序章
初恋なんて決してほんとうのものではありませんわ。そんなに若い年ごろには、自分の望だって、まだ全くわかりはしないんですもの。決してものになりはしないわ。あとになると、そのときは物の見方もすっかり変わって、ほんものでなかったことがわかってくるんです。
ヘッセ著。ラテン語学校生より
□
なぁ聞いたか……?
教室の片隅で一つの噂話が花を咲かしていた。
どんな学校、いや人が組織だって動くところには噂という存在との縁を切ることができない。ほとんどの人が噂話を話したりもするし聞いたりもする。けれどもそれが真なのか偽りなのか、正しく知るものは数えるぐらいしかいないだろう。
噂話は続く。
「一学年上のあの変な先輩っているじゃん?」
「ああ、あの変わり者の美人の……」
「そうそう、あの人ってさいろいろな噂されているんだけどさ、最近学校で起きたあの怪事件に関わってるんだって」
「へー。ミステリアスだと聞いてたけどそんな人だったとは。でもなんでわかったのさ。ついこの間警察かなんかの調査が入ったばかりだと聞いてるけど?」
「それが、あれが発見されたあと朝のホームルームで自分が犯人だと名乗りでたそうだよ」
「はぁ、頭のいい変人は何考えているかわからないね」
クラスメイトの話は続く。だがそれ以上の噂話には用はない。
だって、先輩の噂話ではないから。
□
今日も一日の大半が終わった。
学校は無情にも僕たちの時間を消化させる。それが大人の決め事。いわゆるやらなければならないという物である。
授業を受けるのも。宿題をしなきゃいけないのも。いい大人っていう奴にならなきゃいけないのも。団体行動を重んじるようにするのも。先輩が停学処分を受けるのも。
決め事なのだ、全て。
そして、僕は決め事の一つである学校が終わったら帰って自主行動をする。
大人に守られながら、健全に。そして何も知らずにだ。
「やぁ」
その声はよーく聞き覚えがあった。
かの噂の渦中の先輩だ。
いいんですか、と僕は言った。
「先輩、今停学中でしょ? 堂々と学校の校門に来ていいのですか?」
「後輩君。君はいつから私に説法をたれる人間になった。君はもう少し分別のある人間だと思っていたのに」
「馬の耳に念仏だ、と?」
「釈迦に説法……とまでは行かないけれども孔子に論語って感じかな」
慣用句の応酬。
先輩と話しているといつもこんな感じになってしまう。
これ以外にも、あるときはことわざの応酬、あるときは四字熟語の応酬。おかげさまで国語の知識問題ではあまり苦労した覚えはない。
会話が不自然なのはわかるけどそれが僕達の関係なのだろう。
「で、そのお釈迦様な先輩は盗人猛々しい勢いで僕に何用です?」
「ふむ、それなりにツーカー程度の仲の後輩君には私の考えがわかると思うけど?」
「僕はそんな先輩の思考回路を路熟知した人間ではありません」
はぁと先輩はあきれたようにため息をついた。
「もう少し私を理解してくれていると思ったのにな」
「先輩を理解できていたなら僕は今頃奇人変人の仲間いりを果たしてしまうんじゃないんですか?」
「なるほど、それは大変だ。ならば私を程よく理解するだけでいいよ」
「なんて、自分勝手な」
「それが私だよ」
先輩は僕に胸を張って宣言した。
□
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
レールとレールの隙間ごとに列車は大きく揺れる。
満員電車の中、先輩は隣に座る。
鼻腔が先輩の良い匂いをかぎ当てる。あまりの気持ちよさに息苦しく、そして気が狂いそうな錯覚に陥る。
ゴトン。
また列車が揺れた。
先輩の体重が少しだけ傾く。きっとその体は柔らかく、抱きしめたら壊れてしまうんではないかと思ってしまうのではないのだろうか。
そう、まるで小説や漫画で見かけるテンプレな体つきに違いない。
ゴトン。
ああ……。今度は先輩の首が揺れる。
どうやら、先輩はこの退屈な世の中を見て眠くなってしまったようだ。先輩の寝ぼけ眼はただ虚空を見つめる。右に左に振り子のように頭が傾く。
「ぐぅ」
先輩私がいないそっち側には頭を傾けてはいけません。
□
「はぁ、よく寝た」
先輩は大きなあくびを隠しながらそう言った。
「よく、あんな窮屈な電車の中で寝られますね」
途中から男性のようないびきをかいていたことは言わないでおくことにした。
「後輩君、人が何でここまで進化できたか、わかるかい?」
唐突な質問に僕は戸惑うが先輩が話の流れを無視して問いて来ることは良くある事だ。
「えっと、人類は強かったから?」
「人なんて間違ったものを捕食すれば簡単に死ねて、他の動物に比べてもひどく脆いものさ」
僕の答えを即否定された。
「では、高度な知能があったから?」
「哲学者が陰鬱になるまで繰り返し考えることは果たして高度かな?」
「むむむ、じゃ文化を有しているからですか?」
「まぁ、それもそうだろうけどもっと原始的なところ見逃している気がするな」
先輩のしゃべり方が応えるに連れて少しづつ声のトーンが上がっている。これは彼女の癖とでも言えるもので何かを僕に教えたがる時に出るものである。ちなみに彼女のぐうの音も出ない答えを出すとすごく不機嫌になる。
僕はこれをご高説モードと読んでいる。
「はぁ、わかりません先輩。答えは何ですか?」
「ふむでは後輩君に教授してあげよう。それは人は慣れるからだよ」
「慣れる、ですか?」
僕は不思議そうに聞く。オーバーリアクションしてあげると先輩が喜ぶからだ。
「そう、人類ってのはあらゆる場所であろうとも自身がその場所に住めるように慣れたのだ。そして面白いことにそこ暮らせるように伝達していったのに他の物も付属するとそれは文化となるのだよ」
左手は腰に当てて、右手の人差し指を立てて自慢げに言う。まるで世紀の大発見かのように。
「はー。確かに一理ありますね」
「だろ、ふふふ。停学中寝る間も惜しんでこの結論に至ったのだよ」
何故この人の学があるのに変なところで頭悪くするんだろう。
「先輩、間違いでなければ応えて欲しいのですが、停学って謹慎処分の人が自宅で勉強することですよね?」
「ああ、だろうね」
いけしゃあしゃあと言い切ったぞこの人。
「そんな事より、せっかく駅ビルに来たのだ。私は今季のトレンドを把握してなくてね。楽しみなんだよな」
さぁ行こう。そう言って先輩は僕の腕を引っ張るのであった
□
先輩は服を吟味している。
さすがに女性服店で男がじろじろ周りを見回すのはマナー違反だと思うのでそそくさと紳士トイレに逃げ込む。
ちょっと待っていると先輩は買い物が終わったのか他の店を覗き始めていた。
あの人はほんとふらふらとどっかに行ってしまう。
ちゃんと手綱を握ってあげないとだめだ。
私は少し小走りで追いかける。
しかし先輩は女性の肌着のコーナーにまっすぐ向かっていた。
やめてください、男である私はそこに入りにくいのです。思春期特有の何かに陥ってしまうのです。
すると前にいる先輩が一瞥して私に向かって私に見えるように口角を上げる。
あの人わざとやっているな。
そう直感した私は思い切って肌着コーナーに足を踏み込む。着地地点から何か伝わってきた。ぞわりぞわりと鳥肌が足から体全体に広がる。
そこから先に侵入するなと言わんばかりに本能が拒絶しているようだ。
だが全力でそれを振り切る。恐らく置いてきたのは羞恥心だろう。
それを見た先輩は脱兎のごとく逃げ出した。そして私は兎を追う獅子になった。
□
僕は肩で息をする。
突如走り出した先輩を追いかける。人が行きかう地下鉄へと走りこむ、先輩の背中。
僕はそれを追う。しかし、僕の足は先輩の脚力ほどあるわけではなく全く追いつけやしない。人ごみもあってか全速力の速さも出せない。
けれども先輩を見失わないのは僕に気を配ってくれるからだろう。
時折こちらを一瞥して、歩幅を調整してくれているのだろう。
そして、改札を抜けて電車へと駆け込んでいく。
ぎりぎりのところで入れた僕は疲労困憊でひざに両手を付いた。
「先輩……、どうしたんですか急に走り出して?」
そう言って彼女を見る。肩は少し震えるだけで大きく息を乱していないようだ。いつか陸上部から勧誘が来ていたと口にしていた気がする。
「ふふ、夕日を見ていたら走ってみたくなっちゃたの」
「昭和期のスポコン漫画みたいなこと言わないでください」
「まぁまぁ、後輩君のへばり顔も嫌いじゃないし」
この人は僕を困らせたいだけなのかもしれない。そう思いながらも彼女に付いていかなきゃならないのだろう。それは運命だとか奇跡だとか尻が青いなんて事を言いたいのではなくて、単純にそれを尻に敷かれるというのであろうと思うから。
□
先輩は帰ってしまわれた。
今日もうんざりするくらい振り回されてしまった。世間様から見れば面倒くさい女だとかそんな部類に入ってしまうのだろう。まぁ、それも嫌いではない。でなければこうして付いていかないだろう。
しかし、また明日も退屈なのであろう。
そう決まっている。
今日だって退屈だったのだ。
ならば、明日も退屈だ。だって先輩がいないのだから。
先輩がいるときだって、今か今かと首を長くし長くしてろくろ首になってしまうぐらいには学業が退屈だと感じているのだ。
それが一週間ともなれば僕はウサギのようにころっと死んでしまう。
ああ、明日も退屈に殺されてしまうだろう。
けれどもダイイングメッセージには先輩と書いてやろう。
なぜなら先輩なしには生きていけない体にしたのはかの先輩自身なのであるからだ。
なんかこんな言い方をするとすごく不健全な関係に感じるな。
まぁ、たまにはあの先輩の困った表情を拝みたいしね。
そんなくだらない事を考えながら足は自宅へ向いているのであった。
□
「……先輩?」
「おう、今日も来てやったぞ」
僕は今呆れた顔をしているだろう。またも先輩は正々堂々と校門の前にいたのだ。
しかも、仁王立ちで。
怖い物しらずなのは前から知っていたがここまでだったとは。
「先輩って実は賢明そうに見えて愚か者でしょ?」
「……後輩君? 私が昨日ここで言ったことを忘れたのか?」
「いやぁ、その大胆さはタケミカヅチも奉っちゃいますよ」
だろっと先輩はいい顔をしていた。いや褒めてませんよ、先輩。
「にしてもよく先生方も見逃してくれますね」
「まぁ、だろうな。あの出来損ないの教諭どもは先程蹴散らして置いたからな」
「は?」と僕は間抜けな声をあげた。
「いや、何皆様方の悪いところを箇条で読み上げてやったらぐうの音も出ない感じになっていたぞ。否、してやったという方が正しいか」
そう言うとガッハッハと珍しく気品のかけらもない、豪傑な笑い方だった。
「さぁ今日はどこへ行こうかね」
先輩は僕の手を握り今日も歩き出した。
□
今日はバスで移動のようだ。
しかし、学校の下校時間なせいか車内は満員だ。
そのせいか先輩が車内のどこかにはぐれてしまったようだ。しかし先輩の通った声はよく聞こえた。いや、例え高度三000フィートから落下している状態であっても聞き抜いてみせるという自信はあるが……。
しかし、先輩は誰と言葉を交わしているのだろうか。少々強引なのは自身でもわかっていたが、探求心のおもむくままに人の波に逆らってみた。が、見事返り討ちにあう。
「はぁ……」
「何をしている?」
「おぉ?! 先輩?」
「ああ、そうだが。お前は人の波に逆らってまで何をしたいんだ?」
「先輩に会いに行くところでした」
「そんな気恥ずかしいこというような人だったかな、君は?」
「先輩がいなくなってしまったら目覚めました」
「目覚めんでいいわそんなもの」
そんな事を話していると左へ曲がると運転手からアナウンスがあった。
直後バスの内容物は大きく引力で右側に行ってしまう。
すると、先輩も荒波にもまれてどこか行ってしまう。
畜生、先輩をどこへやったのだお前ら。お前らみたいなのは先輩の隣に立つのも本来は許されないんだぞ。それをもみくちゃにして、私は怒っているのだ。
だめだぞ、私も混ぜなきゃ!
□
今日は本屋が行きたい。
そんな事をいう先輩はまるで停学期間を休暇か何かだと勘違いでもしているんではないでしょうか。
しかし、いつも、うるさい先輩もこの静かな雰囲気の書店ではさすがにおとなしくしているようだ。
本を一つとってはそれをめくり眼を凝らす。
静かな雰囲気の本屋に似合う可憐な少女。黙ってればほんと美人なのであろう。
「……」
先輩は少し口を開いたが、またすぐ口を閉じた。そしてまた本棚の背表紙を指でなぞる。そして、指が止まった場所の書籍を取り微かなにしか聞こえない言葉を口にする。何かを探しているようだが、難しい物を読んでいて僕では何の事だかもわかりはしない。
……ク、クリミナル? フィ、フィ、フ。
読めるかこんな物!
ローマ字で書かれたタイトルのそれは革表紙でとても高価で、なおかつ学あるものしか読めないように感じられた。
暇なので少し頭をめぐらす。
「そういえば僕とバスで離れていた時先輩の喋り声が聞こえましたけど、誰かと話していたのですか?」
「話していたわよ」
「誰と?」
先輩は本を両手でぱたりと閉じて聞きたいと僕に問う。
「……まぁ、できれば」
「怪事件の真犯人」
ぎょっとした。そうであろう、先輩が、彼女がその事件の真犯人であるとそう自首したはずなのに。
先輩とは別に犯人がいるという事であろうか。じゃあ、先輩はどうして自分が犯人であると……?
まとまらない考えが心をイラつかせる。
僕は仕方ないので、その隣に棚にあるサルでもわかる心理学という本を手に取って、頭に詰め込むことにした。
考えたくないことがあるのなら別の事を考えて紛らわせればいいのである。
□
話していたのは誰だろう。
考えてしまう。
思考はめぐりにめぐってそしてまとまっていた考えが拡散する。一人で考えるといつもこうだ。
先輩、誰と話していたのだろう。
不思議で不思議でたまらない。
もしかしてそれは美男子であるかもしれない。
そうなれば、自身の力をフルに使って彼から彼女を遠ざけるしかあるまい。
だがそうではなく、もしかしたら美少女かもしれない。
しかしそうなると残念だ。正室には先輩が入ってしまうから、内縁として呼び寄せたい。愛人的な意味で。
だがもしそうでもなく、変態的人物(男)なら。
本来なら意気投合したいところだが、彼の眼の付け所が悪かった。もう私が眼をつけているのだ。
これはきっと獲物を取り合う猛獣のような泥沼の戦いになってしまう気がする。
いや、待てよ……。もし変態的女子の可能性があった場合どうなるのか。
これはもしや女性との蜂蜜のように甘いそれが見えるのかもしれない。
心がよこしまとエロスで満たされていく。
ああ、そういう他愛無い結果であって欲しい。
私の思考は高揚と同時に現実という地の底に不時着した。
なぜなら、それは自身と先輩の危険も孕んでいるのである。
先輩も華奢な体で女性。とても喧嘩強そうには見えない。そして私自身も喧嘩に対して強気でいける気がしない。
まず、力に対しての対抗策を身につける必要がある
いろいろと準備せねばあるまい。
そして、ふと思い出したかのように財布を広げてみる。
まぁ、なんというか高校生らしい貧相な中身がそこにあった。
どんな支度でも金は必須。容赦ない現実が私を襲うのであった。
□
停学三日目の今日も先輩は僕を迎えに来ていた。
「お勤めご苦労様です、兄貴!」
ただし本日の歓迎は一風変わったものになっていた。
「……」
さすがの僕も少し呆れたため先輩を遠ざける。
じょ、冗談だって、と笑いながら先輩は僕に言う。
完璧に嘘だ。だって先輩は冗談でそんな事言わないと相場が決まっている。僕はそんなわかりきった嘘を反論もせずに今日はどこに行くのかと聞く。
すると先輩は、さすが後輩君わかってる、と言った感じで笑顔を返してきた。
「今日はね、プラネタリウムに行こうかと思っています」
「ほう」僕は珍しく関心した。だって先輩には世の中の事なんて興味がないのだとばかり思っていたから町の事は何も知らないと思っていたからである。
「なんだね。私は町の事情さえお構いないしの人間だと思ったのかね?」
やばい、完全に見透かされていた。僕はなにも心の準備をしていなかったから喉から言葉も出なかった。
「やはりそう思っていたのだな」
先輩はそう言うとそっぽを向いてどこかへ歩き出す。
そ、そんなことありませんよ。
そう言って、先輩に近寄る。
本当かね?
先輩にしては珍しく勘ぐった声だ。何か裏があるのか、そんな事を考える余裕さえもなかった。
「大丈夫ですって」
「本当に?」
「本当ですって」
「本当の本当の本当に?」
「本当の本当の本当ですって」
「本当の本当の本当の本当の本当の本当、本たに?」
噛んだな。先輩は舌を痛そうに外に出して手で仰いでいた。
「全てにおいて本当です」
「そうか、けれども男なら結果で示して欲しい物だな」
白々しいにもほどがあるぐらいのネゴシエーション。けれども、すぐにわかりましたと了承する。僕はその瞬間先輩に全ての事の成り行きえを任せた。
先輩の要求は言いたい何か。僕の人生? はたまた、臓器売買?
「そうか、では……」
言い含む先輩はどこか気迫が感じられ、つばを飲み込む。
「あそこのさばの味噌に定食をおごってもらおうか!」
あまりにもあっけらかんとした内容に僕は転ばないようにするのが精一杯だった。
□
先輩はプラネタリウムに隣接するエキスポセンターで宇宙飛行士の疑似体験ができる場所で静かにしていた。
その光景は本当に珍しく、先輩が一人で黙り込んでいるのは一年に一度か二度くらいであろう。
「なんだね?」
気配に感づいてか、先手を打たれる。
「サバの味噌煮定食。どうだったんですか?」
「まずかった」
え?
そう言わずにはいられない。あれほど食べたがっていたのに今になってまずかったとはどういう了見なのだろう。
「はぁ、そのこころは?」
「君がいるから」
ちょっとがっかりした。
先輩は見るものによって味でも変化するのか、もしくはただの嫌味か。
まぁ、この言い方だと後者なのだろうけど。
「そんな事を言うなんてひどいじゃないですか」
「……たまには、私にだってひどく何かに八つ当たりしたくもなる」
「先輩はもう少しできた人間だと思っていましたが?」
「私だって所詮は人の子だ。どうしようもない時だってあるさ」
先輩の珍しく弱気とともとれる発言。そんな時に限ってしおらしい先輩もはかなげで可愛い。
常にこんな感じならいいのになとほっこりしていたら気が付けば先輩は目の前から消えていた。
□
「さぁ、行こうか後輩君!」
元気よく言う彼女はまさしく活発という言葉が似合うだろう。先程食べたがっていた定食を気まずそうに人とは思えない程に機嫌がよかった。
プラネタリウム入り口と案内している看板を私たちは横切った。
けれども、次の講演まだらしく少々長いすで暇をつぶすしかないようであった。
「先輩どうします? 時間まで館内を散策しますか?」
それには必要ない、と言った先輩は僕の腕に彼女の体を絡ませた。
「ちょ……、先輩?!」
「静かにしな、目立つよ」
先輩に諭され僕は押し黙る。
静寂が僕達にいたずらする。
心臓は張り裂けそうで、脳は急速な血液の流れで失神してしまいそうな錯覚に陥る。
僕もただ手をこまねいて自身の危機に瀕していた訳ではない。素数を数えてみたし、手に人と書いて飲み込もうとした。がそれらは一時しのぎでしかなかった。
肩に重みが掛かる。
少しだけ頭をずらすとそこには先輩の頭がそこにはあった。耳を済ませると静かな吐息だけが聞こえる。
それを見るとなぜか心が静かになった。
そして考える、先輩の事を。
いつも、悪魔のような魅力的な笑顔の裏に隠れた彼女のそのままの感情。
学校の怪事件。過剰な心情表現。話の主導権を渡さないようなしゃべり方。
何かを伝えようとしているのかもしれない。
けれども、それはまだ僕にはわからないであろう。僕は先輩と比べるまでもなく頭が悪いが、それでも彼女が僕を失望するまで考え続けるだろう。それが僕が思う、先輩の隣にいる資格だと思うから。
「お待たせしました、ただ今よりプラネタリウムの上演を行います」
□
席に座ると平日なのに幾人かの人がいた。
例えばそれは僕達と同じようなカップル。あるいは男性。あるいは子供。そのような人々がまばらに席に座る。
先輩といえば僕の隣に座っている。
少しだけそわそわした感じで、不自然に椅子に座りなおしていた。
彼女の表情はまるでいまかいまかと楽しみな事を首を長くして待つ子供のような表情であった。
そして、待つこと数分。綺麗な女性のアナウンスの挨拶とともにホールが少し暗くなる。先程まで無地の天井は星空をドームに映す。
それは実際の星のようにまたたき、そして太陽をさえぎった偽りの夜世界を照らす。
綺麗ではあるが、現代社会の少年である僕の心はあまり感銘を受けなかったようだ。先輩はって言うと相変わらずおもちゃを与えられた子供のような表情をして「ほほぉ~、あれがα星シリウスを含むおおいぬ座で、α星プロキオンであるこいぬ座か……。そしてあれがα星はベテルギウスなのか」と言っている。
しかし、少年は星座は知っていても星の名前までは知らないだろうなと思う。だからきっと先輩はロマンチストではなく、リアリストに違いない。
ロマンの風情すら感じられない彼女の言葉だが、それを語る声音にはロマンを語る時のそれに似た高揚感を感じ取れた。
「先輩、静かにしゃべってください。案内のお姉さんも先程からこちらを見ていますよ」
「ふふふ、君は私よりもあの定型文通りにしゃべるだけの人間に礼を重んじるのかな?」
「長い物に巻かれろって言葉を知らないのですか?」
「そういうところは好きだよ、後輩君」
「冗談でもそんな事は言わない方がいいですよ」
「……まぁ、そうだな。頭の隅っこには置いとくさ」
そう言っている間にも星座の解説は進んでいった。しかし、その解説には特別に尖ったものはなく悪く言うと凡庸な物に感じられた。
僕はそれを退屈そうに聞いていると、とんとんと肩を叩れる。もちろん叩いたのは先輩だ。
今度は何事かと思って耳を寄せる。
「あの星座、なんだかわかるかい?」
そう言った彼女の指差す方向を僕は見る。そこにはいくつかの星座があったが、名前まではわからない。けれどもあの有名な星は知っていたのでそれは先輩に告げた。
「織姫星の場所ですか」
「うん、そう。日本は七夕の習慣があるからあれだけわかる人も多いだろうね」
先輩は言葉を紡いでいく。
「織姫星こと、ベガと呼ばれる星は夏の大三角形でも有名だが、トレミーの四十八星座の一つである琴座の一部分でもある事でも有名だ」
確かに、それは僕でも知っている。
「そして、その琴の持ち主の神話はまぁひどくてね……。音楽の神アポロ。彼はある日偶然出会ったエロスの弓を見て馬鹿にしてしまう。それに怒ったエロスはアポロへの仕返しに二本の矢を放つんだ。一つは黄金の矢。愛情を起させる物であった。もう片方は鉛の矢。愛情を拒絶させる物であったんだ」
□
「黄金の矢をアポロへ。
鉛の矢をその場にたまたまいたダプネーという女性に放った。アポロはダプネーに愛情を抱くが、鉛の矢を受けたダプネーはその愛情を拒みその場から逃走する。
けれども追われ続けたダプネーは力尽きてしまった」
いやー神様の系譜の者でも疲れてしまうんだなと不思議がりながら、先輩は御伽話を続ける。
「けれどもアポロンを拒否しつづけた。そして河神であり、彼女の父でもあるペーネイオスに願ったんだ。自身を月桂樹に変えてくれとね」
そう言い終えると私はなんともいえない気分に陥った。先輩は何かに悩んでいるのかなと、いやもしかして先輩がアポロンなのかも知れないが。けれどもそれは判別できない。
気が付けばプラネタリウムは佳境であり、終わりに向かっていった。偽の空を映す天井は朝を迎え、そして星々は太陽の光に負けてその身を隠した。
上映の終わりの告知とともに先輩は足早に外へ出てしまった。追おうかと思ったがそれは今すべきことではないと思う。先輩が行っていた神話の話。先輩自身を誰かに投影して語ったのか? そうなると主だった人物は三人になる。アポロンかダプネー、そしてエロス。
怪事件、ギリシャ神話、先輩の奇妙な行動。
まだまだ情報が足りないのかもしれない。
何、後四日ある。私も気長に探すとするさ。