9.
「柄にもなく明日の授業の予習か」
開いたテキストを片手に、出席簿に目を通す越智は、こうして見るといつもと何ら変わりないようだ。
それはそうかもしれない。
俺が越智を知る前、それもずっと前から、虫に喰われていたかもしれないのだ。
それにしてもあの目だ。
明らかに、生気が宿っている。あの目と、その背後に書かれた意味のつかめない黒板の字が、マッチしない。
「最後の授業、という訳か」
「葛藤、ですねえ」
「葛藤?」
赤城、猪田……越智は出席を取り始めた。いつから目が覚めていたのか。
チョコルは保母が園児にものを教えてやるかのように、俺を指差して身振り手振りをつけて、説明する。
「喰われた人間が、たまに見せる行動ですよお。それをチョコル達は葛藤と呼んでいます。まあ、一種の断末魔しょうかね」
断末魔。
「それはどっちの断末魔だ? 壊されゆく人間の、助けを求める泣き声か。それとも壊しゆく悪虫の、快感の笑い声か」
「自分で判断するのも、また一興じゃないですかねえ? 良心の呵責に耐え切れなかった、とも考えることもできますが」
チョコルは、アンティークな形のカメラを取り出した。レンズの先を俺に向け、シャッターを切る。
「ふざけるな、チョコル。遊びじゃないんだ」
「こっちは遊びですよお? 京介はすこし甘いところがありますね。この間のコンビニでは問答無用で、心を壊したのに」
甘い? 俺は甘いのか。
たしかにこの間のコンビニでは、湧いてきた怒りが、俺をせきたてるようだった。だが。
今は、怒りとは少し違う。
マーブル模様の感情が、俺の芯から湧き出てくる。
興奮しながらも、冷静なのだ。
「不思議、不思議京介」
自分の名前を呼ばれて、思わず机から飛び出そうになった。すぐに、越智は、俺の存在に気がついた訳ではなくて、出席を取っているだけだとういうことに気がついたが、チョコルがすかさず撮ったシャッター音を鳴らした。
「さて、ひとつ宿題でえす。葛藤とは、いったいなんでしょう?」
「止せ、こんな時に。そんな状況じゃないだろう」
「チョコルにとっては、どんな時、どんな状況だろうと、お遊びなのです。まあ、おうちに帰ったら復習することですねえ」
その時だ。越智の体が電池が切れたように、フリーズして耳の穴から黒い煙が蒸気のように噴出し始めた。
アニメに良く出てくる、頭を使いすぎてパンクしたような、その現象は、この正常とは言いがたい状況に似つかわしくない。
しばらくして、また越智は動き出した。
「では授業を始める。まずはこの公式は、何を表したものだろう?」
「はあい、悪意のメカニズムでえす」
「そうだな、殺意に特化した悪意ともいえるが」
俺はあわててチョコルを押さえ込んだ。俺が口をふさぐと、チョコルは目で笑って俺の手をべろべろと舐める。
「舐めるな」
「ぷはあ、大丈夫ですよ。たしかにチョコルの言ったことには反応しましたけど、どうせ、チョコルが答えたことなんて、跡形もなく消えさって、結局は何も残りはしませんからあ」
「大丈夫なのか? それよりも悪意のメカニズムとはどういうことだ?」
「そのままです。人の悪意の発生する仕組みを公式に表しただけのもです」
そういわれて黒板を見てみると、確かに、ところどころ憎しみ、や妬み、といった単語が書いてある。どこか外国の言語で書かれたようにも思えるし、ただランダムに文字を並べただけのようにも思えた。
「最後の最後まで授業をするなんてな。まあ、三流教師にお似合いの終わり方か」
チョコルは唇から少し舌を出して、テンションのあがった様子で、カメラを構えてシャッターを切り続けている。越智は生き生きとして、悪意についての講釈を垂れては、まるで生徒が見えているかのように頷く。
なんだか幸せそうだ。
俺はとくに慎重になることもなく立ち上がり、越智に近づいた。
「なんだ不思議、トイレか。かまわんぞ、行ってこい」
「授業は終わりですよ、越智先生」
黒板の上の時計が一秒を刻んだ。俺と越智の視線が重なる。越智の目が炎を宿したように輝いた。
越智の目の中の炎は、瞳を焼き尽くして閃光となり、誰もいない夕日の差し込む教室を明るくさせた。
心壊した越智は、操り人形の糸が切れたようにひざまづき、俺に頭を下げるように倒れこむ。
黒板の上の時計が、もう一秒、刻んだ。
二秒。
俺は、這い出てきた虫を摘まみあげながら、静かに出席簿を閉じた。
すっかり日は落ち、差し込む月明かりだけが、教室に影をつくっていた。




