6月(2)
あれから何時間、こうしてるんだろう?
もう、辺りは真っ暗になっていた。
自室の…元寮官室の事務所の床に座り込んでいた私は、のろのろと立ち上がった。
ブラウスの胸ははたげ、全身泥だらけ。
靴も片方無い。
多分、カバンも外に放りっぱなしだ。
明日の朝、探しに行かなきゃ。
そう思いながら、服を脱ぎシャワーを浴びる。
あちこち擦りむいたんだろう。
チクチク痛む。
こんな事、何時までも続く事は無い。
大丈夫、明日はきっと良い日になる…。
髪を洗い、身体を洗い、火照った身体に水を浴びていた時、いきなりシャワー室の扉が開いた。
「!!」
目をギラつかせた男が、入口を塞ぐ様に立っていた。
何故?鍵は、全て掛かっているはず…!
「お前が悪いんだ!お前が…」
訳の分からない事を呟きながら、男は私の腕を掴んだ。
「キャーーーッ!!」
絹を裂く様な悲鳴。
いきなり男は、私の顔を殴った。
「何するの!」
「黙れっ!」
何度も拳が顔面を撃つ。
男は、ナイフを出し、
「騒ぐと、これで刺すからな!」
そう言って、私の髪を掴み、事務所の床に引きずり出し、馬乗りになる。
「イヤーーッ!」
「黙れ!」
また、拳が撃たれ、顔にナイフが当てられる。
私は、咄嗟に左手でナイフの刃を握り締めた。
痺れた手では、ほとんど痛みを感じない。
相手がナイフを抜こうとすると、鮮血が私の胸に滴り花を咲かせた。
怯んだ相手がナイフを落とすと、すかさず拾い上げて自分の首筋に当てた。
「あんたに犯られる位なら、自分であの世に逝くわ!!」
「…やれよ。」
そう言って、男はにじり寄って来る。
こんな時、女は無力だ。
悔しさに涙が滲んで、私の手に力が入る。
男が、再び馬乗りになったその時、突然入口のドアが蹴破られ、人影が見えた。
一瞬で状況を把握したのだろう、
「テッメェッ!!」
と跳び込もうとする影を、もう1人の影が止めた。
「俺が行く。お前だと、殺しかねない。」
大和先輩?
大きな影が、男に掴み掛かるのが見えた。
もう1人の影が私を抱き起こし、自分の上着を私に掛け、その上からそっと抱いてくれる。
「済まない、遅くなった。」
私は、まだ硬直していた。
ナイフは固く握られ、首筋に強く当てられたまま喘いでいた。
私の手ごとナイフを掴み、もう片方の腕を身体に回すと、耳元で優しく諭してくれる。
「神崎、ナイフを離すんだ…神崎…頼むから…操…。」
その瞬間力が抜けて、私はナイフを落とした。
「鷹栖…先輩…。」
私は、彼の胸に縋った。
彼は私の左手にタオルを巻くと、
「大和、済んだか?」
と声を掛ける。
「おぅ!」
「ドアを閉めて、誰も入れるな。それから、兄貴に電話して、来て貰ってくれ。」
「わかった。」
騒ぎを聞きつけた寮生が、廊下に集まっていた。
バタンとドアが閉まると、彼は再び私を抱き締めた。
「もう心配無い、俺が守るから…もう大丈夫だ…。」
「…大丈夫?…」
身体が硬直して、私が彼を押しやるのは同時だった。
大丈夫…そう、私はもう大丈夫。こんな事、何でも無い。何事も無かったんだから。大丈夫、自分の足で立てる。もう平気。ほら、大丈夫…大丈夫。
「鷹栖先輩、ありがとうございました。もう大丈夫です。」
「…。」
「私、もう一度シャワー浴びて来ますね。」
「…あぁ。此処にいるから、安心しろ。」
シャワーのお湯を出すと、金臭い血の匂いが立ち込めた。
身体や髪に着いた血を、洗い流す。
掌から流れる血を見ながら、綺麗だと思った。
全部流れたら、楽になれるかしら…。
シャワー室のドアを叩く音に、現実に引き戻された。
「平気か?神崎。」
「はい。今出ます。」
シャワーから出ると、事務所には大和先輩もいた。
血で汚れた床も、綺麗に掃除されていた。
「大和先輩、ありがとうございました。」
「災難続きだったなぁ。」
「え?」
「いや、1日に2回も襲われて…。」
「大和!」
「どうして、それを…。」
「気付かなかったのか?俺達が駆け付けたの?」
「…済みません。逃げ出すのに夢中で…。」
あの時助けてくれたのも、この2人だったんだ。
「あの後、寮官さんは部屋に閉じ籠もったままだし。なぁ?」
そう振られた彼は、新しいバスタオルを持って、
「神崎、此処に座れ。」
と、ソファーを指す。
私が座ると、首に掛かったバスタオルを畳んで背もたれの上に置き、私の首を安定させると髪を拭きはじめた。
「あ…。」
私が何を言おうとしたか察する様に、
「片手じゃ、拭き辛いだろう。」
と、ぶっきらぼうに言う。
「お上手ですね。」
「毎日の事だからな。」
「人に髪を拭いて貰うなんて、10年振り…。」
いつの間にか、ドライヤーの風が柔らかくあたり、彼の指が私の髪を梳く。
あぁ、母さんもこうやって髪を梳いてくれたっけ…風が心地いい…涙が目尻から流れる…。
「…母さん…。」
気が付くと、ベッドに寝かされ、枕元に見知った顔があった。
「先生?」
病院でお世話になった先生が、其処にいた。
「やぁ、目が覚めたね。神崎さん。君は、本当によく怪我をするんだね。」
「済みません。でも、どうして此処に?」
「不肖の弟に、呼び出されたんだよ。」
「弟?」
「あれ?知らなかったのかい?鷹栖小次郎は、僕の弟なんだ。」
「…。」
「驚いた?」
「お世話になってるんです。本当に…助けて頂いてばかりで、申し訳無くて…心苦しくて…。」
「…少し話せる?神崎さん。」
「はい。」
「理事長に聞いたんだけど、お父さん公務員だよね?」
「はい、海外赴任中です。」
「なかなか帰れ無いって?」
「今回は、最低でも3年は帰れないと…。国内にいてもほとんど帰って来ませんから、同じ様なものです。」
「お母さんは?」
「亡くなりました。小学校1年の時に。」
「じゃあ、親戚に引き取られてたの?」
「小学校3年迄は、祖母が生きていたので。それ以降は、1人で暮らしてます。」
「自立してるんだね。」
「その様に、母も祖母も、育ててくれました。感謝してます。」
「…大丈夫っていうのも、そう?」
「…おまじないです。母が教えてくれました…1人で生きて行く為のおまじない…。」
「他人に迷惑を掛けない様に?」
「それも有りますが、何があっても1人で立ち上がる事が出来る為に…。」
「他人を頼るって、いけない事かな?」
「先生、私馬鹿だったから、たくさん騙されて来ました。優しくしてくれる人もいたけど、決して永遠じゃ無い…。」
「神崎さん…。」
「放り出されて1人になるなら、最初から1人の方がいい…優しくなんかしないで下さい。辛いだけ…。」
「そんな人間ばかりじゃ無いと思うよ。」
「先生、もう、この話は…。」
「神崎さん、死にたいって思った事、無い?」
「そんな…父が悲しみます。」
「医者として言わせて貰うよ。君の今迄の頑張りは評価するけれど、その我慢はもう限界に来てる筈だ。」
「そんな事ありません!」
「毎日色んな物を少しずつ我慢して、毎日色んな物ん少しずつ諦めていってるんだよ、君は。」
「私は、まだまだ大丈夫です!」
「ほら、そうやって我慢する。我慢って限界があるって言ったでしょ?限界を越えると爆発するんだ。つまり、精神が崩壊する。」
「崩壊なんてしない、父を悲しませる様な事、私は絶対にしない!」
「君は、誰の為に生きてるの?お父さんの為?自分自身の為に、ちゃんと生きてる?」
「…お父さん…。」
「自分の血が流れるのを、綺麗だと思った事無い?このまま死にたいって思った事あるよね?」
「いやぁ…どうして…。」
「爆発させない方法は、有るんだよ。」
「…。」
「それは、君が君自身を許してやる事だ。差し伸べられた手を握るのも、1人ではなく2人で立ち上がる事も、悪い事では無いんだよ。」
「…。」
「我慢ではなく、想いを溶かしてやる事だ…。」
「…怖い。」
「人は本来、支え支えられて生きるものだ。1人では、支えきれないんだよ。」
「私の今迄してきた事、全て間違いだと?」
「神崎さん?」
「私の全てを否定すると!?」
「マズい!小次郎!!彼女を抱き締めて離すな、呼び続けろ!」
慌てて部屋に入って来た鷹栖先輩が、私を抱き締めて呼びかける。
「落ち着け、神崎!平気だから…。」
「今迄の私は一体、何だったというの!?」
「落ち着いてくれ…頼むから…神崎…。」
「私は!私…」
「…操…操…」
「…。」
「ミサオ…。」
私は、彼の腕の中で堕ちた。
「兄貴、今のは?」
「どうやら大丈夫そうだ。分裂仕掛けたんだ。寸での所で収まったがな。」
「…。」
「話は、聞いてたな?」
「あぁ。」
「一時的な感情じゃ、彼女を崩壊させちまう。分かるよな?」
「あぁ。」
「俺は薦められない。彼女の為にも、そっとしておいてやる道もある。」
「分かってる。」
「…もう1つ、彼女の親父さんの事だ。」
「?」
「我が国では珍しく、かなり危険な仕事をしている様だ。」
「!」
「父親の死は、彼女の崩壊を招く恐れがある。」
「…そうか。」
「馬鹿な弟は、腹を括ってる訳だ。」
「…。」
「焦りは禁物だ。ひたすら寄り添って、彼女から手を差し出させなきゃならん。」
「分かってる。」
「何があっても『大丈夫』だけは使うなよ。彼女にとっては、悪魔の呪文だ。」
「あぁ。」
「まぁ、キーポイントが分かっただけでも、今日は良しとするかぁ!」
「何だよ、それ。」
「彼女にとっての、とっておきって奴!」
「だから、何だよ兄貴!!」
「ははは…お兄様と呼べ!」
翌日、徹底的な調査の結果、事務所の床にある備蓄庫の扉から床下を通って侵入された経路が発見された。
其処から侵入しては、寮生の私物を盗んでいた警備員が犯人だった。
即日、侵入路は塞がれ平穏な日々が訪れる。
残ったのは、根も葉も無い、噂話だけだった。