第七話 見えない手は、いちばん冷たい
春日局さまの一言が落ちてからというもの、大奥の空気は目に見えぬところで少しずつ変わっていた。
劇的な変化ではない。
誰かがわたしに露骨に媚びるようになったわけでも、急に持ち場が上がったわけでもない。
けれど、人の視線の置き方が変わった。
これまでのように、ただ「新入りの下働きの娘」として流されるのではなく、何かのついでにもう一度目を留められる。
花器を運ぶとき。
控えの間の戸を開けるとき。
廊下の隅へ道を譲るとき。
そのたびに、ああ、見られている――とわかる。
それは少しも気楽なことではなかった。
朝、わたしはいつもより早く目を覚ました。
理由はひとつではない。持ち場の見回りが増えたこともあるし、昨夜から続く妙な胸騒ぎのせいもあった。
人の目が増えるということは、それだけ失敗の値も上がるということだ。
昨日まで見逃された半歩のずれが、今日は“あの娘もこの程度か”という失望になるかもしれない。
帯を締めながら、雪江が横目でこちらを見た。
「今日の顔は少し固いわね」
「そうでしょうか」
「春日局さまのことをまだ引きずってる顔」
「……そんなつもりは」
「そういう時ほど、つもりじゃなく出るのよ」
言い返せなかった。
雪江の言うことは、ときどき腹立たしいほど正しい。
「気をつけなさいよ」
雪江は低い声で続けた。
「目をかけられたように見える娘って、直接いじめられるより先に、周りの空気で削られるものだから」
「空気で」
「ええ。言葉にしない、手も出さない、でも少しずつ困るようにされる。あれが一番面倒」
「……」
「まだ何も起きてない顔をしてるけど、たぶんもう始まってるわ」
その言葉は、その日のうちに嫌というほど真実だと知ることになった。
朝の割り振りで、わたしは控えの間まわりの花器と水の見回りを命じられた。
それ自体は昨日お滝どのから告げられていた通りだ。
花の向き、水の傷み、葉の落ち方、それらを一つずつ見て回る。目立たぬ仕事だが、ここでは「見えぬところを整える」ことこそ大切なのだと、わたしは少しずつ覚え始めていた。
最初の二つの控えの間は問題なかった。
水の濁りもなく、花もまだ保っている。
だが三つ目の部屋の前で足を止めたとき、わたしは小さく眉をひそめた。
花器の中の水が、昨夜見たときより明らかに減っている。
おかしい。
傷みやすい部屋ではあるが、一晩でここまで減るものだろうか。
しかも、床の周りは濡れていない。倒れた形跡も、こぼれた跡もない。誰かが水を捨てたか、あるいは……。
わたしはその場で水を替え、花を整えた。
考えていても仕方がない。まずは部屋を荒れたままにしないことが先だ。
だが、胸の隅には細い棘が一本刺さったまま残った。
次の間へ行く途中で、昨日も顔を合わせたあの女中――花器をわたしに任せてくれた人が通りかかった。
「おはよう」
「おはようございます」
「どうしたの、そんな顔で」
「いえ……」
一瞬迷ったが、隠すほどのことでもない。
「少し妙なことが」
「妙なこと?」
「三つ目の控えの間の花器の水が、昨夜よりずいぶん減っておりました」
「減ってた?」
女中は眉を上げた。
「こぼれた跡は?」
「ございません」
「……ふうん」
その人は少しだけ考える顔になったが、すぐに肩をすくめた。
「まあ、いたずらかもしれないし、ただ誰かが触っただけかもしれないわね」
「はい」
「でも、覚えておきなさい。何事も、一度なら偶然、二度なら癖、三度なら人の手よ」
「……はい」
その言葉を胸に留めて、わたしはまた持ち場を回った。
問題がはっきりしたのは、そのあとだった。
昼前、帳場から道具の数を写した控えの帳面を取りに来いと言われ、わたしはいつもの棚へ向かった。
場所は決まっている。
昨日も確認した。
今朝も確かに見た。
だから疑いもしなかった。
だが、棚の上にあるはずの帳面がない。
喉の奥が急に乾いた。
胸の内で、いやな記憶がよみがえる。
数日前の、柱の隙間。
帳面が消えたときの冷たさ。
今度は落ち着け、と自分に言い聞かせる。
落ち着いて見れば見つかるかもしれない。
棚の奥。
隣の箱。
下の段。
だが、どこにもない。
「どうしたの」
背後から声がした。
振り向くと、雪江が布を抱えて立っていた。
「帳面が……」
「また?」
「ええ」
わたしは唇を噛む。
「ここにあったはずなのに」
「昨日の今日で、それは嫌ね」
雪江は周囲を見回し、すぐに声を落とした。
「騒がないほうがいいわ。まず探しましょう」
「ええ」
二人で棚の近くを確認する。
だが、見つからない。
むしろ、探せば探すほど、なくなっていることだけがはっきりしていく。
そのとき、向こうから侍女がひとりやってきて、わたしたちを怪訝そうに見た。
「何をしているの」
「帳場の控えが見当たらず……」
わたしが答えると、侍女は露骨に眉をひそめた。
「見当たらない?」
「はい。こちらへ置いてあったはずなのですが」
「“はず”ばかりね」
侍女の口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「最近、あなたはなくしものが多いのね」
その言葉が、周囲にいた女中たちの耳へすぐに届いたのがわかった。
なくしものが多い。
それは一度目の件まで含めて、もう“あの娘の癖”として扱われ始めているのだ。
「申し訳ございません。すぐに探します」
「探すのは当たり前よ」
侍女は袖を整えながら言う。
「でも、必要なときにないのでは困るの。花をいじるのも結構だけれど、その前に手元の物くらいきちんと扱いなさいな」
笑っているわけではない。
声も高くない。
なのに、その言い方は前よりずっと堪えた。
花をいじるのも結構だけれど。
その一言で、わたしが“花のことで少し名を聞かれた娘”であることまで、嫌味の材料にされている。
雪江が隣でぴくりと指を動かした。
言い返しそうになるのをこらえているのだとわかる。
わたしは小さく頭を下げた。
「以後、気をつけます」
「ええ、そうして」
侍女はそれだけ言って去っていった。
雪江が小声で吐き捨てる。
「感じが悪い」
「……」
「今の、完全にわざとよ」
「そうかもしれない」
「“かもしれない”じゃないわ。ああいうのが空気で削るってこと」
胸が痛んだ。
怒りではなく、悔しさで。
侍女の言葉は間違っていない。実際、物がなくなっているのは事実だ。たとえ誰かの手で動かされたのだとしても、それを証明できない以上、わたしの不手際として積み重なっていく。
結局、その帳面は別の棚の奥から見つかった。
本来そこへ戻されるはずのない場所だった。
落ちたのではない。
誰かが移したのだ。
はっきりした証はない。
だが、もう偶然では済ませられない。
午後には、別の形で“見えない手”が動いた。
控えの間へ替えの小皿を運ぶよう命じられ、わたしは数を数えて盆に載せた。
いつもなら、受け渡しのときに女中が一緒に確認する。
だが今日は、行った先で「数が足りない」と言われた。
「六枚のはずでしょう」
「はい。確かに六枚載せました」
「でも、いま五枚しかないわ」
女中は冷たい目で盆を見る。
わたしも見た。
たしかに五枚しかない。
落としたのか。
でも、途中で割れた音もしなかった。
布で包んでいたのだから、鳴らぬこともあるかもしれない。
けれど、自分の中ではどうにも腑に落ちない。
「申し訳ございません」
とにかく頭を下げるしかない。
「すぐに持ってまいります」
「お願い。こちらも待っていられないの」
わたしは戻りながら、自分の歩いた道を目で追った。
廊下の角。
柱の影。
だが、小皿の欠片も見当たらない。
控えの手前で、例の花器を任せてくれた女中と行き合った。
「どうしたの」
「小皿が一枚足りなくて」
「また?」
女中は眉をひそめた。
「今日はついてないわね」
「……はい」
「本当に、ついてないだけならいいけど」
その言葉に、わたしは思わず顔を上げた。
女中は小さくため息をつく。
「志乃。誰かを疑えと言ってるんじゃないの。ただ、同じことが続くなら、自分の手元だけ見ていても足りないってこと」
「はい」
「盆を持つとき、横を通る人の位置、袖が触れた瞬間、誰が近くにいたか、そういうのまで覚えなさい」
「……覚えます」
「覚えるだけじゃなく、形にしなきゃ駄目よ」
形にする。
その言葉は胸に残った。
見て、覚えるだけでは足りない。
誰がどこにいたか。何がいつずれたか。
それを、自分の中で曖昧にせず積み上げていく。
そうしなければ、この大奥では、ただ“うっかりした娘”という評判だけが先に形になる。
夕方近く、わたしはついにお峯どのへ呼び止められた。
「志乃」
「はい」
「こっちへ」
人気の少ない廊下の脇へ導かれる。
お峯どのは相変わらず感情をあまり顔へ出さないが、今日はいつもより目が鋭かった。
「朝の帳面、昼の小皿」
「……はい」
「二つ続いたね」
「申し訳ございません」
「謝るのは早い」
お峯どのはぴしゃりと言った。
「本当におまえの手が悪かったのか、それとも別か。それも見きらないうちに謝っていてどうする」
胸の奥が熱くなる。
この数日、何度も頭を下げてきた。
それしかできぬ場面も多かった。
けれど、お峯どのは今、“謝る前に見るものがある”と言っている。
「……見ております」
わたしは小さく答えた。
「ですが、まだ証が」
「証を最初から握れる者ばかりなら、苦労はないよ」
お峯どのはわたしの顔を見た。
「おまえは覚える娘だろう」
「はい」
「なら、覚えたものを散らかすんじゃない。誰がいた。どこで触れた。何がどうおかしかった。順に並べな。自分の中で曖昧にするから、人にも曖昧に扱われる」
その言葉は、叱責というより、骨組みを渡されるような感覚だった。
「はい」
「それから、今夜から帳面と小物の受け渡しは、必ず相手の目の前で数を言いな」
「言ってもよろしいのでしょうか」
「言い方を選べばいい。“恐れ入ります、確認いたします”で済むことだ。気の利く娘と思われるか、鼻につく娘と思われるかは、口の置き方次第」
「……はい」
「学びな」
お峯どのはそれだけ言い、去ろうとして、ふと立ち止まった。
「見えない手はね、いちばん冷たいよ」
「……はい」
「だが、冷たいからこそ痕が残りにくい。だから自分で見つけるしかない」
その背が遠ざかるのを見送りながら、わたしは深く息を吸った。
見えない手。
たしかにそうだ。露骨に叩かれるより、こちらの不手際に見えるよう少しずつ削られるほうが、よほど始末が悪い。
夜、部屋へ戻ると、雪江がすぐに言った。
「今日は散々だったわね」
「ええ」
「泣きたい?」
「少しだけ」
「よかった。ちゃんと人間だわ」
雪江はそう言ってから、真顔になった。
「でも、ここで泣くとたぶんもっと悔しくなるわよ」
「わかっています」
「なら、次は?」
「……数を言います。受け渡しのときに、相手の前で」
「誰に言われたの」
「お峯どのに」
「なるほど」
雪江は納得したように頷いた。
「あの人、見てるものね」
「はい」
「味方なのかしら」
「わかりません」
「わからないくらいがちょうどいいかもね、この大奥では」
お絹は不安そうにこちらを見ていた。
「だ、だいじょうぶでしょうか」
「だいじょうぶにします」
そう答えると、自分でも少し驚いた。
以前なら“だいじょうぶです”とは言えなかったかもしれない。
でも今は、だいじょうぶかどうかは自分で寄せていくしかないのだと、少しわかる。
布団へ入って目を閉じても、朝の帳面、昼の小皿、侍女の嫌味、お峯どのの言葉が次々に思い返された。
誰が近くにいた。
袖が触れた。
棚の奥へ移された帳面。
消えた一枚の小皿。
点のままだ。
まだ線にはならない。
けれど、点を点のまま散らしておけば、いつまでたっても“偶然の不運”として呑み込まれてしまう。
わたしは胸の中で、今日一日の出来事を順に並べた。
朝、帳面の棚の近くにいた女中。
その前を横切った侍女。
昼、小皿を渡す前に盆へ近づいた袖。
それぞれの顔、声、香り、足音。
忘れない。
忘れてなるものか。
見えない手は、いちばん冷たい。
けれど、冷たいものほど、触れたあとの空白でわかることもある。
ならばわたしは、その空白を見逃さない娘でいたい。
ただ笑われ、ただ困らされるだけの娘で終わりたくない。
そう胸の奥で静かに誓いながら、わたしは両手を布団の中でそっと握りしめた。
見て、覚える。
そして次は、崩されぬよう先に形を作る。
その小さな決意だけが、今夜のわたしを少しだけ温めていた。




