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38 王太子と人魚姫

 それはアラルフィ王太子グラハムと人魚姫クレメンティアの話。



 満天の星空より流れ落ちる光のしずく。

 海風に波打つ草原の丘。

 アラルフィの町と人魚の国の狭間にあるその場所で。

 美しい男女が唇を重ね、肌を重ね合わせる。


 小麦色に焼けた肌、筋肉の塊のごとき逞しい体の王太子と、雪のような白い肌の繊細で華奢な人魚姫だ。

 美しい人魚姫は、愛する男性の鋼のような体に自らの体を預け、その熱い体に肌を重ね合わせる。そこには数々の戦いに先陣をきって飛び込む雄々しい戦士の傷跡が刻まれている。激しい嵐に、激しい荒波に立ち向かう船のごとき人間だ。

 逞しい王太子は、絹のように吸い付く美しい肌と、夜の闇にあっても光る美しい金色の髪を優しく撫でる。壊れてしまいそうな、繊細で、華奢な、それでいて静かな海のようにすべてを包み込む愛情に満ちた慈しみ深い女性だ。愛おしい、ただただ愛おしい女性だ。

 月に一度、あるかないかの逢瀬のひと時。

 二人はただただ、一つの心となり、一つの体に重なり合う。


 ”愛している……クレメンティア……”

 ”私も……グラハム……”


 人目を偲んで行われる蜜月。何度も交わされる営み。

 静かで穏やかな海に癒される船と、傷つく船から惜しみない愛情を注がれる海。

 心の奥底から湧き溢れる悦び。

 心に、体に刻み込まれていくそれぞれの生きた証。


 ある夜、王太子はアラルフィへと姫を連れ行く。

 暗闇にあっても雄々しくそびえる断崖。

 海の底のように静まる階段状の町並み。

 胸をすく清々しい柑橘の香り。

 月の光を浴びて輝く大聖堂のファサード。

 淡いランタンの光に浮かび上がる天国の回廊。

 艶やかに光る整然と並んだ長椅子。

 芸術の粋を極めたおごそかにして絢爛な祭壇。

 祭壇を輝かせる天より落ちる月光の筋。

 月光に燦然と輝く、人魚姫のごとき美しい聖鏡。


 天国へといざなわれたかのような美しい大聖堂に心を打たれる姫。

 ただただ言葉を失いバロックの聖堂を見上げたまま佇む美しい姫を、王太子は背中から優しく抱きしめ、ささやく。


 ”この聖なる鏡を見ると、いつも貴女を思い出す……”

 ”綺麗……”

 ”これは王家に伝わる聖なる宝……これが我が王家を護っている……だが私の宝はこの腕の中に……”

 ”グラハム……”

 ”将来、ここで婚姻の儀を行おう……”

 ”うれしい……うれしいグラハム……”


 将来、ここで婚姻の儀を行おうと誓う二人。

 聖鏡の前で口づけを交わす男女。

 抑えても心の奥底から溢れでる相手への想い。

 かけがえのない半身。



 しかし人魚と人間の間には、子を成すことができない。



 引き裂かれる二人。

 王太子をたぶらかした、と海妖精を憎む人間。

 姫を疵物にした、と人間を憎む海妖精。

 憎み合う人魚の国と人間の国。

 高まる不信の念。

 それぞれに与えられる新たな伴侶。


 最後のとき。

 王太子は大きな包みを持って逢瀬の場所へ現れる。

 包みを開ける姫。

 そこには一枚の楕円形の鏡が煌めく。

 台座から外した聖鏡だと告げる王太子。

 驚きを隠せない姫。



 ”人魚と人間を憎しみ合わせてはならない……私は国と民の元へ戻り彼らを戒め続ける……”

 ”グラハム……”

 ”私は貴女を護れない……だが私の代わりにこの聖なる鏡が貴女を護ってくれる……”

 ”グラハム……いけない……そんなこと……”

 ”愛している……どうか……いつまでも元気で……”

 ”グラハム……”



 月光の届かぬ、冷たく暗い海の中。

 海底に沈む王太子の船の中で、姫はただただ泣き崩れる。

 自らの代わりに王家の秘宝さえも差し出す王太子の決意。

 もう会うことが叶わない現実。

 姫はただただ泣き崩れる。


 愛しい、愛おしい王太子を忘れられずに。

 彼の心と体をその身に刻みつけた姫。

 かけがえのない半身たる王太子。

 彼を忘れ、他の者を受け入れることなどできない。


 泣きじゃくる姫に優しい声がかかる。



 ”悲しまないで……”



 優しい光を放つ聖なる鏡。



 ”貴女を護るよう託されました……貴女の望みを聞かせてください……”

 ”ここではないどこかへ……彼を刻みつけた心と体を護れる地へ……”



 光り輝く鏡。

 太陽のごとく金色の縁を出現させる聖なる鏡。

 暗闇の海底にこだまする船音。

 動き始める光に包まれた船。

 暗い海中を進むまばゆい光。

 誰にも届かない地。

 誰にも気づかれない地。


 深い深い海溝の底。

 王太子が育った雄大なアラルフィに見まごう断崖。

 小高い海底の砂の上に降り立つ船。

 広がりゆく明るい光。




 ■システィーナの視点



 柔らかい風が草原の丘を駆け上り、私の髪を揺らす。

 私の傍には、繊細な装飾の施された美しい船が静かに風を受け止めている。



 王太子と離ればなれになった人魚姫がどうなったか……。



 人魚姫が行方知れずになってしまったことで、憶測でしか語られていない。

 それは『 人魚姫は初めて結ばれた王太子を忘れられず、想い出の海で過ごした 』というものだ……。



 人々のその憶測は、正しかった。

 この『 光る海 』こそが、その想い出の海だったのだ。



 聖なる鏡に映し出されたそれを見て、ディートリッヒが泣いていた。



 聖鏡は静かに続けた。

 海の豊穣、風の豊穣の力によりこの空間を創り上げ、太陽の豊穣の力により光と温度を保った。海の豊穣の力により塩水を真水に変え土壌を改善し、さらに水から酸素を取り出す。海の底に沈む商船には多くの積荷が眠り、その中には堅く守られた穀物や種子があり、それを植えた。ゴーレムを生み出し、ゴーレムとともにこの地を豊かに変えた。明るい光と温かな海水により、多くの海の生命がこの地に訪れ、海の豊穣を体現するかのように生命たちは巨大化していった。


 あるとき海の上が騒がしくなり、多くの船がこの海の底の楽園をめざしていることを知る。ここは人魚姫のための人魚姫だけの世界。海の豊穣の力により海流を生み出し、流れを複雑にして阻む。落ち着きを取り戻した海。

 しかし予想を超えた事態は続く。海の豊穣の力により巨大化していった生物たちを捕食するため、多くの魔物たちも集まり、同様に巨大化していく。海の豊穣、風の豊穣、太陽の豊穣の力をすべて使いながら魔物を退治するも、後から湧いてくる魔物たち……。



「なるほど……アラルフィに流れ着いたサルベージ船とクラーケンは……海の豊穣の力で海底に渦を作り、クラーケンとサルベージ船を串刺しにしたと……そのときの渦が、他の沈没船をも動かし、それが人魚の国に流れ着いた……」


 ”そうです。また太陽の豊穣の力を用いて温度を奪い、氷漬けにしたこともあります”


「なるほど。それがアラルフィに流れ着いた氷山の正体……」


 ”氷漬けにしたのは神殿騎士殿を呼び寄せるためでもあります”


「え?」


 ”私の手に余る魔物が現れました。動きが早すぎて渦にもかからず、氷漬けにもできず。そのとき龍のごとき神殿騎士アヴァン殿を思い出し、何とか別の神殿騎士を呼び寄せようと考えました。きっと氷山を見た神殿騎士が、不可思議に思ってここを訪れると”


「聖鏡の手でも余るとは……どのような魔物ですが?」


 ”あなたが退治した双頭の亀竜です。助かりました”


「そうでしたか……アヴァン殿はいつこの地へ?」


 ”二百年前……人魚姫がこの世から去って数年後のことです”



 その言葉にディートリッヒが息を呑んだ。彼女の代わりに私が問いかける。



「人魚姫は……ずっとここで……一人で過ごしたんですね……」


 ”ええ。王太子への想いを胸に……”



 この光る海で、一人……



 王太子への想いを胸に……



 愛するひとを刻み込んだ心と体のままに……



 私は……



 人魚姫は……幸せだと思った……



 人魚姫を……うらやましく思った……





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