8月(4)
「少しずつでいいんだ。君自身を大切に思えたなら、その気持ちは消える。」
「はい。」
「でも、それだけじゃ無いよね?」
「えっ?」
「時間的に矛盾がある。喉の傷で病院から戻った時、君はまだそんなに激しい症状にはなっていなかった。」
「先生は、何でもお見通しなんですね…。」
「何があったんだい?」
私は、被りを振った。
「言いたくありません。」
先生は、ため息をついた。
「其処が一番肝心な所なんだけどな…。」
「…。」
「参ったな…。」
「先輩は…お母様と似てるから、私を想ってくれるのでしょうか?」
「父に、全て聞いたんだね?」
頷く、私。
「頼まれ事、された?」
「…。」
「そうか…。さっきの質問。正直、最初はそうだったと思うよ。今は、違うだろうけどね。」
「…。」
「小次郎に、ちゃんと聞かないといけないよ。」
「…いいんです。」
「言葉を尽くさないと、想いは伝わらない。」
「今の私には、その勇気も資格も無い。」
「弱ってるね…相当…。」
「あの腕に戻れたら……今は、本当にそう思います…。」
「本当に、好きになってくれたんだね。なのに、これじゃ悲し過ぎる。一体、何が君を追い詰めているんだ?」
「…いいんです、大丈夫。」
「神崎さん、君もしかして、小次郎から離れようと思ってる?」
「…。」
「薦められないよ。君自身がバラバラになってしまう!」
「辛いんです…私の事で悩む先輩を見るのは…。」
「離れたら、君はもっと辛くなる。」
「私は…。」
「大丈夫じゃない!本当に崩壊するぞ!」
「……。」
「いいかい?僕が相談に乗るから、絶対に短気は起こさない事!約束出来る?」
「…はい。」
「いざとなったら、僕が力を貸すから。僕は、君の味方だ。いいね?」
「…はい。」
「…今日は、ゆっくり休みなさい。」
先生は、カップを受け取り、私を寝かせ、布団を掛けてくれた。
「先生…。」
「ん?何だい?」
「ありがとう…。」
先生は、ベッドに座り、私の額にキスをして言った。
「おやすみ、大事な妹…。」
そして、電気を消して出て行った。
翌朝、務めて明るく挨拶をし、食事をとる。
先輩は、少し機嫌が悪い。
「今日は、どの様なご予定なんですか?」
「花を手向けて来ようと思ってね。折角此処まで来た事だし。」
「そうですか。」
「小次郎、お前も同行しなさい。」
「俺は…。」
そう言って、先輩は私の方を見る。
「私、今日は物理の宿題やらなきゃ。」
「教えると、約束した。」
「まずは、自分で解かないと。帰ったら、教えて下さいね。それまで、自分で頑張ります。」
「…わかった。」
良かった、渋々了解してくれた。
「そういえば操ちゃん、お母さんのお墓参りは?」
先生に、いきなり『操ちゃん』と呼ばれ、私も面食らったが、隣の先輩が硬直する。
「あ…うちは、お墓無いんです。代々散骨しているらしくて…。」
「操さんの家は、革新的なんだね。」
院長先生まで…。
「その方が、何処に居ても亡くなった人を想ってあげられるって。私の母は、空に撒かれました。」
「そうか…そういう考えもあるね。」
3人で川に向かう先輩達を見送る為に、玄関に出る。
出際に先輩が、スッと私の指先を握る。
私は、にっこりと笑い
「行ってらっしゃい。」
と言った。
先輩に大見得を切ったが、物理の宿題は遅々として進まなかった。
「はぁ〜。」
思えば、まだ北海道に来て5日しか経ってないのに…色々あって頭が一杯。
院長先生との約束…これを当面の課題にしよう。
でも、正面切って言っても、先輩意固地になるだけだしな…。
「神崎様?」
マキさんが声を掛ける。
「は、はい!」
「お昼、何に致しましょう?」
「皆さんは?」
「多分、外食です。」
「じゃあマキさんと2人?」
「えぇ。」
「残り物でいいですょ。私も厨房に行きます。」
女2人で残り物を食べるつもりが、あまりに豪勢な残り物に思わず笑ってしまった。
「神崎様は…。」
「それ、止めません?様って柄じゃ無いんです、私。思い切り庶民だし。」
「じゃあ、神崎さん。小次郎坊ちゃまの恋人なんですか?」
「いえいえ…後輩ですよ、後輩。」
「でも主人が、小次郎坊ちゃまが神崎さんの事を嫁って言ったって…。」
「だから…冗談ですって!都賀さんにも、言ったのに…。」
「でも、坊ちゃまが冗談なんてねぇ。」
「言いません?」
「殆ど笑わないし、お話しもされないし…。」
「暗いですね…。」
「暗いというより、気難しい感じで…いつも、遠くを見ている様な方ですから。」
「…。」
「だから、今年は驚きました。お客様が沢山おみえになった事も有りますが、あんなに笑ったり怒ったり、感情を露わにする坊ちゃまを見るのは、初めてでした。」
「よく、喧嘩もするんですよ。」
「坊ちゃまとですか?」
「お説教もされるし…。」
「はぁ。」
「また、そのお説教がグチグチと長くて、嫌みたらしくて…。」
「誰の説教が、長くて嫌みたらしいって?」
「先輩!」
「坊ちゃま!」
「全く、宿題放ったらかして、こんな所で油売ってたのか。然も、俺の悪口付きたぁ、いい度胸だ。」
「地獄耳なんですよ、先輩は。」
マキさんは、クスクス笑いながら、お茶の用意を始めた。
「先生方は?」
「あぁ、帰った。今日の夜の便で、東京に戻るらしい。夕方前には、此処を出るそうだ。」
「そんなに、早く?」
「明日から仕事だしな。」
「そっか…。」
厨房を片付け、マキさんと一緒にお茶を出す。
「宿題は、出来たかい?操ちゃん?」
「駄目です。お手上げ状態。明日から、先輩のスパルタ講義があると思います。」
「時間があったら、僕が優しくじっくり教えて上げるんだけどな。」
「私が教えてもいいぞ、操さん。」
「是非、お願いしたいです!」
先輩と目が合う。
何も言わず、口を綻ばせ、私達の会話を聞いていたが、目が合うと、微笑みを返してくれた。
どうやら、親子3人で良い時間を過ごせた様だ。
楽しい時間の過ぎるのは早い。
あっという間に、先生方の出発の時間となった。
「操ちゃん、昨日の約束、覚えているね?」
玄関に送るわたしの手を握り、先生が言った。
「はい、覚えてます。」
「良い子だ。」
そう言うと、そっと抱き寄せて、また額にキスをして、ニヤッと笑った。
「おっ、では、私も…。」
院長先生も、私を抱き締め、頬にキスをすると、
「今度は、東京の家にも遊びにいらっしゃい。」
と、言った。
「えぇ、先輩と一緒に、是非伺います。」
お互いの心の内を伝え合う。
2人が車で出発するのを見送ると、先輩が後ろから、
「散歩に行かないか?神崎。」
と、誘いそのまま歩き出す。
私は、何も言わずにその後を着いていった。
夕方の風は涼しく、秋の虫達が合唱している。
先輩が振り返って、手を差し出す。
怖ず怖ずと手を出す私を、引き寄せる。
「俺は、前の様にお前を抱き締める事にする。」
「えっ?」
「お前が身を固くするなら、それが解けるまで抱き続ける。」
「あ、あの…。」
「お前が俺を拒絶しない限り、俺の温もりで溶かしてやる。」
「…先輩。」
「…嫌か?」
「分からない…溶けなければ、辛い思いをしませんか?」
「信じろ、溶かしてみせる。」
「私には、自信が無い…。」
「俺を信じろ!」
そう言うと、私の身体を懐に抱く。
途端に固まり、小刻みに震える私。
「あ…。」
それでも、先輩は腕を緩めない。
「操…力を抜いて、楽にするんだ。」
足がガクガクして、立っていられない。
その場に座り込んでも、先輩は包容を解かない。
「…操…操…。」
胸がチリチリする。
「ミサオ…愛してる…ミサオ…。」
「あ…。」
先輩からの初めての告白。
私の中の、何かが崩れる。
「愛してる…ミサオ…愛してる…。」
「…先輩。」
溶けた…本当に…。
力を失い、先輩の胸にしなだれ掛かる。
顎を引き上げられ、私の唇は先輩の唇で塞がれる。
私の舌が、先輩の舌に絡み取られる。
陶酔の時…頭がぼんやりする。
「ミサオ…」
「駄目…先輩の魔法、効きすぎ…。」
「挑発されたからな。」
「え?」
「兄貴が挑発してきやがった…。」
あ…、あの玄関で…。
「で、その挑発に乗ったの?」
「怒ったか?」
「もう、知らないっ!」
腕の中で暴れる私に、先輩はもう一度キスをする。
甘く、とろける様なキス。
「一つわかった事がある。」
「何?」
「屋外では、向かないという事だ。」
「どういう事?」
「お前が、こんなになるとは、予想外だった。」
「なっ!!」
「これからは、部屋のベッドの上でだな。」
「絶対やだ!もう絶対抱かせてなんてやらない!」
「大きな声で…誰かに聞かれるぞ。」
と言ってクスクス笑う。
「もうこれっきりですからね!」
そう、立ち上がって私はむくれた。
先輩も立ち上がって、土を払うと、
「そんな事、許す筈無いだろう?」
と言い、後ろから私の肩を抱きすくめた。
「お前は、もう俺の物なんだよ。」
しまった…先輩がSだというのを忘れていた…。
遠くで、チリッと痛みが走った。
翌日から、物理のスパルタ講義が行われ、どうにか私の宿題は大団円を迎えた。
「もう、クタクタです。しばらくは、頭使いたく無い。」
「まぁ、よく頑張ったな。」
「疲れた…。」
「神崎?」
「眠い…。」
「全く…。」
先輩は、私を抱き抱えて自分の部屋に運ぶ。
「やだ…此処…。」
「何故?」
「落ち着いて寝れないもん…。」
私は、本当に眠いのだ。
先輩の悪戯に付き合う気は無い。
「何もしねぇよ。」
そう言って、額にキスをして、一緒に添い寝する。
トロトロ…布団の中に、先輩の懐の中に溶けて行く。
何処かでバタンと風でドアの閉まる音がした。
その瞬間、
「グッ!!」
身体がのけぞり、硬直する。
「神崎?」
激しい痙攣、息が出来ない。
「操、落ち着いて、息をして!」
浅い息を繰り返す私に、
「もっと深く、深く吸い込んで。そう、落ち着いて…俺が着いてる。」
そう諭す。
「この部屋…嫌…怖い…。」
「怖い?」
「怖いの…とても…。」
「わかった。」
先輩は、私を抱いて、違う部屋に移動してくれた。
程なく私の発作は治まり、静かな眠りに堕ちた。
「お前、あの部屋で何があった?」
先輩の呟きは、私には聞こえなかった。