第六話 ひと枝の花が、運命を変える
朝の空気は、昨日よりも少しだけやわらかかった。
庭先の木々に触れる風の冷たさはまだ残っているのに、障子越しの光には春の気配がにじんでいる。江戸城の大奥に上がってから、日はまだそう経っていない。けれど、ここでは一日ごとに季節より先に人の顔色が変わる。誰がどこで目をかけられたか、誰がどこでしくじったか、それだけで空気の流れはすぐに違うものになる。
わたしは帯を結びながら、昨日のことを思い返していた。
控えの間へ持っていかれた小さな花器。
それが悪くなかったと伝えに来た女中の顔。
そして綾姫さまの、「控えの間にふさわしい花もあるでしょう」というやわらかな釘。
あれを思い出すと、胸の奥に熱いものがちり、と灯る。
悔しさかもしれない。
意地かもしれない。
けれど、それをそのまま顔へ出せば終わりだ。この場所では、そうした熱は内にしまい、手元だけを整えるほうがよほど大事だと、少しずつ学びつつあった。
雪江は早々に髪を結い終え、こちらを見もせずに言った。
「今日は少し落ち着いているのね」
「そう見えますか」
「少なくとも、花のことで浮かれている顔には見えない」
「浮かれてはおりません」
「そういう返しをする時点で少し浮いてるのよ」
わたしは思わず小さく笑いそうになったが、こらえた。
お絹はまだ控えめな顔をしていたが、最初のころより幾分か表情が動くようになっている。
「き、昨日のお花……」
お絹が遠慮がちに口を開く。
「きれいだったのでしょうね」
「わたしは見ていないの」
「でも、よかったって」
「ええ。控えの間には、だそうです」
その言い方に、雪江が肩をすくめた。
「今はそれで十分よ。最初から上を狙っているように見えたら、余計に面倒だもの」
その通りだった。
わたしはまだ、ほんの少し雑用の中で目を留められただけの娘だ。それを自分でもわきまえておかねばならない。
朝の割り振りで、わたしはまた花まわりの雑用を命じられた。
今度は雑用部屋そのものではなく、使い終えた花器の回収と、傷みの出た飾りの選り分け、そして足りなくなった枝の補充の手伝いである。
「昨日のを見ていた者がいたらしい」
お滝どのが帳面を見ながら言った。
「だからといって調子に乗るんじゃないよ。見られたからには、次はしくじれば二倍目立つ」
「承知しております」
「わかってるならよろしい。余計な真似はするな。だが、訊かれたことにはきちんと答えな」
その“訊かれたことには”という言い方に、胸が少しだけ騒いだ。
誰かが、わたしに何かを訊くかもしれない。
そういう意味にも聞こえたからだ。
実際、朝のうちから普段とは少し違う気配があった。
控えの間へ花器を運んでいた女中たちのうち一人が、わたしを見るなり言った。
「あの子が昨日の」
「そうらしいわよ」
「ふうん」
ただそれだけの囁きだ。
けれど、囁きは軽くても、そこに乗っているものは軽くない。この大奥では、噂は風より早く、しかも形を変えて広がる。小さな評判は、次の小さな試しを呼ぶ。
午前の仕事の最中、昨日花器を持っていったあの女中が、また雑用部屋の前へ顔を出した。
相変わらず、少し気の強そうな目元をした人だ。
「志乃」
「はい」
「これ、見てごらんなさい」
差し出されたのは、淡い紫の小花をつけた細い枝だった。
季節外れというほどではないが、使いどころを少し選びそうな風情がある。
わたしは両手で受け取り、枝先をそっと見た。
「水が足りなかったようですね」
「わかる?」
「葉が少し巻いております」
「じゃあ、これはもう駄目?」
「いえ、切り戻せば少しは」
「そう」
女中は目を細めた。
「なら、次の間の小さな棚へ、あなたならどう使う?」
訊かれた。
本当に。
心臓がどく、と鳴る。
けれど、ここで慌ててはいけない。相手はたぶん、素人娘の気まぐれな返しではなく、きちんと“見て答えるか”を見ている。
わたしは枝を見てから、女中の持つ空の花器を見た。
背は低い。棚置きなら目線より少し下に来るだろう。
ならば、上へ伸びすぎる枝より、少し横へ流れるもののほうがよい。
色も、紫だけでは冷える。青葉か白を少し添えたい。
「このままでは寂しいので……」
なるべく静かに言葉を選ぶ。
「白か薄い青みの葉を一筋添えたほうが、棚の影でも沈まずに見えるかと。あまり華やかにすると、部屋の品と喧嘩します」
「部屋の品、ねえ」
女中は面白がるように笑った。
「言うじゃない」
「生意気でしたら、申し訳ございません」
「いいえ。少なくとも、何も考えずに“きれいです”だけ言うよりはまし」
そう言って彼女は花器をわたしの前へ置いた。
「やってみなさい」
今度は、昨日より少しはっきりと役目を渡された。
わたしは小さく頭を下げ、用意されていた枝葉の中から合うものを探した。
白い小花は強すぎる。
濃い緑も重い。
ならば、先のやわらかな葉を持つ細枝を一筋。
紫の枝は短くし、傾きすぎぬよう支えを見えぬ位置に置く。
手を動かしていると、不思議と周りの音が遠のいた。
雑用部屋のざわつきも、廊下を行き交う衣擦れも、すべて薄い膜の向こうへ行ってしまう。
昔からそうだった。花を触っているときだけは、胸の内の焦りが少し静かになる。
母はよく、「花を挿すときは、自分の気分を押しつけるのではなく、その場所が何を求めているか考えなさい」と言った。豪華に見せたいから花を盛ればよいのではない。そこに置かれて、人の目にどう映り、どう呼吸を整えるか――それを考えろと。
わたしは最後に枝の向きをほんの少し直し、手を離した。
「……これで、いかがでしょう」
女中は花器を持ち上げ、少し離れて眺めた。
「昨日より、ずっといいわ」
「ありがとうございます」
「褒めすぎると図に乗りそうだから嫌だけれど」
「そのようなことは」
「あるかどうかはこれから次第ね」
彼女は笑い、花器を抱えて去っていった。
そのあとも、もう二度ほど別の女中から花のことで声をかけられた。
どれも小さなことだ。
この枝はまだ使えるか。
この花器には何色が合うか。
香りの強い花は避けたほうがよいか。
だが、それは確かに“昨日までのわたし”にはなかったことだった。
見下されるだけの新入りではなく、少なくとも“花のことを少し知っている娘”として、ほんのわずかに認識され始めている。
そのことが嬉しくないと言えば嘘になる。
だが同時に、胸のどこかで警鐘も鳴っていた。目立つのは危うい。綾姫さまのように、こちらの動きを不快に思う人の視線も強くなるはずだ。
昼前、控えの間の前を通ったときだった。
障子が少しだけ開いており、そこへ先ほどの花器が置かれているのが見えた。
遠目にも、朝の淡い光の中で紫の枝がよく映えている。棚の木の色とも馴染み、派手ではないが、確かに“何か気が通った”ように部屋の空気を整えていた。
その花器の前で、二人の女中が立ち話をしていた。
「これ、今朝の?」
「そう。あの雑用部屋の娘が」
「へえ……」
「意外に悪くないでしょう」
「控えの間には十分ね。むしろ、こういうほうが落ち着くわ」
わたしは足を止めかけたが、すぐに通り過ぎた。
盗み聞きするつもりはない。
けれど耳には入ってしまう。
そしてその言葉は、嬉しい半面、どこか落ち着かぬものでもあった。
控えの間には十分。
その言い回しは、褒め言葉でありながら、同時にわたしの置かれている位置をはっきり示している。
ここまで。
今はここまで。
それ以上ではない。
だが、それでよかった。
少なくとも今は、無理に上を見上げる時ではない。
そう自分に言い聞かせた、その直後だった。
廊下の空気が、ふっと変わる。
誰かが大声を出したわけではない。
けれど、近くにいた女中たちの背筋が同時に伸びた。言葉の終わりが自然に切られ、足音までひとつ抑えられる。
心臓が跳ねる。
この空気の変わり方を、わたしはもう知っている。
春日局さまに関わるときの空気だ。
わたしは反射のように端へ寄り、頭を垂れた。
衣擦れが近づいてくる。
重くはないのに、すべてを従わせるような気配。
障子の向こうにいた女中たちも、慌てず騒がず、しかし一分の狂いもなく姿勢を整えている。
その流れの中で、ふと、先ほどの花器の前で足音が止まった。
どくり、と胸が鳴る。
頭を上げてはいけない。
見てはいけない。
けれど、人の気配だけでわかる。
誰か――おそらく春日局さまが、その花器の前で止まったのだ。
「これは」
低く、静かな声がした。
その一言だけで、障子の向こうの空気がさらに張りつめる。
女中の一人が即座に答えた。
「今朝、替えました花にございます」
「誰が」
また、一拍。
「……雑用部屋に回っております娘が、少し手を入れました」
「名は」
「志乃にございます」
耳の奥が熱くなる。
わたしの名が、春日局さまの前で呼ばれた。
どうしようもなく手のひらが湿った。
褒められるのか、咎められるのか、まるで見当がつかない。ただ、ここで“誰が”と問われた時点で、もう昨日までのように完全な影の中にはいられないのだということだけはわかった。
障子の向こうで、ほんのわずかに間があった。
長いようで、短い沈黙。
「見ているものが違うのだな」
春日局さまの声は、それだけだった。
感情を大きく乗せた言い方ではない。
けれど、はっきりと届いた。
見ているものが違う。
胸の内で、その言葉が何度も響く。
褒めているのか、試しているのか。
わからない。
けれど少なくとも、“ただの偶然”として流されたのではなかった。
足音が再び動き出し、列はそのまま去っていった。
女中たちがようやく息をつく気配が伝わってくる。
わたしも頭を下げたまま、浅く息を吐いた。膝の力が少し抜けそうになる。
それからすぐ、先ほどの花器を持っていった女中が控えの間から出てきて、こちらを見た。驚きと、少しの興奮が隠しきれていない顔だった。
「志乃」
「はい」
「あなた、春日局さまのお耳に入ったわよ」
「……」
「返事がないの」
「どうお答えすればよいのか、わかりません」
「それもそうね」
女中は笑ったが、すぐに声を落とした。
「浮かれないこと。けれど、今のは悪い話ではないわ」
「はい」
「“見ているものが違う”ですって。あのお方がそうおっしゃるのは、めずらしいわ」
「……そうなのですか」
「ええ。だから、余計にこれから気をつけなさい」
その“これから”が何を意味するのか、わたしははっきり理解していた。
目に留まるということは、守られることではない。
むしろ、もっと見られるということだ。
褒められたように見える出来事は、別の誰かにとっては面白くない種にもなる。
そして、その“別の誰か”が誰であるかも、おおよそ察しがついた。
午後、案の定、綾姫さまと廊下で行き合った。
今日の綾姫さまは、昨日よりいっそう静かな笑みを湛えていた。
「志乃さん」
「はい」
「今日はよくお名前が聞こえてきましたわ」
「恐れ入ります」
「恐れ入ることかしら」
綾姫さまはかすかに首を傾げる。
「春日局さまのお耳に入るなんて、下の娘にはめったにない栄えでしょうに」
「たまたま花のことで」
「ええ、花のことで」
その繰り返し方が、妙に薄かった。
まるで“そんなことで”と言外に添えているようだ。
「あなた、よほど花がお好きなのね」
「幼いころより、少し」
「そう」
綾姫さまは細い指で袖口を整えた。
「ただ、花は置く場所を違えると、かえって場を乱しますの。どれほど姿がよくても、どれほど香りがよくても」
「……はい」
「まして、人の目を惹くことばかり覚えた花なら、なおさら」
侍女たちが、ごく小さく笑った。
胸の奥がちくりと痛む。
それでも、ここで熱を返すわけにはいかない。
「心得ております」
そう答えると、綾姫さまは一瞬だけこちらの顔を見た。
その目の奥に、昨日までよりわずかに強いものが宿っている気がした。
苛立ち。
あるいは、警戒。
「なら、よろしいの」
綾姫さまはまた笑みを作る。
「花は、咲いているうちがいちばん美しいものね」
そのまま去っていく背を見送りながら、わたしは静かに息を整えた。
家光公のお声がかかったわけではない。
春日局さまに呼び出されたわけでもない。
ただ、控えの間の花を見て、一言が落ちただけ。
たったそれだけだ。
それでも、たったそれだけで、大奥の女たちの見る目は変わる。
夕方、持ち場へ戻ると、お滝どのが帳面を閉じながら言った。
「志乃」
「はい」
「今朝のこと、聞いてるだろう」
「はい」
「浮かれるな」
「承知しております」
「だが、怖がりすぎる必要もない。あのお方のお耳に入ったからといって、すぐに何かが変わるわけじゃない。ただ――」
お滝どのはそこで目を上げた。
「見られる。今までよりもっとね」
「はい」
「なら、下手な失敗はなおさら許されない。今夜から仕事を一つ増やす」
「はい」
「花器の見回りだ。上の間ではない。控えの間と、その手前まで。水の傷みと枝の乱れくらいは見られるようになりな」
思わず顔を上げかけ、慌てて抑える。
仕事が増える。
それは楽になるということではない。
けれど、ただの罰や嫌がらせではない役目を与えられたということでもある。
「……承知いたしました」
「返事はそれでいい。できるかどうかは、明日から見ればわかる」
厳しい口調のままだった。
だが、お滝どのなりに“使い道”を考えているのだと、なんとなく感じた。
夜、部屋へ戻ると、雪江がすぐに言った。
「あなた、今日は本当に大変なことになったわね」
「大変なのでしょうか」
「そういうところよ」
雪江は呆れたようにため息をつく。
「春日局さまの耳に入ったのよ? ただの花でも」
「ただの花、です」
「その“ただ”が、大奥ではただじゃないの」
「……そうかもしれません」
お絹は目を丸くしていた。
「す、すごいです……」
「すごくはありません」
「でも、春日局さまが」
「言葉をくださっただけです」
「それがすごいのよ」
雪江がぴしゃりと言った。
そして少しだけ声を落とす。
「いい? こういうときは、上手に小さくしておくの。喜びすぎても駄目、怯えすぎても駄目。何も変わっていません、みたいな顔をしてるのが一番」
「難しいですね」
「難しいから、みんな失敗するのよ」
わたしはうなずいた。
たぶんその通りなのだろう。
布団へ入って目を閉じても、春日局さまのあの一言が耳から離れなかった。
見ているものが違うのだな。
花の向き。
水の傷み。
置かれる部屋の気配。
それを見ていたつもりだった。
でも、春日局さまは、その“見方”そのものを見たのだろうか。
だとしたら、怖い。
人に何かを見られるより、自分の見方を見抜かれるほうがよほど怖い。
それは、ただの下働きの娘として埋もれてはいられなくなることを意味するからだ。
けれど、胸の奥には別の気持ちもあった。
嬉しい、というより、灯がついたような感覚。
まだほんの豆粒ほどの小さな灯だ。
吹けば消える。
誰かに踏まれれば消える。
それでも、暗い場所に置かれたままではないのかもしれないと思えるだけの灯。
ひと枝の花が、運命を変える。
そんな大げさなことを、これまでのわたしは信じなかっただろう。
けれど大奥では、ほんの小さなきっかけが人の目を変え、その目がまた別の運を呼ぶのかもしれない。
それが吉と出るか凶と出るかは、まだわからない。
ただ一つだけ確かなのは、今日からわたしは、昨日までとまったく同じ娘ではいられないということだった。
そしてその変化を、もっとも面白く思っていない女がいることも、よくわかっていた。
綾姫さまの笑みの奥にあった、ほんの少しの硬さを思い出す。
灯を守るには、風向きを知らなければならない。
この大奥では、花の美しさよりもまず、それがどこに吹かれるかを見極める目が要るのだろう。
わたしは布団の中でそっと手を握った。
浮かれるな。
怖がりすぎるな。
見て、覚える。
その三つを胸の中で繰り返しながら、ゆっくりと息を吐いた。
明日からは、きっとまた違う目で見られる。
ならば、その目から逸れずに立てるよう、自分の足元をもっと確かにしなければならない。
小さな灯を消さぬように、そしてその灯に焼かれぬように。
そんなことを考えながら、わたしは浅い眠りへ沈んでいった。




