夏
車椅子で廊下を行くと、すれ違う人や周囲の人の注目を浴びる。
きっと、車椅子を押す小次郎先生が素敵なせいもあるけれど、原因は、きっと私の髪。
何故かわからないけど、若い癖にお婆さんの様に真っ白なんて、気持ち悪いに決まってる…。
「小次郎先生。」
「何だい?」
「髪、切って貰えませんか?」
「どうして?」
「洗ったり、乾かしたりするの、看護士さん達だって手間だし…。」
「そんな事、気にする必要は無い。」
「でも、皆さん気持ち悪いに決まってます。若いのにこんなに真っ白で、長くて…。皆さん見てるし…。」
小次郎先生は、車椅子の前に来てしゃがむと、私の髪を掴んで言った。
「誰が、気持ち悪いって?」
「だって…。」
「神崎さん、皆が見てるのは、この髪が美しくて羨ましいからだ。」
平気でそんな恥ずかしい事を言う。
「どの位切ろうと思ってた?」
「短くしようかなって…その方が目立たないし…。」
「じゃあ、一つ俺の願いを聞いてくれるか?」
「先生のお願い?」
「長いままでいて欲しい。洗うのも、乾かすのも協力するから。」
「長いのが好きなんですか?」
「あぁ。俺の為に伸ばして貰えないか、神崎さん?」
「先生の為に…。」
「駄目かな?」
「…しょうがないですね。お願いされちゃあ…。でも、少しだけ切らせて下さい。リハビリの時、自分の髪踏んじゃう。」
「どの位?」
「せめて、小次郎先生位に…。」
「わかった。後で切ろう。」
今日は、屋上に行くという。
「あ…気持ちいい風…。」
屋上を吹き抜ける風が、気持ちいい。
そのまま屋上を進んで行く…あれ?ドキドキする…。
突き当たりを左に曲がって、ベンチが見えた所で、私は怖くなって車椅子の車輪を掴んだ。
途端に、指先が車椅子本体との間に挟まれてしまう。
「っ痛!」
「済まん、大丈夫か!?」
「あ…はい。」
「見せてみろ!」
おずおずと右手を出すと、指先から血の流れる指を、小次郎先生は口に加えて血を吸い取る。
驚いて手を退こうとする私に、
「じっとしてろ…。」
と、舐め続ける。
先生の舌の感覚が伝わり、またドキドキする。
「あの…もう、大丈夫ですから…。」
そう言うと、先生は自分のハンカチで指先を拭き、
「部屋に帰ったら、消毒して冷やそう。」
「はい…。」
「神崎さん…何故急に止めようとしたんだ?」
「…あそこは、何か嫌で…。」
「ベンチの所?」
「怖いの…胸が締め付けられる感じ…。」
「下りようか?」
「はい。」
部屋に帰ると、指先を消毒して、保冷剤で冷やす。
「気持ちいい…」
「良かった。」
「小次郎先生って、私にフランクに接して下さいますよね?」
「そうかな?」
「なのに、何故神崎さんなの?」
「…。」
「武蔵先生も、院長先生も、名前で呼んで下さるのに、一番近くにいる小次郎先生は、神崎さんって…。」
「…。」
「ごめんなさい。余計な事でした。」
少し寂しくなった。
「私、休みます。」
そう言って、車椅子を移動してベッドに行く。
ベッドに上ろうとしてバランスを崩した私を、小次郎先生が抱き留める。
「ごめんなさい…。」
「いや…。」
そのまま、小次郎先生は動かない。
「…先生?」
「…何と呼べばいい?」
「さっきの話?」
「あぁ。」
「先生に、しっくり来るのがいいな…。」
「操ちゃん…。」
「何か違う。」
私は、クスクス笑った。
「操さん。」
「それも、何か変!」
「操っち?」
「なぁに、それ!」
見上げて私が笑うと、少し腕に力を入れて言った。
「…操…。」
「あ…。もう一度…。」
「操…。」
「…お願い、もう一度…。」
「…ミサオ…。」
私の足から力が抜け、先生に抱き抱えられる。
「先生、私の事そう呼んでたの?」
「何故?」
「ずっと昔から、そう呼ばれてた気がする…先生にそう呼ばれるの、私好きよ。とても優しくて、少し切ない…。」
「操で、いいのか?」
「そう呼んでくれると、嬉しいけど…駄目ですか?でも彼女に、怒られちゃうかな?」
「彼女?」
「いらっしゃるんでしょう?小次郎先生、素敵だし…。」
「…今は、いないかな。」
「そうなの?じゃあ、呼んでくれます?」
「あぁ。」
「嬉しいな…少し、疲れちゃった…。」
先生は、私に布団を掛けて、頬に手を添えて優しく言った。
「おやすみ、ミサオ…。」
翌日、珠ちゃんが遊びに来た。
珠ちゃんは、私の高校時代の友人で、彼女との会話で思い出した事は、数知れない。
「文化祭、覚えていらっしゃいます?操ちゃん!」
「おぼろげながらね…何か、役員してなかった?」
「えぇ、文化祭実行委員会に入って、頑張っていらっしゃいましたわ。」
「色々、バタバタしてた記憶がある…。いつも、帰りに図書室に行ったわよね。」
「いつも、お茶を飲みましたわ…。」
「私と、珠ちゃんと、大和先輩と…もう1人…。」
「もう1人?」
「居たと思うの…誰?」
「それは、前も言った通り、教えてはいけない決まりなんですのよ。」
「でも、居たでしょう?」
「…。」
後ろで記録を取っていた小次郎先生が、ツイッと立って別室に行く。
「文化祭の実行委員長の事は、覚えてます?」
「確か、剣道部の…南先輩!」
「そうそう!」
「確か…告白された様な…。」
「操ちゃん、おもてになりましたのよ。」
「何で、断ったんだっけ?」
「…。」
「私、誰か好きな人、居たのかも…。」
「ミスコン、覚えてます?」
「優勝したわよね!」
「そうですわ!」
「頑張ったのよ、目覚まし時計誰にも渡したくなくて…。」
「綺麗でしたわね。」
「腕によりを掛けたもの!ヘヤメイクして、チャイナドレス着せて、奮い着きたくなる程いい女に仕立てたわ!」
「誰を?」
「誰をって、先輩…。」
「…操ちゃん。」
「先輩…先輩…。」
私は、急にガクガクと震え出した。
珠ちゃんが、小次郎先生を呼び、先生は直ぐに来てくれた。
「操、どうした?」
先生は、私を優しく抱き締めてくれる。
だが、私の震えは止まらない。
「珠ちゃん、私…。」
「何ですの?」
「とんでもない事、思い出して無いんじゃない!?」
「えっ…。」
「先輩って誰?」
「それは…。」
「寮の話の時も、大和先輩と一緒に居た先輩。私が襲われた時に助けてくれた先輩。夏休みに行く宛てのない私を、別荘に連れて行ってくれた先輩。文化祭のミスコンで優勝した先輩。」
私は、小次郎先生の腕を強く掴んで、珠ちゃんに叫んでいた。
「みんな…同じ人よね?何時も、私の側に居てくれた人でしょ?何で?どうして、そんな大切な人の事、私思い出せずにいるの?どうして!!」
「落ち着け、操…落ち着くんだ…頼むから…ミサオ…ミサオ…。」
「…。」
私の意識は、真っ白になって、途切れた。
「もう一息ですわね、小次郎様。」
「あぁ。でも、別に思い出さなくてもいいと思ってる…。」
「何故ですの?」
「辛い思い出が多過ぎるからな…だから、俺の記憶にブレーキが掛かるんだ。」
「でも、思い出さなければ、一緒にはなれませんでしょう?」
「それは…。」
「小次郎様、リハビリが終わる迄に思い出さないと、操ちゃんは退院してしまいますのよ!もう学生では無く、大人の女性として、出て行ってしまいますのよ!操ちゃんの性格は、ご存知でしょう?」
「…。」
「諦めませんわよ、私は!辛い事もあるかもしれませんけれど、操ちゃんと小次郎様に幸せになって頂きたいですもの!」
「楠田…。済まない。諦めない…俺も…。」
珠ちゃんが帰った翌日から、私は食欲も落ち、リハビリも休みがちになった。
午前中は、小次郎先生も忙しく、私1人で過ごす事が多い。
「…先輩…先輩…。」
呼んでみる。
懐かしく、甘く、切ない響き…。
まるで、小次郎先生に操と呼ばれた様な…。
私、その人に操と呼ばれていたのかしら?
きっとそうだ…。
「一体誰なの?」
その時、ノックの音がした。
「入っていいかい、操ちゃん?」
武蔵先生が、顔を出す。
「勿論です。先生。」
「調子は、どうかな?」
「私ね、思い出せない人が居るんです。とても大切な人。」
「そういう人が居たという事を、思い出しただけでも快挙だよ。」
「でも、怖いの。」
「どうして?」
「その人思い出しても、もう9年も経っているのでしょう?私は当時のままの感情や思いを抱いても、その人にとっては、とっくに過去の事だわ…。」
「操ちゃん…。」
「私の心がその人を思い出そうと、その人を求めてもがくの!でも、その人に拒否されるために?辛すぎるわ…。」
「きっと、待っていてくれる…。信じて思いだすんだ…。」
武蔵先生は、そっと私を抱いて下さった。
あ…。
「…先生、操って、呼んでみて…。」
「操?」
「もっと…。」
「操…操…。」
「…ありがとう。」
私は、身を離すと、先生に聞いた。
「先生、退院は、いつ頃になりそう?」
「まだ、当分先だよ。リハビリもまだ進んで無いし…。」
「…転院、出来ますか?」
「…操ちゃん…まさか、君…!思い出したのかい?」
「先生…こんな結末…酷過ぎるわ!」
「あいつは、ずっと待ってたんだ!」
「だったら、尚更酷過ぎる!目の前に、ずっと居たのよ!信じられない!!私、どれだけ先輩を傷付けて…嫌…嫌ぁ…もう、会えない…先生お願い!どこか遠くに…!」
「操ちゃん、落ち着くんだ!操ちゃん…。」