第八話 黙っているだけでは、奪われる
朝、目を覚ましたとき、最初に胸へ浮かんだのは不安ではなかった。
悔しさだった。
昨日一日で、帳面は動かされ、小皿は一枚消え、侍女の口元には薄い笑みが浮かんだ。露骨な悪意ではない。だからこそ、余計にたちが悪い。
怒鳴られたほうがまだましだ。誰が叩いたかわかるから。
けれど大奥では、見えない手で少しずつ足元を崩される。自分の不手際に見えるように整えられた意地悪ほど、人の心を冷やすものはない。
わたしは布団を畳みながら、お峯どのの言葉を反芻していた。
――おまえは覚える娘だろう。なら、覚えたものを散らかすんじゃない。
見て、覚える。
ただし今日は、それだけでは足りない。
覚えたものを、自分が崩されぬ形にしなければならない。
隣で雪江が帯を結びながら、ちらりとこちらを見た。
「今日は静かね」
「考えごとを」
「どうやってやり返すか?」
「やり返す、というほどでは」
「言い方を選んでる時点で、まあ似たようなものでしょう」
雪江はいつものように身も蓋もない。
だが、その言葉にわたしは少しだけ口元を緩めた。
「お峯どのに言われました」
「何を」
「受け渡しのときは、相手の前で数を言えと」
「なるほど」
雪江はうなずく。
「いい手だわ。いやらしくなく、でも曖昧さは減る」
「ええ。だから、そうします」
「嫌な顔をされても?」
「されるでしょうね」
「でもやるのね」
「黙っているだけでは、奪われますから」
言ってから、自分でも少し驚いた。
けれど、その言葉は胸の奥から自然に出てきた。
雪江は一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「そう。やっと、少し顔つきが変わってきた」
「悪い意味でしょうか」
「逆。ようやく“やられっぱなしじゃ終わらない顔”になってきたってこと」
朝の割り振りで、わたしはまた控えの間まわりの花器と小物の補充を命じられた。
昨日までと同じようでいて、今日のわたしの中身は少し違う。
ただ失敗しないように気を張るだけではなく、どこで何をどう確認するか、先に手を打つつもりで廊下へ出た。
最初の仕事は、小皿と茶托の受け渡しだった。
控えの間のひとつで数が足りなくなったため、帳場から追加を運ぶ。
昨日、小皿が一枚消えたのと同じような役目だ。
帳場の棚の前で、わたしは呼吸を整えた。
器を数える。
声に出す。
相手の前でもう一度言う。
それだけのことだ。けれど、その“だけ”をきちんと形にするのが、ここでは案外むずかしい。
帳場の年長の女中が、わたしの動きを見ていた。
「何をもたついてるの」
「恐れ入ります。確認いたします」
わたしは頭を下げ、盆の上に小皿を載せながら言う。
「小皿、六枚。茶托、六枚」
「……ふうん」
女中は少しだけ眉を上げた。
「今日はずいぶん丁寧じゃない」
「不調法が続きましたので」
「そういうこと」
皮肉とも取れる返しだったが、かまわない。
わたしは盆を持ち直し、控えの間へ向かった。
途中、廊下の角で侍女が二人すれ違う。ひとりは見覚えがあった。綾姫さま付きの侍女だ。
昨日までなら、それだけで胸が固くなっただろう。
けれど今日は、固くなるより先に“どこにいるか”を見た。
右側。柱ひとつ向こう。
袖がこちらへ近づく。
歩幅は速くない。
なら、道を譲る位置は半歩後ろ。
わたしは先に端へ寄り、盆を少し高めに安定させた。
侍女は何事もなかったように通り過ぎていく。袖先がかすめるほどでもない。
そのまま控えの間へ入り、膝をついた。
「お持ちいたしました」
中にいた女中が顔を上げる。
「置いてちょうだい」
「恐れ入ります。小皿六枚、茶托六枚にございます。ご確認いただけますか」
女中は一瞬だけ意外そうな顔をした。
「……六枚?」
「はい」
「ずいぶんきっちりしてるのね」
「不調法を重ねましたので」
女中はふっと鼻で笑ったが、盆の上を確かめてくれた。
「たしかに六枚ね。よろしい」
それだけのやり取り。
けれど、胸の内で小さく息が抜けた。
これなら、少なくとも“受け渡しの前から足りなかった”とは言われにくい。
続く仕事でも、わたしは同じようにした。
布なら布の枚数。
香皿なら香皿の数。
帳面なら、受け取るときと戻すときの両方で、相手の前に置いて確認する。
当然、快く思わぬ顔もあった。
「細かいわねえ」
「誰に教わったの?」
「そんなに疑っているように見られたいの?」
侍女のひとりには、笑みを含んだ声でそう言われた。
けれど、わたしは頭を下げて答えた。
「疑うつもりはございません。ただ、わたくしが不調法者ゆえ、確かめぬとまたご迷惑をおかけします」
「……」
「ですので、どうかお許しくださいませ」
その言い方なら、相手を責めてはいない。
責めてはいないが、こちらも曖昧に呑み込まれるつもりはない。
その境目を崩さぬよう、言葉を選ぶ。
午前の半ば、例の帳場の控え帳面を戻す仕事があった。
今日も同じ棚。
今日も同じ順路。
そして、今日も綾姫さま付きの侍女が近くを通った。
だが、今度は違う。
「恐れ入ります」
わたしは帳面を胸の前で持ったまま、その侍女へ声をかけた。
「ただいま帳面を戻しますので、こちらへ置かせていただきます」
「……わたくしに?」
侍女は目を細める。
「はい。棚の位置を違えますと、またご迷惑をおかけしますので」
「そう」
侍女は笑った。
昨日までのわたしなら、その笑みに怯んだかもしれない。
けれど今日は、笑みの奥にあるものを見るより先に、やるべき形を取る。
わたしは帳面を棚の中央へ置き、相手にも見える位置で言った。
「こちらへ戻します」
「……ええ、見たわ」
「ありがとうございます」
たったこれだけである。
けれど侍女の目が、ほんのわずかに冷えたのがわかった。
昨日までのように、こっそりどこかへ移すには手間が増える。少なくとも、“最初からそこになかった”とは言いにくくなる。
昼の休憩に戻ると、雪江がすぐに察したように言った。
「うまくいった?」
「まだ何とも」
「その顔、少なくとも崩されはしなかった顔ね」
「……今のところは」
「嫌味は言われた?」
「少し」
「でしょうね」
雪江は汁をすすりながら笑った。
「でも、そういうのよ。大奥で下の娘が生き残るって。真正面から喧嘩するんじゃなくて、相手に“やりにくい”と思わせるの」
「やりにくい、ですか」
「ええ。あからさまに逆らえば潰される。黙っていれば食われる。その間を取るのが一番難しいのよ」
「……はい」
「今日は少し、そこへ足をかけたんじゃない?」
その言葉を、わたしは胸の内でそっと温めた。
足をかけた。
まだ登ったわけではない。
けれど、ただ落とされるばかりの足場ではなくなったのかもしれない。
午後、花器の見回りをしていたときだった。
廊下の先で、小さなざわめきが起こる。
綾姫さまが、侍女を連れてこちらへ来るところだった。
わたしは端へ寄り、膝を折って頭を下げる。
「志乃さん」
やはり、声がかかった。
「はい」
「今日はずいぶんと、念入りにお仕事をなさっているようね」
「不調法が続きましたので」
「そう」
綾姫さまはやわらかく笑う。
「確認、確認、と、ずいぶん丁寧だと聞きましたわ。皆の前で数までおっしゃって」
「ご迷惑を重ねましたので、せめて形に残るようにと」
「まあ、形に」
綾姫さまの侍女が口元を隠して笑う。
その笑いの意味はわかる。
“下の娘のくせに、ずいぶん知恵がついたものだ”という笑いだ。
「良いことですわ」
綾姫さまはあくまで穏やかに続ける。
「ただ、何事も度が過ぎれば、慎みではなく疑いに見えることもありますもの。お気をつけなさい」
「はい」
「それに、そうしてまで守らねばならないほど大事なものばかりを、お預かりできるお立場でもないでしょう?」
胸の奥へ、静かに針が刺さる。
たしかにその通りだ。
いまのわたしが扱うものは、上の間の大切な品ではなく、控えの間や雑務まわりの小物が主だ。
でも綾姫さまは、ただその事実を言っているのではない。
“下の者は、下の者らしくしていればいい”と、もう一度、やわらかく線を引いているのだ。
わたしは頭を下げたまま答えた。
「下の者でございますので、せめて下の務めだけは、きちんと果たしたく存じます」
綾姫さまの気配が一瞬止まる。
「……そう」
「不調法を重ねれば、まず困るのは持ち場にございます。ですので、そこだけは崩さぬようにと」
「まあ」
綾姫さまは笑った。
けれど、その笑みはこれまでと少し違って見えた。
余裕だけではない。
測るような目が混じっている。
「口が回るようになったのね」
「そのようなことは」
「いいえ。悪い意味ばかりではありませんわ」
綾姫さまは袖口を整えた。
「ただ、下の務めをきちんと果たしたいというなら――なおのこと、余計な欲を持たぬことね。花は、咲く場所を間違えれば踏まれますもの」
その言葉を残し、綾姫さまは去っていった。
侍女たちの裾が、さらさらと音を立てて後に続く。
わたしはしばらくその場で頭を下げたまま、胸の内の熱が収まるのを待った。
腹が立った。
悔しかった。
けれど同時に、少しだけ違う感情もあった。
綾姫さまは、昨日までのように一方的に笑ってはいない。
今日のわたしを、ただの無力な娘としてではなく、“少し知恵をつけた娘”として見ている。
それは危ういことでもある。
でも、悪いことばかりではない。
小さくても、自分の足場を作ったからこそ、相手の言葉の温度が変わったのだ。
夕刻、帳場のあたりで片づけをしていたとき、例の花器を任せてくれる女中がすれ違いざまに言った。
「今日は、うまくやったみたいね」
「見ていらしたのですか」
「全部じゃないけれど。確認の声が聞こえたから」
彼女は少し笑う。
「嫌味を言われても、あの返しなら角は立ちにくい」
「立たぬでしょうか」
「少なくとも、立てたのは向こうだと周りには見えるわ」
「……」
「それが大事なのよ。下の者は、自分が無礼に見えた時点で負けるんだから」
その言葉に、わたしは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいらないわ。あなたが少し面白くなってきただけ」
面白い。
そう言われるのは危険でもあるが、まるで置物ではないものとして見られた気もして、胸のどこかがほんの少しだけ軽くなった。
夜、部屋へ戻ると、お絹がそっと寄ってきた。
「きょ、今日は……少し、違いました」
「何が?」
「志乃さん、ちゃんと……言い返したわけじゃないのに、負けていない感じがしました」
「そう見えた?」
「はい……」
雪江も頷く。
「お絹の言う通りね。喧嘩じゃない。でも、ただ受けるだけでもない」
「難しかったです」
「でしょうね」
雪江は肩をすくめる。
「でも、それができるなら、この先も何とかなるかもしれない」
何とかなる。
その言葉は、慰めというより、まだ遠い灯りのように響いた。
布団へ入って目を閉じると、今日一日のやり取りが順に浮かんだ。
確認の声。
侍女の冷えた目。
綾姫さまのやわらかな棘。
そして、自分の口から出た言葉。
――下の者でございますので、せめて下の務めだけは、きちんと果たしたく存じます。
あれは、ただの言い逃れではなかった。
本心だ。
いまのわたしは、まだ下の者で、下の場所にいる。
だからこそ、その務めを曖昧にされるままではいられない。
黙っているだけでは、奪われる。
物も、評判も、居場所も。
けれど、露骨に争えば、それもまたすぐに奪われる。
だから、言葉の置き方を覚えるのだ。
形の作り方を覚えるのだ。
相手に恥をかかせず、けれど自分ばかりが泥を被らぬように。
それは痛快なざまぁでも、鮮やかな勝利でもない。
けれど、きっと大奥で生きる娘の戦いとは、まずこういう小さな一歩から始まるのだろう。
目を閉じたまま、わたしは胸の中で静かに呟いた。
もう、ただ笑われるだけの娘ではいたくない。
たとえ小さくても、自分の手で、自分の居場所の縁くらいは守れる娘になりたい。
その願いを抱いたまま、わたしはゆっくりと眠りへ落ちていった。




