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《事態》

「……混沌カオス、ね」

 天井に向かって煙を吐いた。深く呼吸をするたびに、煙草の煙が体中を満たしていく。

 外に出てくのも億劫だった。幸いにして、何処で吸おうが同居人は文句を言わない。換気扇と窓を開けたのは俺なりの譲歩だ。

 時々思うのだが、あいつとの会話は、三十代の女と話している気分になる。

 世間を斜めに見ているというよりかは、諭されている気分になるのが正しい。

 瓦解するような気がしてならなかった。自信の喪失と云えばいいか。あの頭の回転の速さ、手際の良さ、知識の吸収率の高さ――彼女と話すと、俺の生きてきた年月が無駄だったと、知らしめられているようだ。

「なあ、ハカセ」

 彼女の検診が終わり、例の医者が部屋から出てきた。椅子にふんぞり返って煙草を吸っていた俺は、奴を呼び寄せる。

 リビングが煙たかったのか、偏屈医者は顔を顰めた。これ見よがしな咳をけほりと行うと、書類一式をテーブルに広げる。呼んでいるのに返答が無い。

「無視すんなよ、偏屈」

「確かに私は博士号を取っていますが、現在の職業から正確な呼称は『医師』が正しい。貴方に『ハカセ』『偏屈』と蔑称される謂れはないわけです」

 皮肉の意味で眼鏡が似合いそうな奴だったが、奴は目が悪いわけではなかった。年の頃は四十過ぎ位、面長ウマヅラ、無精髭はかろうじて無し、医者をやっていなければ、学生に嫌われそうな神経質大学教授といったところか。

 診断書だか領収書だかを目の前に置かれる。持参の朱印ケースを取り出すと、蓋を開いた。いつもと同じく、必要書類にサインをして、印鑑を押せということらしい。

「解った、言い直す。ヤブ風偏屈医者」

 ちなみにヤブ風というところがミソだ。

「あなたの一挙一動を、是非とも報告書にまとめて本家に送りたいですね」

「賭けてもいいな」煙草の先を揺らして、灰を落とす。「報告しても俺に咎めは来ない」

 灰皿は既に三本の吸殻が乗っていた。俺がこの医者を待っている間に吸っていた数だ。

「でなきゃ、最初から赤の他人の俺と住まわせるはず、ないだろう」

 テーブルの上の必要書類にサインをして印鑑を押せば、奴は帰る。だが、今日は医者に聞いておきたいことがあった。

「『あれ』をどう思う」

 数秒の間の後で、医者がこれまた見よがしに溜め息を吐く。

「……どういう見解からですか? 能力を見れば、あの子は実に聡い。きちんとした教育を受けさせれば、いずれこの国を代表した科学者にも物理学者にも哲学者にもなれる。性格を言えば、明朗快活、調和を重んじ、円滑に物事を進める。容姿も申し分ない、心身ともに『健康』、実に良く出来た少女です」

「良く出来た、ね。客観分析だな。個人の考えでは?」

 医者は悪い意味で清々しい奴だ。逡巡することなく、さらりとこう答えた。

「形容するなら――あの子は 良く出来た螺子捲き人形ですね」

 現実主義者リアリストも時に幻想的メルヘェンな喩えをするらしい。

「周りに合わせようと必死です。螺子ネジを捲かれるまで動かない、棄てられないようにただニコニコ笑って座っているような、そんな印象を受けます」

「周りに、合わす?」

「――ええ、あの子は頭の悪い人間とは話さない。自分のIQが突飛していると解っている」

 その「頭の悪い人間」を意図するものが、俺だったわけではない。あくまで答えは、医者の個人的意見だった。

 だが、それを聞いて、俺はようやく気付いたのだ。例えばそれが、部屋内の喫煙に対して何の意見も無いこと。昼に起きてみれば、ラップで出されたものでなく、鍋に直で温められた料理が出てくること。俺が不満を言うより先にテーブルの上の本が片付けられる。質問を切り返される。 

 彼女の立ち居振る舞いは、調和に由来するのではない。

 俺が苛立ちを覚えていたのすら、お門違いだったというわけか。

 自嘲が出た。

「どうせな。俺に合わせて話してるって知ってたけどよ」

「……」

「ここに居ても腐らすだけだろ。あんたが良ければ、あれを連れてってくれないか」 

 手元のボールペンを紙の上で躍らせる。印鑑を押して、ぱさりと相手に投げた。が、大して驚かれもせず、クリップで留められた書類を正確に受け取られてしまう。見かけによらず反射神経もいいらしい。

「確かに、貴方は細胞が『侵食』されて腐っていると思いますが。貴方が云えば、あの子はすぐにでも支度を始めますよ。自分の立場をわきまえているでしょうから」

 医者は一旦その場にしゃがみ、書類をきっちりとファイルに仕舞う。

「茶番を終わらせたいのなら、貴方からあの子に伝えればいい」

 細目が嫌味ったらしく俺を睨み付けていた。何処か勝ち誇った笑みになると、奴は付け足した。

「人に罵詈雑言を言うのは、慣れているんじゃないですか?」




「琉。女の子だったよ。名前、決めたんだ」

 はっ、ハラ出てから決めようなんざ、お前らも時代遅れの事やってんな。

 そんなんだからノンビリ夫婦って呼ばれんだよ。

「いい名前だろう? きっちりかっちり、生きてくれそうな気がする」

 どんな理由からだよ。カ行が二つ続いて、言い難いったらありゃしねぇ。 

「琉。遠くから見護ってくれて、本当に有難う。私たちね、これから行こうと思ってる」

 ご苦労なこったな。歓迎されない里帰りか。

「赦してくれないかも知れないけれど……私たち、あの子を会わせたいの。私たちのせいで、あの子も憎まれるなんて、厭だから」

 門前払いされんのがオチじゃねぇの。

 でも、ま、行って来いよ。辛酸舐めて世間の風当たって帰って来い。

 気が向いたら、こうやってケータイで話聞いてやるよ。

「――また、名前呼んでやってね。あの子も喜ぶと思うから」

 お前らが丁寧につけた名前だ。呼んでやるよ。

 呼びにくい名前でも、適当に省略して、いくらだって呼んでやるよ。

 だから――



 そんな呆気なく、消えんじゃねぇよ。




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