春(2)
今日も来ている…。
私は、此処で微睡んでいたいのに…。
とても甘く、優しく呼ばれる。
私は、あの人が好き…でも、あの人の所には行っちゃいけないの。
怖い事、悲しい事がたくさん、たくさん…。
もう、傷付くのは嫌、いや…。
でもあの人は、毎日やって来る。
以前は、私を追い回して、とても怖かった。
最近は、そんな事は無くなったけれど、それでも近くに行くと、捕まえようとする。
とても、とても悲しい目をするの…胸が痛い…。
今日は、あの人の近くまで行った。
あの人は座っていて、自分の隣に座らないかと誘っているみたいだった。
もう少し近付いてもいいかしら?
そう思っていると、いきなり手を掴もうとする。
すんでのところで逃げる…。
あの人は、悲しい顔をして、何故と問う。
涙が…どうして、こんなに悲しいの?
あの人は、不安な事は無いと言う。
私を愛してると言う。
私に、戻って来いと言う。
胸が痛い…辛い…あの人の想いが流れ込む…。
いや、いや…。
あの人が近寄って来る…涙が溢れ…私は逃げ出した。
あの人の側にいたいのに…。
あの人に触れて欲しいのに…。どうして…。
今日もあの人はやって来た。
でも、いつもみたいに呼んでくれない。
どうしたの?
そっと近付く。
あの人は、膝を抱えている。
具合が悪いの?
何かあったの?
そっと触れてみる。
あの人は、少し顔を上げて、何時もよりそっと私の手を掴み、顔の下に持っていく。
私の指先が濡れる…泣いてるの?
私はたまらなくなって、あの人の身体を包んだ。
あの人は顔を上げ、私の腰に手を回し、顔を押し付ける。
私は驚いて逃げようとするけれど、離して貰えない。
どうしよう…。
あの人の心が、震えているのがわかる。
淋しくて、淋しくて、どうしようもなくて…自分も此方の世界に来ると言う。
それは駄目…私は被りを振った。
あの人は、それじゃあ自分は、どうすればいいと問う。
お前の居ない世界は、もう耐えられないと言う。
私は、こんなにも愛されている。
私の胸に、暖かい光がさした。
でも、まだ怖い…。
自然に身体が震える。
あの人は立ち上がって、私を抱き締めて言った。
お前の事は、俺が支える。だから、俺の事はお前が支えてくれ。
そうやって、2人で共に歩いて行こう。
結婚しよう、ミサオ…。
愛してる…永遠に…ミサオ…。
私は、この人に名前を呼んで貰うのが好き…。
この人の、腕の中が好き…。
そして、甘い口付け…。
私は、彼の腕の中で溶けていった。
**************
俺は、満ち足りた気分で目覚めた。
俺の腕のなかには、操が静かな寝息を立てていた。
やっと、夢の中の操を捕まえる事が出来た。
寝入る時は、最悪な気分だったが、寝起きは何時ものやるせない気分ではなく、最高の気分だった。
思わず操を抱き締めてキスをする。
その時、
「…ん…。」
と反応があった。
まさかっ!!
俺は、操を抱き抱え、必死に名前を呼びながら、携帯で兄貴を呼び出した。
「君の名前は?」
「…ミサオ…。」
「名字は、わかるかな?
」
彼女は、被りを振る。
「年齢は?」
「16歳。」
「学生かな?」
「多分…。」
「学校名は?」
「わかりません。」
「他に、覚えている事は?」
「頭の中に、靄が掛かったみたいで…。」
「名前は、どうしてわかったのかな?」
「誰かに…ずっと呼ばれていたんです。ミサオ…って。」
「…そう。じゃあ、操ちゃんと呼んでいいかな?」
「はい。」
「僕は、操ちゃんの主治医の鷹栖武蔵です。」
「鷹栖…?」
「どうかした?」
「いえ…どこかで聞いた気がしたものですから…。」
「こっちは、同じく主治医の、鷹栖小次郎です。」
「…鷹栖…小次郎。」
「宜しく…。」
「…宜しく…お願いします。すみません、少し、疲れました。」
「そうだね。先ずは、体力を戻さないとね…。ゆっくり、お休み…。」
俺は、操をベッドに寝かした。
「お休み…。」
「…お休みなさい。」
「記憶の混濁があるみたいだな。」
「戻るのか?」
「戻るだろう。お前の名前にも反応した。」
「そうか!」
「但し、焦りは禁物だ。時間が係るかもしれん。」
「わかった。」
「しばらくは、触れ合う事は出来ないぞ。彼女に受け入れられるまで、じっくり待つんだ。」
「わかってる。目覚めてくれて、話が出来る…それだけで、一生待てる気がする…。」
「ならいいんだがな…。」
兄貴は、微妙ないい方をして、部屋を出て行った。