡がらなかったが、ここまで守られていた安全神話が崩壊した瞬間だった。
しかし、公的な機関の発表は真実ではなく、本当はその区画で作戦行動中だった小隊が行方不明になっていた。正確に言えば肉体は軍施設に残り、精神が行方不明の状態になっていた。この件に関して軍内部で箝口令が敷かれ、トラブルの公表及び作戦行動の一切について隠蔽されていた。