6月(1)
ずっと、名前を呼ばれている気がした。
優しい声…。
お父さん?
帰って来てくれたの?
でも、多分それは無理…いいんだ…わかってる。
ミサオ…ミサオ…。
甘く優しい囁き…くすぐったい様な、心地よい響き。
誰?誰なの?
………。
……頭が…ボーっとする。
何処だろう、此処は?
瞼が重い…。
視界に、霞が掛かった様に滲んで見える。
ホテルの一室みたいだけと…私の腕に、点滴やコードが繋がれ、頭の上には機械がある。
規則正しい音…この機械知ってる…病院?
起き上がろうとして、全身に鉛を溶かした様な重さと、身体のあちこちから起こる痛みに呻く。
何なの?一体、何があったの?
入口から誰かが入って来た気配がする。
白い服の…看護婦さん。
駆け寄って、手を握ってくれる。
「気付いたか?良かった…今、医者を呼ぶから。」
あ…男の人だ…。
私の頬に手を当てて…笑ってる?
顔がよく判らない。
ナースコールをしているんだろうか、声が聞こえる…優しい声…貴方は誰?
私は、再び微睡みの中に堕ちた。
私の名前は、神崎操。
私立聖麟学園1年生。
昼休みに、学校の階段から落ちたらしい。
左腕、肋骨2本の骨折、全身打撲、脳震盪…等々で、1ヶ月以上意識が戻らなかったと説明された時には、流石に驚いた。
病院側は、親と連絡が取れない事に驚いた様だったが、そこは理事長が上手く説明してくれたらしい。
私自身、父がどんな仕事をしているか、よく分からない。
ただ、個人よりも優先される仕事なんだと、理解する様になった。
母や祖母が亡くなった時も、父はなかなか帰って来なかったから。
といって、父との関係が悪い訳ではない。
週に一度は、必ずメールを送ってくれる。
例えそれが、一方通行のメールであっても。
「神崎さん、調子は如何ですか?」
「大丈夫です。少し頭痛はしますが…身体の痛みも、我慢出来ない程ではありません。」
「…やはり、聞いていた通りだな。」
そう言って、先生はため息をついた。どういう事?
「あのね、神崎さん。此処は病院なんだから、我慢する必要は無いんだよ。」
「あ…はい。先生、左腕の事なんですが、小指と薬指の感覚が無いんですが…。」
「貴女の場合、左腕は複雑骨折だったからね。神経もかなり損傷していたんだ。リハビリも始まったばかりだし、もう少し様子を見ましょう。」
「…神経が、戻らないという事も…あるんですか?」
「…残念ながら。」
「…そうですか…。」
「神崎さん?」
「あ…大丈夫です、先生。リハビリ頑張ります。」
「…そうですね。戻ると信じて、頑張っていきましょう。」
身体の血が、急に冷たくなった気がした。
どんよりと曇った空。遠くで雷の音がする。
今にも雨が落ちて来そうだ。
屋上のベンチに座り、私は雷の光る遠くの雲を見ていた。
覚悟は、していたつもりだった。
左手の小指と薬指が、利かない…それは、剣道をする者にとっては、致命傷だ。
人差し指と中指は、痺れていた。
しかし、小指と薬指の感覚は、全く無いのだ。
私は…生きる目標を見失った。
大袈裟かもしれない。
でも、家族とも離れて、寂しさを打ち払う為に、自分自身を強く生きていく為に、私が打ち込んで来た物は、剣道しか無かった。
高見に登る為に、精進だってしてきたつもりだ。
今更逆手に替えた所で、今以上の強さになるとは思えない。
あと一歩、あと一歩だったのに…!
とうとう、空から大粒の雨が落ちて来た。
雨脚が早くなり、髪を頬を、雨が伝う。
雨音が、私の声を殺してくれた。
「…神崎!」
突然、背後から呼ぶ声がする。
聖麟学園の制服…夏服になったんだ。
その人は、息を弾ませ此方を見ていたが、ゆっくりと近づくと、いきなり私の腕を思い切り掴んだ。
痛い、何?
「お前…。」
と彼の口から出るのと、
「あの…。」
と私の口から出るのは、同時だった。
黙ったのは、彼の方。
私は、再び口を開いた。
「あの…どちら様でしょう?」
瞬間、彼が腕を放した。
何だろう?
この人、私の事を知っている?
彼は、下を向いて動かない。
既に豪雨となった中、彼の長い髪が濡れて、雫が滴り落ちる。
「あの…。」
「…濡れると身体に障る。戻るぞ…。」
そう言うと、再び私の腕を取り、半ば強引に引っ張られる。
怒ってる?
何故だろう?
廊下を歩くびしょ濡れの2人を、人々が振り返った。
彼は、私を病室まで送り届けると、
「濡れたままでは、風邪をひく。着替えろよ…。」
そう言って、私を部屋に入れ扉を閉めた。
気遣ってくれたんだ…と思った瞬間、『ドンッ!』と外から扉を殴る音がした。
何っ!?
遠ざかる足音。
やっぱり怒ってる?
何なの!もうっ!
個室だとシャワーも付いていて、本当に快適。
こんなホテルみたいな部屋、一体一泊幾らするんだろう?
只でさえ、長期入院なのに。
請求書が怖い。それにしても、さっきの人。
明らかに、私に怒ってたと考えるべきだよね?
聖麟学園の制服着てたけど、会った覚えは無かった。
とはいえ、あれだけの男子生徒の数、覚えきれたものでは無い。
何故、あんなに怒っていたのだろう?
何か、失礼な事したのかな?
私は、自分の左手の事も忘れて、あれこれと考えていた。
退院が決まり、寮に戻った私を、寮生達は暖かく迎えてくれた。
「大変だったなぁ、寮官さん。」
「困った事があったら、いつでも言ってくれよ、寮官さん。」
皆そう、気遣ってくれる。
静かな病室と違い、此処には活気が溢れていた。
夕食の時間になっても、全く食欲が湧かない。
とりあえず、トレーにスープとヨーグルトだけを取り、席へ運ぼうとした。
しかし、左手に力が入らず、揺れてスープが零れる。
あぁ、こんな事すら出来ないのか…と思った瞬間、隣からスッとトレーを持つ手が伸びた。
「あ…大丈夫…。」
「大丈夫だと判断したなら、手は貸さない。」
そう言った人は、先日の屋上で会った彼だった。
寮生だったんだ…。
「席は?」
私は、被りを振った。
その人は、スタスタと窓際の席に自分のトレーと私のトレーを置いて座った。
「…ありがとうございます。」
そういう私を無視して、彼は黙々と食事を始めた。
…気まずい。
そう思いながら、スープを啜る。
その時、
「お待たせ。」
と言って、トレーに山の様に食事を乗せた生徒が、彼の隣に座った。
瞬間、席を立とうとした私に、
「立たなくていい。」
と言う、彼の声。
私は、渋々腰を下ろした。
「寮官さん、それしか食わないのか?俺の、分けてやろうか?」
後から来た人が空気を破ってくれたので、ホッとする。
「あまり、食欲無くて。」
「ちゃんと食わないと、身体治んねえぞ。」
この人も、私が入院したのを知ってるんだ。
「あの、私…。」
「知ってるよ、寮官さん。神崎操さんだろ?」
気持ち良い程ガツガツと食べながら、その人は言った。
「俺は、1年7組、赤井大和。宜しくな。」
「宜しくお願いします。同じ学年なんですか?年上かと思いました。」
「あぁ、上だよ。俺達は、特別。留年組だからな。」
そう言って、豪快に笑った。
「じゃあ、其方の方も?」
「其方の方って…お前、名前も名乗らず人助けしてたのか?」
「…うるせぇ。」
「済まないなぁ。こいつ、最近機嫌悪くて…こいつの名前は、鷹栖小次郎。1年9組だ。」
「…宜しくお願いします。」
「あ、俺の事は、大和って呼んでくれて構わない。」
「いえ、それは流石に…じゃあ、大和先輩で。」
「あぁ、いいぜ。で、こいつは、何て呼ぶ?」
「じゃあ…小次郎。」
「ぶっ!」
お茶を飲んでいた彼は、目を剥いて吹いた。
「そりゃあいい!俺は先輩で、お前は呼び捨て!」
大和先輩の豪快な笑い声が、食堂に響き、つられて私も笑った。
「嘘ですょ。鷹栖先輩。」
クスクスと笑いながら私は言った。
「…やっと、笑ったな…。」
「え?」
「そうそう、女の子は、笑顔が一番!」
そう言うと、大和先輩は私の頭をわしわしと撫でた。
「何か、お父さんみたい…。」
「おいおい、幾ら何でも、そりゃあ気付くぞ!」
そう言って、また笑った。
鷹栖先輩を見ると、静かに此方を見ていたが、私と視線が合うとプイと逸らす。
嫌われてるのかな…。
「私、そろそろ失礼します。」
「おぅ、そうか?じゃあ、また明日な!」
「はい、お休みなさい。」
そう言って立ち上がり、トレーを持とうとすると、鷹栖先輩の手がトレーを押さえる。
「いい…これは、俺が持っていく。」
「でも…。」
「何故、素直に聞けない!」
突然声を荒げられ、食堂の全員に注目されてしまい、いたたまれない。
「小次郎!」
「…済みません。」
そうお辞儀した時、不意に涙が溢れた。
マズい!
そのままバタバタと自室に戻って、鍵を閉めた。
そのままベッドに潜り込む。
何だか、無性にに悲しかった。
ここの所、嫌な事ばかりが続く。
最初は、気のせいだと思っていたのだが、誰かが部屋の中に入って居る様だった。
最近は、わざわざ入った痕跡を残す様になって来た。
寮長に相談して、鍵を増やしても一向に収まらない。
食欲は益々落ち、夜も寝れない日が続いた。
そんなある日の下校時、寮への道をふらふら帰る私に、いきなり後ろから袋を被せられ、羽交い締めにされた。
そのままズルズルと引きずらて、押し倒される。
相手は…多分2人。
暴れて抵抗する私に、馬乗りになり首を絞める。
もう1人は、足を押さえる。
意識が朦朧とする、息が苦しい…。
ブラウスに手が掛かり、ボタンが一気に引きちぎられた。
もう駄目!そう思った時、ワアワアいう声と共に、私を押さえる力がフッと消えた。
今だ!
私は、顔の袋をかなぐり捨て、周りも見ずに寮に向かって一目散に走った。
後ろから、誰かが追って来る気配がした。
慌てて自室に戻り、震える手で鍵を掛け、カーテンを閉める。
程なく、ドンドンと扉を叩く音。
「イヤーーッ!!」
もう、何も聞きたく無い!
しばらく叩かれていたドアは、その内ピタリと静かになった。