《事中》
「……琉」
懐かしい呼び方に、はっと目が覚めた。
同時に、上半身に痺れが起こる。どうやらスチール机に突っ伏して寝てしまっていたらしい。お陰で、血の巡りを圧迫された身体が悲鳴を上げている。感覚が戻るのに時間が要った。
と、身体に毛布が掛けられてあるのに気が付いた。この気配りは、恐らく――
「琉平さん。起きたの」
パジャマ姿の居候が、真正面の席に座っていた。
俺がこんな風にいきなり目を覚ましても、動じない。あらかじめ理解していたかのように、マグカップを差し出してくる。俺の好みをどこで把握したのか、出てくる茶葉は温かい烏龍茶だった。
辺りは薄暗い。リビングのデジタル時計は、最初の数字が零で始まっている。俺を気遣って起こさなかったのか、それとも俺が起きなかったのか。
「眠れなくて、ちょっと起きちゃったんだ。何か飲もうとして台所に行ったら、琉平さんがもぞもぞ動いてた」
相変わらず、俺が訊く前に淡々と話し出す。例えば、それが寝ている俺の目の前で、ずっと起きていたことを云わなかったとしたら。呼びかけて、反応した後にマグカップを用意していたら。
「ごめんなさい、観察しちゃってた。琉平さんの寝顔、ちょっと可愛かったから」
何をするにでも彼女の行動は、気配りと行動の裏付けが行き届き過ぎていた。そこまで合わそうとしているのか。良く出来た螺子巻き人形でいたいのか。俺がどんな理由でお前をここに連れたか、理解って居ないだろうによ――
「……お前、もういいだろ」
烏龍茶を一口飲み終えてから、俺は告げた。
「うん、すぐ寝るね。お休みなさい、琉平さん」
「そうじゃねぇ。荷物を纏めろって云ってんだよ」
飲み物を口に含ませていなければ、今の俺の言葉は、擦れていただろう。
彼女の唇が、僅かに開く。何かを言いかけて、真一文字に引き結んだ。
茶番は終わりだ。幕は引かれる。ピリオドは、打つためだけにある。
「PTSDなんて、嘘だろ、お前」
そうして俺が吐き出した科白は、出任せでも何でもなかった。
確証があった。云ってしまえば、俺と彼女の奇妙な同居をお開きにしてしまうものであると。
「よくまあ自己申告して今まで改竄してこられたな。親の顔が浮かばないとか記憶がないとか言いまくって、良心が痛まなかったか?」
医者だってとっくに気付いていたのだろう。本当の『病人』が、果たしてどちらであるのかを。
「あのハカセ野郎がお前を引き取りたいんだとよ。お前の能力を買いかぶってるらしい。良かったな、ロリコン奇天烈先生が傍に居て? 俺もお前を売り飛ばせば、扶養代より数倍の金が入って遊べんだよ」
出来るだけ皮肉を込めた。医者に指摘されたのも癪だが、俺は昔から罵詈雑言を言うのは慣れている。どんな言葉を操って、どんな風にぶつければ人に最もダメージを与えられるかもそれなりに知っている。そうやって避けてきた。全部払ってきた。効かずに莫迦みたいに笑っていたのは、あの二人だけだ。
「……心は痛まなかったわ。だって、私は琉平さんと一緒に居たかったから」
そこで初めて、彼女が口を開いた。俯きもせず、目も伏せようともせず、疚しいことなど何もないと瞳で示して、ただ俺の話が終わるのを待っていた。
「『琉』」
俺をそう呼べば、狼狽るのを知っていたからだ。
たった一言別の呼称で聴いただけなのに、俺はすべての動作を止めていた。
刷込の反応のようだ。忘れられるはずがない。俺をそうやって、呼んだ人物は、もう――
びくりと震え、目を見開いてしまっていた様子を、彼女は一部始終見届けてから、綴った。
「こうやってあなたは、父と母に呼ばれていた。両親が電話口でよく話していたわ。あなたの人となりもよく聞いた。口は悪いけど、性格もちょっと問題あるけど、信頼できるって」
聞いた事のない声色で、けれども平坦な調子で。
俺が彼女に問い詰めていたはずだ。それなのに、何故俺は何も言えない?
彼女が椅子の上に膝立ちになり、テーブル越しに手を伸ばす。冷たい指先が、頬に触れた。
「あなたはわたしの父と母を愛していたんでしょう? だから、葬式に出向いて、どちらにも似ている忘れ形見を引き取って、一緒に住まわせたんでしょう?」
微動だに出来ない。
「そうすれば、ふたりの想い出に浸って『余命』を過ごせるから」
「……」
彼女の白魚のような手が、顔の輪郭をなぞっていく。
見通されていたのは、俺だった。
既に彼女は知っていた。俺が何故彼女を連れ出したのかも、彼女を家に呼んでどう過ごしたかったのかも、俺がどんな想いであの二人を見ていたのかも、俺が有余ない身体であることも、すべて。
「琉平さんも、いなくなるのね」
彼女の親指が、俺の唇に当たる。震えていた。俺ではなく、彼女の身体が。
いなくなる。そうだ、俺の身体は次第に使い物にならなくなる。撥条仕掛の人形のように、螺子も捲かれずに、潤滑油も注されずに、関節が錆び、発条が伸び切り、色彩を失い、廃棄物になる。
唐突に、いつかの出来事が解離する――事後報告の電話。献花だけで『残り滓』も見当たらない式。遺影として飾られていた学生時代の写真、居ないことに現実味が湧かない自分。
急に体中の熱が冷えた。
「……はっ」
気付けば、俺はそんな自嘲めいた単語を投げつけていた。彼女の手をぱしりと叩き、憎悪の対象とでも仇視でも見るような目で睨め付けた。自分の髪の毛に手を入れ、ぐしゃりと掴む。堰を切ったかの如く、相手にあらゆる感情を垂れ流していた。
「そうだよ、お前の両親は、俺にそういう変態な目で見られてたんだよ。お前はそいつらの後釜で、俺はお前を見る度にそいつらを思い出してた。だってそうだろ? 大事な奴らが急に消えた。損傷が激しいとか言って、棺桶には何も入ってなかった。俺は末期でもうすぐ死ぬ、お前を預かってればいつかふらってやって来るんじゃねぇかって、お前見てればあいつらが居るような気がして、今度こそ護れるって――」
あの式の最中、黒と白の幕下で、ひとり、佇んでいたのは。
いつだって 遠く離れた土地から、電話線に乗って聴いた幼い声は。
「それでもいい。……わたしはあなたが欲しかったの」
彼女がテーブルの上に乗り、目線を合わせる。いつもの揺るぎ無い目が、ほんの少し愁いを帯びる。虹彩が僅かに滲み、揺れている。叩かれて赤みを帯びているだろう手で、再度俺の頬を撫でた。薄暗い明りに、彼女だけが幕を張りぼんやりと浮かび上がる。彼女の唇がわななき、小さな舌を覗かせている。
父親似の眼だった。母親似の口元だった。俺が一番大切にしたかった ふたりの、残した造詣だった。
「あなたと、一緒に居たかったの。」
俺は、この目の前の体躯を、どうすればいい。
俺を縋って、一緒に居たかったと乞うてきた少女に、どう応えればいい。
あの二人が大切に育ててきた忘れ形見に、俺はなにをすればいいのか。
「……『琉』」
彼女は、俺の迷いを消し去るために、もう一度その名で呼んだ。
招き入れる囁きのようでも、詩を思いつくまま口遊んだようでも、愛しい者の名を呟くようでもあった。
彼女の黒髪に指を入れる。なめらかに透き通り、さらさらと指の間から零れていく。
そうして、俺は――彼女を腕の中へ引き寄せていた。
「……リカ。お前が莫迦じゃないなら、教えてやるよ」
どれくらいそうしていただろう。お互いが相手のぬくもりを確かめていた時に、俺は彼女の名を呼んだ。本来の名前を省略して、電話口で呼びかけていた二文字の愛称だった。
「どうして俺らが此処に居るか知ってるか? 意味なんて無い、俺らは放り出されたから此処で『生かされてる』だけなんだよ」
テーブルの上に膝立ちしている彼女を抱き留める。腕の中で彼女は大人しくなっていた。
「悲しむな。尊ぶな。人間は一人で朽ちる。どう足掻いたって孤独に死ぬ」
掻き抱く力を更に込めた。表情を悟られまいと、低く、明確に云った。
「――だから、一人になることを恐れるな」
こんな考えを植え付けてしまう人間を、あいつらはどう思うだろうか。
俺の言葉は諧謔に満ちたものに他ならない。捻くれて世を悲嘆することしか出来ない奴が、勝手にほざいている退廃論、厭世論に過ぎない。
だからこそ。そうでなければ、俺は俺らしく伝えられない。
「あなたが居なくなっても、悲しむなと云いたいの?」
彼女がほっそりした腕を、俺の背中に回した。軽く押し当てられるような、小さな圧迫が肌に伝わる。
「それなら、わたし、憶えていく。あなたの云ったこと、忘れたりしない。」
憶えてくれる。悲しまないでくれる。生かされる意味も、朽ちる意味も、無に等しいと思ってくれる。
聡い彼女が、いつか俺の言葉を否定する日が来るといい。
彼女が螺子捲き人形なら、俺が螺子を捲いて、歩かせればいい。
自由に歩けるように。俺に固執なんかせずに。ただの人間の操作回路にならないように。
真実は――混沌の中にこそあるのだから。
『インタフェイスはそこで螺子捲く』 了
《事後・電話》
………
『貴方は思い違いをしていましたね。
私は“あの子は頭の悪い人間とは話さない”と云ったんですよ。
貴方は一見自信家だが、その実自分の能力を卑下している。
厭世的な考えは――もう長くないと悟ったからですか?』
仰りたいことはよぅく解るよ、ハカセ。
『成程、その言い方だと貴方はどこか吹っ切れたらしい。
気になりますね。
貴方たち両者間の仲介回路が、どう変化したのか』
さあな。俺は真実も混沌も要らねぇしよ。
っと、あれが呼んでる。まあ、とりあえず葬式には来てくれよ。
たぶんあと半年後だ。
その後はあれを優秀なところにでも入れてくれ。本人も細胞学研究したいってやる気満々だ。
『……螺子捲いた人形の行く末を、貴方は見届けないつもりですね』
見届けるのは他の誰かだろ。俺はやらねぇ。
憶えていてくれるだけで、いいんだよ。
“ さ あ 、 螺 子 捲 い た 人 形 は ど こ へ 行 く か な 。 ”