春(1)
俺の名前は、鷹栖小次郎。
去年の春から、親父の病院でドクターとして働いている。
担当は、外科。
自分自身は心療内科を希望したが、俺の性格が災いした。
外科を志した兄貴とは、全くの逆パターンである。
夜勤明けに緊急手術をこなして、体力気力共にヘロヘロになりながら、俺は6階の特別室に向かう。
本来は、親族が入院した時用の部屋だが、今は通称『Mルーム』と呼ばれている。
扉を開けると、明るく柔らかい色彩の壁紙。
病室とは思えない広い部屋の中には、応接セットにダイニングテーブル、バストイレ付き、患者用のベッドの他に、付き添い用のベッドまで完備している。
まるでホテルの一室だ。
今俺は、普段此処で生活している。
「小次郎先生、お疲れ様です。」
「あぁ。ご苦労様。」
看護師が2人、彼女を風呂に入れたのだろう。
長い髪を拭いていた。
「後はいい。俺がやるから。」
「でも、お疲れじゃ無いですか?」
「いや、俺のリフレッシュなんだ。それに、長くなったからな…コツがいるんだ。」
「じゃあ、お願いします。」
看護師は、2人で出て行った。
「ただいま、操。」
俺は、操の頬にキスをした。
彼女の髪は伸び続け、もう踝の辺りまである。
看護師達には手に余るだろうが、この髪を切る気は無い。
「乾かそうか…。」
タオルで充分乾かし、ドライヤーの風を当てる。
「お前は、こうやって乾かすのが好きだったな…。」
風を当てて、指で梳く。
光が通り抜け、キラキラと輝く。
あの時漆黒だった髪は、今は透き通る様な銀髪になっていた。
「助かるのか?」
「…小次郎、正直覚悟してくれ…。」
「!!」
「操ちゃんの手首の傷、躊躇い傷が無かったんだ。かなりの出血だった。」
「…。」
「それに加えて、酷い打撲で内出血が酷くてな…ワイン瓶で滅多打ちされたみたいで、肋骨も2本折れてるそうだ。」
「そんな…。」
「それにな…。」
「まだ、あるのか!」
「楓のやつ、ガラスで操ちゃんの事刺してるんだ。」
「!!」
「ワイン瓶のガラスが、刺したままにされていた。不幸中の幸いだったのが抜かれていなかった事だ。抜いていたら、今頃はもう…。」
「傷は?深さはどうなんだ?」
「かなり深い。肺には損傷は無いが、他の臓器は開けてみないと何とも…。」
「なんて事を…。」
「出血量が酷過ぎる。脳への影響も心配だ。ましてや操ちゃんの場合、精神的にも負担があるし…。」
「執刀は?」
「院長自ら執刀する。」
「親父が!?」
「それだけ、操ちゃんとお前の事を思っていると言う事だ。」
「…。」
「小次郎、そろそろいいんじゃないか?帰って来ないか?」
「…。」
「操ちゃんも、それを望んでいる。」
「…あぁ、そうだな…。」
手術は成功し、操の命は繋がれた。
だが、それから11年、未だに目覚めない。
髪も手術後1年で、全て銀髪になってしまった。
髪を乾かすと、俺は操の髪を片側にまとめ、桜色の組み紐で結んでやる。
銀髪に薄い桜色が上品に映る。
あの日、俺が操に渡す筈だったクリスマスプレゼントだ。
「よく似合う…あの日、俺達は同じ物を贈り合うつもりでいたんだな…。」
俺の髪には、今も淡い藤色と茄子紺の2本の組み紐が結わえてある。
手術が終わって、ICUからこの部屋に操が移され、俺は初めてこの組み紐を操の髪に結んだ。
それをじっと見ていた親父は、突然喜久子叔母夫婦と楓をこの病室に呼び出した。
「何て事するんだ、親父!!俺は金輪際、楓なんかと会わねぇぞ!!」
「そんな訳にも行かないだろう。いいから、この場は私に任せなさい。悪い様にはしないから。」
「…。」
しばらくしてやって来た3人を、親父はにこやかに迎え入れた。
3人は、ベッドに横たわる操に驚いたが、何も言わずにソファーに腰を下ろした。
「久し振りだね、篤郎君。其方は、どうだい?」
「ご無沙汰致しております、義兄さん。此方も何とか経営しています。」
「お兄様、私今週人間ドッグに入りたいの。この部屋、開けて頂ける?」
俺は、立ち上がって叫びたい衝動に駆られた。
「それは、無理だ喜久子。人間ドッグなら、自分の病院に入りなさい。」
「何ですって!?」
「そんな事を言えるのか?喜久子!お前の娘があの子に何をしたか、わかっているのか?」
「でも、それはあの子が…。」
「黙りなさい!!楓!!」
反論する楓を、親父は一喝する。
「楓、お前が小次郎の事を思う気持ちはわかる。だが、お前も、小次郎の気持ちに気付いている筈だ…。」
「…。」
楓は、涙を浮かべて俯いた。
「でもお兄様、合併の話は?小次郎と楓の結婚あっての事でしょう?」
「私は、合併そのものを見送っても良いと考えている。息子を犠牲にするなら、尚更だ。」
「どこの馬の骨ともわからない娘の為に、どうしてそこまでするの?両家の結婚は、お互いの利害も含めて、最高の縁談のはずよ!」
喜久子叔母は、譲らない。
親父は、溜め息を吐くと静かに言った。
「楓は、無抵抗の彼女に、瓶で殴りつけ打撲と骨折を、さらにガラスで彼女を刺して全治3ヶ月の傷を負わした。立派な暴行傷害事件だよ。」
「でも…。」
「警察に届けるつもりは無い。だが、鷹栖の嫁には出来ない!」
「くっ!」
「あんな子の為に…!」
「失礼な言葉は、控えてもらおう。」
「!?」
「小次郎はたった今、私の目の前で彼女と婚約したのだ。彼女は、正式な鷹栖の家の婚約者となる。」
「!!」
これには、俺も驚いた。
親父自ら、操を婚約者として公表したのだ。
「…義兄さん、宜しいのですか?ウチからの資金援助は、切っても構わないと?」
親父はニヤリと笑うと、
「構わないよ、篤郎君。只残念だが、その場合ウチからの派遣医師は、全員引き上げさせて頂く。医師会への便宜も、勿論出来なくなるが、構わないね?」
経営だけで、医師は鷹栖を頼り切っている篤郎叔父は、青くなった。
「…義兄さん…ウチとしては、娘との結婚話が無くなったとしても、此方と良い関係を続けて行きたいと考えています。今後共、ずっと…。」
「あなた!」
「黙りなさい、喜久子!!」
「正しい選択だと思うよ、篤郎君。」
そう言うと、親父は篤郎叔父と握手を交わす。
そして、
「喜久子、これ以上私を怒らせると、どうなるか分かっているな?彼女は、私が認めた、鷹栖の嫁だ。内外で彼女の誹謗中傷など私の耳に入った時には、鷹栖の全力を持って受けて立つから、そのつもりでいる事だ。」
喜久子叔母は、青くなって震えた。
「どうしても、鷹栖との絆が欲しいなら、稔を寄越しなさい。ただし、教育は、我が家で行う。」
「…わかりました。」
3人は、肩を落として帰って言った。
俺は、親父の迫力と采配に只々驚いていた。
「…これでいいかな、小次郎?」
「…親父…良かったのか?」
「何がだ?」
「合併の話…今迄進めて来たのに。」
親父は、優しい眼差しで俺見た。
「今迄お前が嫌がっていたのは、只漠然とだろう?だが、今回は、愛する相手がいての話だ。子供の幸せを、願わない親はいないんだよ、小次郎。」
「ありがとう、親父…。」
自分自身もシャワーを浴び、髪を乾かすと、操を自分のベッドに運び、腕枕をして添い寝する。
彼女の体勢を変える意味もあるのだが、俺にとっても至福の時だ。
「おやすみ、ミサオ…。」
唇を重ね、俺は深淵に落ちて行った。
何時もの夢…。
広大な花畑に、俺は座っている。
いつの間にか、近くに操が居る。
以前は、操を捕まえ様と、必死で追いかけた。
しかし、いつも悲しい笑みを浮かべ、するりと逃げてしまう。
最近は、此方が追わなければ、近くに留まる様になった。
「操、此処に来ないか?」
俺の隣をポンポンと叩いて、語りかける。
小首を傾げて聞いている操。
近付いて来た操に、たまらなくなり手を掴もうと伸ばした途端、ふわりと逃げて悲しい笑みを浮かべる。
「何故逃げる?」
被りを振る操。
「お前の不安に思う様な事は、もう何も無いんだ!」
操の頬に、涙が流れる。
「戻って来い、ミサオ…俺の所に…。愛してるんだ、ミサオ…。」
顔を覆って涙する操に手を伸ばし、抱き締め様とすると、彼女の身体は霧散する。
最近はいつも此処で目が覚める。
俺は、目の前にある操の身体を抱き締めて、その温もりを確認する。
「…戻って来い、ミサオ…愛してる…。」
「そうですの…やはり、逃げてしまわれるのですね…。」
楠田は、操の手をさすりながら、俺の話を聞いていた。
夢の話など、誰にも話す気は無かったが、ある日楠田に話すと、それは操からの何らかのメッセージなのではないかと言う。
「私ね、小次郎様。夢の中で操ちゃんを捕まえる事が出来たら、現実にも戻って来る様な気がしますのよ。」
「だと良いが…。」
「諦め無いで下さいね、小次郎様!」
「あぁ…。」
「小次郎様?」
「…俺も一緒に、あっちの世界に行けたらと、思う事がある…。」
「…小次郎様。」
「やはり、声が聞けないのは…辛いな…。」
「…。」
楠田は、涙を流した。
「…大和は、元気なのか?」
「相変わらずですわ。」
俺が寮を出て、大和と顔を合わせるのは図書室になった。
俺は、操の思い出のある図書室で、相変わらず寝ていた。
大和は、そんな俺を心配して顔を見に来た。
楠田は、そんな俺達に茶を入れ続けてくれた。
いつしか、大和と楠田が付き合い出し、未だに2人とは交流を持ち続けている。
「今、海外か?」
「よくわかりませんの。あちこち行き過ぎて…気が向いたら連絡があります。でも、必ず帰って来てくれますから。」
「…そうだな。」
「小次郎様の様に、常に側にいて下さると、女の子としては嬉しいんですけどね…。」
「そうなのか?」
「あら、そうですわ!」
「操は、どうだったのか…大和からよく、もっと自由にしてやれと言われてたんだ。あれじゃ息が詰まるとな…。」
「操ちゃんは、女の子にしては珍しいタイプだったかも…。でも、常に見守っていて下さるのは、嬉しそうでしたわ。」
「…幼過ぎたんだ、俺が…操の方が大人で、俺はいつもなだめられていた。」
「大人でしたわね…でも、可愛い所もあって…。」
「頑固で、頑なで…優し過ぎた…。」
「小次郎様…。」
「…悪い、楠田。少し、出て来る。」
俺は、たまらなくなって部屋を出た。
ドアの内側で、楠田の声が聞こえる。
「操ちゃん、小次郎様が泣いていらっしゃいます。早く、お戻りにならないと、小次郎様も倒れてしまいますわ…。」