七月八日の空
昨日が七夕だった事を思い出して書いてみました。
……童話? 出来てるけど……うん……。もうちょい待とうか!
中途半端に開いた窓から顔を出して、空の様子を窺い見た。暮れ始めの空は橙色の光を放ち、雲一つ無く綺麗に晴れ渡っている。この空模様ならば今夜は期待出来るだろう。
壁に掛かっている時計は六時を示している。僕は直ぐに踵の潰れた白いスニーカーを履いて外に出た。
夏の空気は生温いというよりも暑苦しい。息を吐く度に体力と気力が根こそぎ奪われてしまいそうになる。時折吹く、ささやかな凱風のみが唯一の救いと言ってもいい。それでも昼間と比べれば多少なりとも涼しくなっているので、幾分か楽ではある――が、やっぱり暑いものは暑い。
ぼんやりと頬を撫でる風を感じながら歩く。人通りは少なく、寂しげな雰囲気が薄暗くなった街には広がっている。この時期になると日が暮れるのがうんと遅くなる。少し前までは真っ暗だったのだが――。
去年の夏はどうだっただろうか。今年とあまり大差なかったように思える。猛暑で、馬鹿みたいに暑くて、明るい空を見上げると、ぽつりぽつりと星が瞬いていた。冷房の利いた部屋は快適ではあったが、何となく息苦しく、何となく据わりが悪かった。冷房が不健康そうに思えたのも理由の一つかも知れない。
とにかく――僕は特にそれらしい理由も無いまま、散歩をしに温度差の激しい外へと出た。
理由が無いまま、何処に行くでもなく、徐々に昏くなる空を眺めながら見知らぬ道を淡々と歩いた。
その内に川沿いの両側が傾斜になっている広い道へと出た。其処に行き着いた時には日は完全に沈み切り、視界も真っ暗とまではいかないが、それなりに見通しが悪くなっていた。
そのまま、ずっと歩いて――ふいに僕は立ち止まった。
薄暗い空を仰ぐと、出掛けには曖昧だった星の輝きも強く鮮明になっていた。
空には硝子を砕いたような星の粒が靄のように集まり、空に茫洋とした縦割りの線を引いている。
それが天の川である事に気が付いたのと、昨日が七夕であった事を思い出したのはほぼ同時だった。
今更見てもあまり意味はあるまい。そんな風に思いながらも、僕は雑草の生い茂る道横の傾斜に腰を下ろした。理由は二つ。星の大河を抱いた夜空があまりに美しかった事と、彦星と織姫の束の間の逢瀬なんて僕には全く関係が無いからだ。つまり昨日であろうと何であろうとそんなに差は無いと考えたのだ。
個人的に若干の嫉妬を覚える二つの星は、南から北へと緩やかな線を曳く天の川の中腹辺りで輝いている。川の斜め下に控えるのが彦星――つまりアルタイルだ。それとは斜向かいに座するのが織姫――普通の名前で言えばベガである。更にアルタイルの上にはデネブという星があり、それら三つの強く煌く一等星を結ぶと夏の大三角形となる。目立つから、眺めてみれば嫌でもその形がはっきりと分かる。
素直に感嘆の息が漏れたのを憶えている。黒曜石のような漆黒の空には、少しずつ色合いの異なる星屑が無造作にばら撒かれていて、寂しげな夜を明るく白く賑やかに染め上げている。周囲には遮るものが何も無いから、控えめな星明りの一つ一つがよく見えるのだ。
時間も忘れ、自分が何処に居るのかさえ忘れ、空っぽの頭で子供のように僕は夜空に見惚れた。
「――今晩は。貴方も星を見に来たんですか。もしかして天の川を?」
唐突に人の気配を感じたのと共に、冷えた水のような涼しさのある声が近くから聞こえた。
人の事は言えないが、こんな夜更けになんだろうと僕は少なからず警戒した――と思う。
しかし、そんな不信感も直後には吹き飛んでいた。未だに夜の闇に紛れて揺れ動く黒いワンピースの裾まで正確に憶えているのだから、僕にとってのその光景は余程印象深かったのだろう。
隣に視線を移すと一人の女性が立っていた。女性というには不完全過ぎるかも知れない。しかし、少女と形容するのも何だか違う気がする。不安定で、今にも脆くほろほろと崩れてしまいそうな人だった。
「……今晩は。いえ――何となく立ち寄ったついでに見てたんですよ。昨日が七夕だなんて気付きもしなくて……。ああ、でも綺麗ですよね、天の川……此処からだとよく見える……」
その時には流れているような星の川よりも、彼女の顔に僕の視線は釘付けになっていた。太陽の光など一切浴びていないかのような白い肌。形の良い細い顎。他の部分は儚げで現実味が無いのにも関わらず、瞳だけは夢見る少女のように星々よりも強い光を宿している。平たく言えば綺麗だった。
「ふふっ、そうですね。実は……私も昨日が七夕だった事をついさっきまで忘れていたんですよ。――で、貴方が此処でぼうっと星を見上げているものだから、その視線を追っていて思い出したと……変でしょう?」
「変ですね」
外で――しかも夜にぼんやりと星を見ている人間も変だが、そいつの視線を追う人間も十分に変だ。
迷いの無いきっぱりとした僕の口調に、彼女はとてもおかしそうに口元を押さえた。
「いきなり知らない人に声をかけるなんて……自分でも吃驚してます」
『迷惑でしたか……?』と彼女は照れ臭そうな表情で僕の顔を見下ろしてきた。
「あ、いえ……そんな事は……。旅は道連れって言いますし。星を見るのも同じでいいんじゃないですか」
改めて回想してみると理解不能な受け答えをしているのが解る。
「……私が言うのもなんですが……変わった人ですね」
含み笑いを残したまま、彼女は自分の髪を指先で弄った。
「それ――……よく言われます」
自分がおかしな人間だという自覚はある。常日頃から言われているのでどうという事は無い。
「隣、いいですか? このまま立っているのも疲れちゃって」
僕の返事も待たずに、彼女は体育座りの格好で青々とした地面に腰掛けた。
「どうぞ。……おっと……じゃあ少しずれますね……」
と言って僕は腰を浮かせた――。が、強い力で袖でを引っ張られ、元の位置へと戻ってしまった。
「そのままでいいです。いちいち動くのは面倒でしょう? それに私、隣に人が居てくれると安心するんですよ。その方が落ち着くと言いますか……。あの……駄目ですかね……?」
隣に眼を遣ると、彼女が餌をねだる猫のような人懐こい微笑みを湛えていた。
その人は僕の袖をもう一度強く引いた。遠慮がちながら行動としては大胆かつ豪快である。
「別に構いませんが……」
変わった者同士、ある種の親近感のようなものを感じていたからだろう。僕はすんなりと受け入れた。
それから僕と彼女は互いに無言で星を見詰めた。会話は無くとも不思議と居心地は悪くなかった。
「――昨日は……二人は会えたんでしょうかね」
風が凪ぎ、全ての音が一瞬消えた時だった。
彼女は顔を空に向けたままに、陽炎のように消えてしまいそうな声で話しかけてきた。
「……二人……? 織姫と彦星ですか。……どうでしょう。でも、ちゃんと会えたならいいですよね」
何を言っているのか解らなかった僕は、彼女の視線の先にある二つの星から言葉の意味を読み取った。
「今夜はどうなんでしょうか」
「今夜は……ううん……一年に一度ですからね……。会えないんじゃないですか?」
伝説では一年に一回――それ以上は認められない事になっている。これがいつも会えるとなると、情緒よいうかそういう感じのものが全て無くなってしまうのだから仕方があるまい。
「会いたいなら、年に一回とは言わずに会いに行けばいいのに……。そう思いません?」
夜空を見上げていた顔がこちらに向いた。彼女はまるで子供のように不満げに口を尖らせていた。
「はぁ、まぁ……そうですけど……。……もしかして、見過ごしたのを気にしてます?」
遠回しながらも理解は出来た。彼女は昨日の夜の自分が見る事の出来なかった情景に未練があるのだ。
ある意味可愛らしい顔に思わず噴出してしまうと、彼女は不貞腐れたかのように顔を背け、呟いた。
「…………少しだけ」
それから彼女はこちらに向き直ってきっぱりと断言した。
「それに、やっぱり一年に一回だけだと寂しいじゃないですか!」
いきなり大声を出されたので、面食らった僕は身が引けた。
「はは……大丈夫ですよ。きっと、二つの星は他の星に隠れて頻繁に会っているでしょうから」
むすりと彼女は再び機嫌を損ねたかのように俯いてしまった。
「……そうですかね」
冷静に考えてみれば密会しているという事もあり得る。もしかしたら今正に彦星が天の川を泳いでいる可能性だって考えられなくは無い。もしくはその逆か――いや、やっぱりそれは無いか。
「別に一日遅れでも悪くないと思いますよ。ほら、今だってこんなに綺麗なんですし」
これは気休めではなく本心から出た言葉だった。一日遅れであろうが何だろうが、光り輝く星々の映し出された夜空の美しさが損なわれるということは無いのだ。
彼女の横顔を見ると、口元が緩んでいた。表情も先程より柔らかくなっている。
「……一人で見るのも良いですけど……、他の人と一緒に見るのもいいものですね」
そう言って彼女はこちらを真正面に見据えると、惚れ惚れするような笑顔で僕に笑いかけた。
残念ながらその表情をまともに受け切れない僕は、動揺した視線を泳がせるばかりであった。
その後の別れはあっさりとしたものだった。僕と彼女は時計を見て愕然とし、名前の聞かないまま、急いで立ち上がった。帰り道は全く正反対の方向だった。
そして一年経ち、今に至る。その間あの場所には一度も行かなかったし、彼女に会うことは無かった。
僕が今夜――七月八日に散歩に出かけたのは、名前も知らない彼女に会えそうな気がしたからだ。
空には白い光を放つ星が寄り集まり、暗夜を流れる煌びやかな一つの大河となっている。その真ん中には三つの大きな星が。更にその内の二つ、星の大河に隔たれている二つの星には特別な意味がある。
織姫と彦星、ベガとアルタイル。一年に一度の逢瀬を重ねる仲睦まじい星である。
尤も、その逢瀬は昨日で終わってる筈だが。彦星が天の川をクロールでもしていない限り、今夜二人は逢う事は無い。次の一年を待つばかりだ。
気が付けば件の場所に着いていた。去年と全く変わりが無い。人気は無く、うら寂しい雰囲気のみが漂っている。その代わりに夜空は鮮やかに見えるが――。
「……居ないよな」
何を期待しているのだろう。彼女が居る訳が無い。僕は去年と同じように道の横の傾斜を降りた。
解っている。居ないのは。それでも――その姿を探してしまう。逢いたいと思ってしまう。
「――今晩は」
背後からいきなりそんな声が聞こえた。清流のような涼しげな声だった。
僕は噛み締めるように背後を振り返った。其処には一人の女性が立っていた。
「誰か、お捜しですか?」
星の光すら透き通る滑らかな髪が夏風にさわりと揺れる。
彼女は去年と全く同じように、少女のような幼さを残したまま笑っている。
天の川を背にしながら、彼女は悪戯っぽい仕草で腕組みをした。
「……うん。今、見つかったよ」
一日遅れの七夕も悪くないものだ。思いがけない出会いが待っている。
「……あれからずっと、待っていたんですからね」
本当なのか嘘なのかよく判らない。おそらくそれらは半分半分入り混じっているのだろう。
矢張り変わった女性だ。とりあえずは自己紹介をしなければと僕は思った。
<了>
やっぱり恋愛ものは慣れないですね……。
大した文章ではないのに、気力、体力がごっそり持っていかれました……。
それでは また! ノシ




