8月(2)
リビングにマキさんと一緒にお茶を運ぶ私を見て、機嫌が悪そうな先輩の顔の眉間に、深いシワが寄った。
ついと立ち上がり、部屋を出ようとする。
「小次郎、どこに行くの?」
喜久子様が声を掛ける。
出来る女って、こんな感じかな?セシールカットのスレンダーな人。若い頃は、凄い美人だったに違いない。少し、先輩に似てる…。
「疲れたので、休ませて頂きます。後で、部屋に茶を頼む。」
「承知致しました。」
竹島家の面々にお茶を配る。
「小次郎君は、相変わらずだね。」
「あのままで、良いわけありませんよ。」
「思春期特有の反抗期ですよ、お母様。学校を出て、社会にでれば嫌でも気付く。自分の愚かさにね。」
「私は、今のままの小次郎が好きよ。」
皆で、先輩の話し…何だろう?
「ちょっと、そこの貴女!」
「はい、私ですか?」
「名前は?」
「神崎操です。」
「操さんね?小次郎に、お茶を運ぶのでしょ?起きていたら、降りて来る様に言いなさい。」
「はい。」
「それから、時間があったら優の面倒を見てちょうだい。」
「はい、承知致しました。優様、後でご一緒しますね。」
優様は、にっこり笑った。
「失礼します。お茶、お持ちしました。」
「…入れ。」
2階の先輩の部屋は、明るくていい風が入る。
「気持ち良いですね。さすがに北海道って感じかな?」
「…何してる?」
「え?お茶を運んで…。」
「じゃなくて!」
「怒ってます?マキさん達の手が足りないみたいだったから、喜久子様達がいる間、アルバイトしようかと…。」
「…夜には、此処を出るぞ!」
「駄目ですよ。」
「何故?」
「喜久子様達、先輩に何かご用があるんじゃありませんか?」
「聞かなくても、分かってる…。」
「お家の事だから、何も聞きませんが、ちゃんと話した方がいいです。わざわざいらしたのも、その為でしょ?」
先輩は、私を抱き寄せて言った。
「お前にこんな事させて、聞く意味なんて…。」
私は、先輩の背中をさすった。
「私達も、話さないと、理解し合えない事、たくさんありましたよね?一杯話して、自分を理解して貰ったら良いじゃありませんか?」
「…操。」
「喜久子様がお待ちですよ。」
「…わかった。」
私は、部屋を退出した。
階段を下りた所で、優様が私を待ち構えていた。
「私を、待って下さってたんですか?」
「うん。時間、空いた?」
「じゃあ、マキさんに聞いてみますね。」
私はマキさんに確認し、優様の相手をする事にした。
「で、優様は、何をしたいのかな?」
「えっとねぇ…探検!」
「了解しました、隊長!それでは、探検グッズを揃えるであります!」
リュックに色々詰め込んで、帽子を被り、私達は小さな小さな探検に出かけた。
虫を捕まえ、木の実のお宝を発見し、花の王冠を作り、秘密基地まで作った。別荘に帰って風呂に入れ、髪を乾かしてやると、優様は私の膝で昼寝を始めた。
「すっかり、懐かれた様だな。」
「可愛いですね…。先輩も子供の頃は、こんな感じでした?」
「いや…俺は…。」
「お嫌いですか?子供の頃の話は。」
「あぁ。」
「そうですか…私も、好きではありません。」
「そうなのか?今日の様子を聞くと、幸せな子供時代を送った様に思えたが。」
「あれは…夢です。子供の頃、こうやって遊びたかった夢。今日は、優様とそれを実現出来ました。楽しかったぁ…。」
「…そうか。」
「先輩、優様ベッドに運んでもらえます?私そろそろ、夕食の準備に行きますので。」
「わかった。」先輩は優様をベッドに運び、布団を掛けてくれた。
「それじゃ、私は…。」
「待て。」
「何です?」
「少しだけ、此処に居ろ。」
そう言って、抱きすくめられる。
「同じ屋根の下に居るのに、お前と居る時間が無い…。」
「甘えん坊の子供みたいな事を。」
「ぬかせ!」
「はいはい。」
「優の奴、お前に膝枕されてた。」
「?」
「俺も、してもらった事、無い…。」
「だって、そんな仲じゃ…。」
腕に力が入る。
「…駄目…行かないと。」
私は、腕を逃れて厨房へ走った。
「君と小次郎って、どういう関係なんだい?」
就寝前のハーブティーをのみながら、聡様が尋ねる。
「別に…。」
「小次郎が、君の姿をずっと目で追ってる。」
「危なっかしいからじゃ無いですか?」
「時々コソコソ話してるよね。」
「…奉公先の坊ちゃまですから。」
「ふーん。」
カップを置いて近づいて来た聡様は、私の顎を持ち上げ片手で腰を密着させる。
「僕は、あまり興味無いけど…小次郎が君に興味を持つのは分かる気がするな。」
どういう事?
「人を呼びますよ。」
ゴムを取られ、髪を掻き揚げられる。
「いいよ。小次郎が見たら、どう思うかな?」
この人、大嫌い!
「恥ずかしくないの!」
「別に。細い首筋だ…。」
そう言って、舌を這わす。
嫌だ!
何か手近な物…。
机の上を、後ろ手に探って見つけたペーパーナイフを構える。
「それで、僕を刺すのかい?」
「そんな事しないわ!」
私は、自分の首筋にナイフを当てる。
「どうせ、見かけ倒しだろ?」
ナイフに、思い切り力を込めると、ようやく刃先が皮膚に刺さり、血が流れる。
「おいおい、冗談だろ?」
「試してみる?」
刺さった刃先を移動させると、新しい血が吹き出す。
「何て奴だ!」
そう言って、聡様は部屋から出て行った。
助かった…。
振り向くと、鏡に自分の姿が映っていた。
流れ出た血が、首筋を通って胸元に薔薇の様な大きな染みをこしらえていた。
それを、綺麗と思ってしまう自分に愕然とする。
まだ私は、死にたいと思ってるの?
先輩に、あんなに想われも、まだ…。
悲しくて悲しくて、肩を抱いて泣いた。
翌朝、マキさんが、聡様の部屋から私の使う部屋まで血痕が続いているのに驚き、先輩に報告したらしい。
先輩が私の部屋のドアを破った時、私の意識は朦朧としていた。
自分で止血したつもりだったが、思っていたより傷が深かった様だ。
病院から帰った私は、有無を言わせず先輩の部屋に運ばれ、ベッドに寝かされマキさんに付き添われていた。
聡様は、今朝早くに東京に帰ったらしい。
先輩は、喜久子様達と話しているという。
ベッドでトロトロとまどろんでいた私は、いきなり布団を剥がされた。
「貴女!一体何なの?」
楓様が、真っ赤な顔をして立っていた。
「何で、小次郎のベッドなんかに寝てるの!?降りなさいょ!」
と、引きずり降ろされる。
「何で、小次郎の婚約者の私が出て行かなくちゃいけないの?貴女が出て行けばいいじゃない!」
「!!」
「小次郎は、私のものよ!泥棒猫みたいな真似しないで!この部屋からも、この別荘からも、消えてちょうだい!」
心に針が刺さった。
細く鋭い針が、深く、深く…。
私はノロノロと立ち上がり、自分の部屋に向かった。
マキさんは、オロオロしながら成り行きを見守っている。
荷物を纏めていると、ノックの音がする。
「いいかしら?」
喜久子様の声。
私は、ドアを開け招き入れた。
「凄いわね…。」
部屋は、昨夜の状態のまま、血だまりが出来ていた。
「夕べは、聡が失礼な事をしたみたいで、ごめんなさいね。」
「ぐぁ…。」
「貴女、声が…。」
出ない。傷のせい?
「私達、今日此処を立つけれど、貴女も此処に居ない方がいいんじゃないかと思ってね。」
「…。」
「私達と、東京に戻ったら如何かしら?」
私は、頷く。
「良かった。じゃあ、戻る準備をしたら、リビングに来てちょうだい。」
そう言って、喜久子様は出て行った。
荷物を纏めて玄関に置き、リビングに向かう。
私の姿を見て、先輩は驚いた様に
「寝てなくていいのか?」
と言った。
「小次郎、彼女は私達と一緒に東京帰るのよ。」
「!?」
「貴方が此処に居るのは、構わない。でも、彼女には帰って貰います。」
「…何処に帰るって?」
「彼女は、責任を持って親御さんの所に届けるわ。」
「神崎!!答えろ!!」
「…。」
私は、目を伏せたままだ。
「彼女は、今、声が出ないのよ。」
「!…じゃあ代わりに僕が答えましょう。彼女は今、帰る場所が無いんだ。」
先輩がやって来て、私の腕を引いた。
「お前、何処に帰るっていうんだ?寮も閉まったままだろうが!」
大丈夫と、口真似をする。
「どういう事?」
「彼女は、寮しか住む場所が無いんです。」
「なんだ、宿無しの、捨て猫なんだ。」
「楓、失礼な事言うんじゃありません!」
「彼女の父親は海外勤務で、その間、寮生活をしているだけです。」
「そう…。では、ウチに来る?」
「冗談じゃ無い!!あんな事をした、聡の居る家に、行かすわけにはいかない!絶対にだ!!」
そして、私に向き直って言った。
「神崎、お前の居る場所は、此処しかないだろう!!あんな事されて、声まで出なくなって、俺がお前を放り出せる訳ないだろう!」
私は、精一杯の抵抗で被りを振り、突き放そうとした。しかし先輩は、此までに無い程しっかりと抱き締めると、
「此処に居ろ、操。俺の所に居るんだ。俺が守るから。ずっと守るから…操…。」
涙が溢れるのと同時に、目の前が真っ暗になって、膝から崩れ落ちた。
…ミサオ…ミサオ…。
優しい囁き。
そよ風の様に、私の髪を梳く指。
私の一番好きな場所…チリチリと胸の奥が疼く。
「操?」
「!」
慌てて起きようとした私は、目眩に襲われる。
「無理するな、まだ貧血気味なんだろう?」
だって、それは、先輩が添い寝なんてしてるから…。
少しずつ後ろにずれようとする私を、先輩は、また引き戻す。
こんな所、また楓様に見つかったりしたら!
「うぅ…。」
クルリと反転し、ベッドの下にうずくまる。
「皆んな、東京に帰った。安心しろ。」
耳を押さえて、被りを振る。
胸の針が痛い。
「操?」
差し伸べられた手を、思い切りはねのける。
触れられる事を、身体が拒否してる。
あんなに好きだった、先輩の腕の中に、もう戻れないの?
私は、声にならない声を上げて泣いた。