26 海底へ(深海底)
■システィーナの視点
ああ……………。
もう……………想像すら追い付かない、途轍もなく大きな大きな水床の底に、私はいる。彼と出逢う前の私では到底存在しえない、世界の最下層の大地………。
大いなる水床はすべての音を包み込み、すべての光を飲み込み、闇に葬り去る。
耳を澄まして聞こえるのは、自らの小さな呼吸音だけ………。あまりの静けさに、耳鳴りさえ覚える。
密やかな世界………それが脳裏に浮かんだイメージ。
コックリと私とディートリッヒは、大きな大きなテラメディウス海の、暗晦たる暗闇の世界へと降り立った。『 深海 』へと。暗い、暗い、すべてを覆い隠す暗闇の世界。暗闇の水床の底なので、もちろん海底の風景は分からないのだけれど………私の瞼の裏には、ある景色が浮かび上がる。故郷の森から見える、峻嶮なるリートシュタイン山系の大峡谷の景色が………。
「さあ、やっとついたな………方角を調べてみよう」
コックリは複雑な羅針盤を取り出して調べ始める。暗黒の世界では、それだけが道しるべだ。深海に来る前、私にも予備を渡してくれたけれど、複雑すぎて私には使えないよ。え? 俺に何かあった時、最低でも北へ向かうことができればいい? ちょっと、怒るわよ! 縁起でもないこと言わないで! 一緒に法王庁へ行くんでしょ!
「よし、この方角だな。距離は感覚的なものだが、おそらく二百キロ超というところか。しかし…………」
コックリは辺りを見渡しながら言った。私たちの真上には光の精霊が浮遊し、周囲を明るく照らし出している。ああマリンスノーが白く輝きながら落ちてくるよ。
「さて明かりをどうするか………どうやら深海の生き物は、光に集まってくるようだ」
うわあ! 光の精霊に引き寄せられるように、頭が異様に大きい、口がトゲだらけのグロテスクな魚が泳いできたよ。うわあ! 水馬の足元には物凄い大きなダンゴ虫が! ええ? 深海にもダンゴ虫がいるの? でもこのダンゴ虫…………触覚が光ってる!
「おおぉ~カッチュウムシだ………こんな深海にもいるんだ。でもデカッ! 七十センチくらいある。グランデ カッチュウムシと呼ぼう」
へえ~、そういう虫がいるのね。これ…………丸くなれるのかしら? グランデ カッチュウムシと命名されたカッチュウムシは、暗闇の向こうからワラワラとやって来る……………………怖っ。うわあ、一メートルくらいのものもやって来た! 怖っ!
「うう~んどうするか………光を消せばそれぞれが見えなくなって、光があれば生物が寄ってくる…………。そうだな、たとえば光の精霊のうち俺たちの頭上の光を弱め、俺たちの先と後ろを強く光らせる、ということはできるかな?」
「ああ、なるほど。できるわよ」
私とディートリッヒは呼び出した光の精霊を、コックリの言うとおりに操った。私たちの頭上の光は薄暗く、先と後ろは明るくなった。なるほど、頭上を消してしまうと一メートル横も見えなくなってしまって危険を察知できなくなる………けれど明かりをつけると海の魔物が寄ってくるかもしれない。ならば頭上は周囲が少し分かる程度の明るさで照らし、先と後ろは目立つように明るくすれば、私たちの頭上よりも明るい光に引き寄せられる、ということね。
「そういえば、こういうのもできるわよ」
私はそういうと、海底の土を利用して大地の精霊を呼び出し、人型に形成した。これは大地の精霊魔法でノーム・サーバントの魔法だ。雪だるまのようなモコモコしたサーバントがポーズをとった。
「おおぉ~! いいね! いいよこれ! こいつに光を当てながら先を歩かせて様子を見よう!」
「うふふ」
コックリが凄く喜んでくれて…………うふふオモチャを与えられた子供みたいな表情…………可愛い…………うふふ可愛い。やっぱり彼は子供よね♪
「よし! じゃあ進もう」
「「分かった」」
密やかな世界は、なだらかに下っている。水馬が大地を蹴ると、モウモウと白い煙が湧き上がる。ああ、マリンスノーが沈殿したものかしら………。
前方のサーバントを照らす光の精霊には、いくつもの深海の生命が吸い寄せられて不可思議な姿を現す。
エリマキトカゲのようなエリが十センチおきに生えている蛇みたいな魚…………エリの色が赤い
口だけが大きい、体が糸のような魚…………糸の体は虹色
細長い牙がむき出しの、頭に角がある魚…………角は黒と白で縞々よ
目玉が顔の半分を占める体の小さな魚…………白目部分が赤いわ
ああ、不思議な形…………不思議な色…………
「闇の底で姿が見えないことをいいことに、奇抜な進化をやっちまったみたいだな」
「うふふふふ」
私はコックリの感想に、思わず笑ってしまった。ああ、ディートリッヒでさえ笑っている。ああやっぱり彼女も笑顔が可愛い。もっと笑えばいいのに。
暗闇の向こうには、赤や青の光を帯状に放つ奇妙な生物がたくさん、たくさん浮遊している。ああ、ホタルのように輝く深海のクラゲみたい。水床の大地からは、緑色に薄く発光するヒモのような生き物が飛び出してゆらゆらと揺らめいている。ああ、でもカッチュウムシが近づくとすぐに白い大地に引っ込んだわ。ああ、向こうにはラッパのような固い筒状の貝が群生していて、筒が淡く光っている!
凄い! 皆、独特の光を放っている……………………! 儚くて消え入りそうな光だけれど、皆が互いに光を持ち寄って、淡い光の草原を作りあっている! 何て不思議な世界なの?
水床の底は、暗闇だけの淋しい世界だと…………何者も棲まない荒涼とした世界だと…………そう思っていた。けれど水床の底には、皆が身を寄せあって、不思議で儚い一つの世界を作り上げていたのね。
「ん? なんだあれ………?」
コックリは、サーバントの歩く先を目を細めて見る。んん? 何かあるの? ゆっくりゆっくり進んでいくと、やがてそれが姿を現す。ああこれは…………
「沈没船…………」
暗闇の中、白く煙る大地に、ひっそりと、淡雪を纏ったような中型の沈没船が横たわっていた…………。マストを二本備えた長さ二十メートルくらいの帆船だ。バクテリアが少ないからか、朽ち果てることなく、しっかりとした原型を留めている。なんで沈没したのかな?
「よし…………ここで一休みしよう。中を探ってみるよ」
「ええ? ここで?」
「ああ、外よりはいいんじゃないか?」
「で、でも…………亡くなった人がいるかも、だよね」
「ああ、まあな。まあ念のため浄化の儀式をしておくから、人がいなさそうなところで休もう」
「うう〜ん。分かったわ」
コックリは怨念を払う儀式を行ってから沈没船の中へと入っていった。まあ確かに、このまま外で休んだらどんな生物に遭遇するか分からないものね…………。
―――――――――――
調度品が横倒しになった船室で、男女で順番に仮眠をとった後、私たちは再び水床を進み始めた。なだらかな下り坂はいつしか平坦な平原となり、変わらないものはただただ音のない、ひっそりと重く沈んだ夜の帳くらいだろうか…………。
サーバントには色々な形の深海魚や深海虫がまとわりついては、離れていくことを繰り返していた。奇々怪々な面妖の生物たち。その昔、神殿騎士アヴァンの行き方を真似た海妖精が危険を感じて戻ってきたというのが分かる気がする。本当にグロテスクなんだもの…………コックリはサーバントに集まる妙ちきりんで変てこりんな生物たちを、器用にも馬上でノートにスケッチしている。本当は大陸断崖での獣たちの骨格も写生したかったんだろうなあ。帰ったら、思い出しながらゆっくり描こうね? ふふふ彼のことだから夢中になって徹夜しそう。お夜食は何を作ろうかな? 軽いものがいいよね?
「コックリ…………どのくらい進んだかしら?」
「そうだな…………休んでから体内時計の感覚で二時間。この速度だと三十キロ弱といったところかな」
「なるほど、じゃああと百七十キロくらいね」
「ゆっくりすぎるかな?」
「急ぎすぎるよりいいわ」
「だな」
雑音さえない森閑たる水床には、緩やかに、揺蕩うように、粉雪がゆっくりとゆっくりと舞い落ちてくる。いったい何日、何週間、何ヵ月かけて、ここまで落ちてくるのだろう…………? 自分が海上で死んだら、ゆっくり、ゆっくり、深海まで落ちてくるのかな?
所々に淡い光が見える平原を歩いていると、平原は階段状に下り始めたわ。一段一段が広い階段。ああ、やっぱり光る海のある海溝までずっと平原というわけではないわよね。するとサーバントが突然立ち止まったの。あれ? どうしたのかしら?
「おお、危ない」
「え? 何が?」
「サーバントの前」
「え?」
私はサーバントの前を見たら……………………ああ! 大地がない!
「わあ! 階段の続きで降りてたら、落ちてたわ!」
「ああ、サーバントがいて良かったな」
サーバントありがとう!
「ここって、目的地の海溝?」
「いや距離的にはまだまだ……………………これは別の海溝か、あるいはさらに下の大地があるのか、あるいは谷のようなところか……………………シス、光の精霊を目一杯先に飛ばして、先に大地があるか見てくれるか?」
「分かったわ」
私はコックリの指示に従い、光の精霊を前に飛ばした。すると…………ああ、全然目一杯ではない三十メートルくらい先に、また平原が続いている!
「ただのクレバスみたいだな。三十メートルくらいなら、水馬でも飛べるかな」
私は水馬に聞いてみると、水馬は目をニッコリと閉じた。
「うん、行けるって」
「よし!」
私はサーバントを小さくすると鞍に乗せた。そして水馬たちは私たちを乗せてクレバスを優雅に飛ぶ。横断中に私はクレバスの底を見ると、青い光がチカチカとまたたいているのが見えた。ああ、ここにも何かの生命が宿って精一杯に生きているのね。
対岸に無事渡り終えると、私はサーバントを大きくして再び前を歩かせた。そして皆揃って馬上で軽く食事をしながら進んでいく。うん、光る海の真上から行っていたら、こんな風にはいかないよね。海流に飲み込まれたり、海の魔物たちに襲われたりと大変だったかも…………急がば回れ、かな? と…………
「あれ…………?」
「ん? どうかした?」
「うん…………岩が…………増えてきた?」
ふと気がつくと、岩が多くなってきた気がするの。大きいもの、小さいもの、たくさん、たくさんある。大きいものは五メートルくらいあって大地に堂々と根付いている。私たちは岩の森に迷い混んだみたい。コックリが水馬を止めて、手近な岩に触れた。白い淡雪を手で払い落として、まじまじと見る。
「この岩…………溶岩だ」
「溶岩?」
「溶岩が冷え固まったものだ」
「え? じゃあ海底にも火山があるの?」
「ああ」
へええ〜、海の底に火がある…………そんなことがあるのねえ。私は岩の森をキョロキョロしながら進んでいると、岩の森はだんだんと登り坂になっていく…………ああ、火山だものね。
「ふうむ、これが一つの海山なのか、それとも山脈のように連なる海山列なのか…………」
「山脈? 海に山脈があるの?」
「ああ、陸地も山あり谷あり起伏に富んでいるだろう? 海底に山脈があっても不思議じゃないさ」
なるほどね。坂を登るうちに、さらにその存在に気がついた。
「あれ? 何あれ?」
「ん?」
光が届くギリギリの所に、キラキラと輝く石があった。小さな石の塊。それは深海魚たちの蛍光色の輝きではなく、白い光の精霊の輝きを反射してキラキラ、チカチカまたたいているの。宝石のような輝き。
「おお! 水晶だ!」
近づいてみると、溶岩の岩肌に透明な水晶がこびりついていた。わあ〜綺麗! ガラスのように美しく透明で向こう側が透けて見えるわ。記念に貰っていこうかしら…………取れやすそうな水晶がないかなと何気なく光の精霊を先の方へ動かしたら…………とんでもない光景がそこに待ち受けていたの!
「うおおっ、スゲエ!!」
「はわああぁぁ! 凄い!」
「ふおお! なんということだ!」
その光景を見た瞬間! 私たちは感嘆の! 驚愕の声を上げていたの! もう、何てことなの!? 何てことなの!? そこに広がっている光景は!
そこには、大地の至るところから様々な大きさの! 様々な色の! 様々に集まった水晶群が飛び出していたの! 見渡す限りの水晶の森よ! 涼やかに、玲瓏に煌めく水晶の森!
透明なもの、紫色のもの、黄色のもの、オレンジ色のもの、黒色のもの! 大小様々な大きさの、六角形の円柱状の宝石が、もう辺り一面にびっしり! それがもう! それがもう! キラッッキラと煌めいて、その空間を光の火花で包んで、燦爛たる世界に変えていたの!
「スッゲーな、これ…………何なんだ、本当にこの世のものか?」
「ホ…………ホント…………いつのまにか、死んじゃってたのかしら?」
私たちはただただ、眩く、美々しい、華麗にして絢爛な世界を、世界の最下層にある海床で酔いしれていた。
「火山の熱と複雑な成分の水、深海の水圧など、色々な要素が絡まってできたのかもな」
「本当…………何て凄いの…………これが深海…………」
私たちは煌めきに包まれた世界を歩み始めた。もう、どこまで行っても、どこまで登っても、水晶の森よ。でも、ビックリするのはこれからだったの! 登るに連れ、それがはっきりとしてきた!
それは水晶の大きさ。水晶は最初、小指ほどの大きさだったけれども、徐々に赤子の腕くらいの大きさになり、徐々に子供の腕くらいの大きさになり、徐々に大人の腕くらいの大きさになり…………水晶がだんだんと大きくなってきて…………
今は樹木の幹くらいの大きさになっているの! 向こう側が透けてるよ!
「ホント…………言葉にならん…………何て神秘なんだ…………」
「はわああああ! コックリ! コックリ! 見て! 見て!」
私は光の精霊を頭上に飛ばした!
「うおおおおおおおおおっ!」
「ふおおおおおおおおおっ!」
コックリとディートリッヒがそれを見て同時に絶叫した!
そこにあったもの……………………
それは、塔のごとき、巨大な水晶……………………
透明で、ただただ透明で……………………
ピーサの斜塔のように、斜めにそびえる美しい宝石……………………
大人が三十人輪になって手を繋いでも、届きそうにない………………
「何て…………何て綺麗なの……………………」
「ああ…………ヤバい…………ヤバい…………ヤバいヤバい!」
「「え? え? え?」」
コックリは剣を引き抜いた! ええ? それはいくらなんでも斬り倒して持っていけないよ!?
その時!
透明な水晶の奥で、巨大な目玉が私たちを捕らえた!
「クラーケンだっ!!!」
水晶の塔の向こう側から! 巨大な触手が襲いかかってきた!!
また長くなってしまいました




