プロローグ
上から見下ろした時には、こんな浅い崖だと思っていたけれど、人間はそれでも、何とも呆気なく死ぬ。
聞いた話では、命を完全に塞がれるその瞬間まで、走馬灯が流れるらしいけれど、そんなこともないんだと身を以て知っているところだ。
そうして、僕の背中に叩き付けられた枯葉が、粉になって宙を舞う。僕には、それが星にしか見えなくて、目の前に広がる満天に涙を流しながら、魂の入れ物を後にした――。
意識が浮上して夢から醒めてしまい、目を開けた。途端に、カーテンの隙間を縫って入った、薄暗くもその物の眩しさを保った光に、容赦なく瞳を射抜かれて、目を細める。
「ねぇ、聞いてるのっ」
ドア越し、二階にまで聞こえるような声でヒステリックを起こしているのは、母親だ。朝から、あんなにくぐもった声でも一音聞くと、耳が痛い。溜息を吐きながら、気力もない怠い手足で二段ベッドから降りていく。後ろでは、バタンと乱暴にドアを閉める音と、地団駄を踏むような歩く音に続き、舌打ちがした。兄の隆史が戻って来た合図だ。
「お前は良いよなぁ。一日中暇、なんだもんな?」
「そうだよ」
隆史は、突っ掛かる口調で、何でもない一言にも意味を持たせるのが上手い。一々相手にしていると付け上がるから、僕は気にしないようにしていた。
今日も、お互いに目も合わせずに、そんな挨拶を交わして、僕は廊下に出た。階段を下りてリビングに入った。食卓の椅子に頭を抱えて座り、憂鬱な雰囲気を漂わせて悲劇を気取った母親は、早速僕を見付けると、案の定、あからさまにしかめっ面をして、目線を反らす。
「あるもん食ってな」
重い腰は、ゆったり上げるくせに、それからは早い。吐き捨てるように言うと、僕なんか空気みたいに通り過ぎて、仕事へ行ってしまった。そして続け様、隆史もタイミングを見計らったように、ドタドタと慌しく階段を駆け下りて、学校へと玄関のドアを閉めた――。
一気に室内の静けさが、耳奥まで響き渡る。目を閉じてみても、僕以外居ない事には変わりなく、閑散としていて心地良い。まるで、居場所みたいだ。なんて思ったりもしたけれど、そんなのは幻想だ、と直ぐに思い直す。
そろそろ、僕も出掛けようかな。
目を開けると、開けっ放しのリビングを出る。裸足のまま、踏み潰した踵の靴を履いて、これから外に一歩踏み出した。