第五話 雑用部屋の娘は、花の名をよく知っている
朝の光は、春をまだ名乗りきれぬ薄さをしていた。
障子越しに差しこむ白い明るさを見つめながら、わたしは静かに帯を締めた。
昨日までより、指先の迷いは少しだけ減っている。けれど、それは決して余裕が生まれたからではない。何度も叱られ、何度も恥をかいて、ようやく身体が「ここではこう動け」と覚え始めただけだ。
同室の雪江は、髪を結いながら鏡代わりの小さな金具を覗きこんでいた。
「今日は顔色がましね」
「そうでしょうか」
「少なくとも、初日に門の前で置いていかれそうだった娘には見えない」
「それはよかったです」
「よくはないわ。初日があまりにひどかっただけ」
言い方は辛いが、雪江なりの励ましなのだと、最近は少しわかるようになってきた。
お絹はまだ眠気と緊張が抜けきらぬ顔で、黙々と襟元を整えている。頬の青白さは残っているが、最初の日のように手が震えてはいない。
わたしたちは並んで部屋を出た。
廊下の空気は、相変わらず静かで、相変わらず厳しい。けれど、この数日のうちにわかったこともある。朝のうちは水や道具の動きが多く、日の高くなる前に“整えるべきもの”を整えきるのが下働きの肝だということ。上の者たちが美しく見えるためには、その前に見えぬところで無数の手が動いていなければならない。
控えの間に集められると、お滝どのが帳面を見ながら今日の割り振りを告げた。
「雪江は南廊下の拭き上げ。お絹は手水鉢の水替えの手伝い。志乃――」
一拍置いて、こちらへ目が向く。
「おまえは雑用部屋の片づけに回りな。使い終えた花器と飾り枝の整理もついでにやっておいで」
「はい」
花器。
その言葉に、胸の奥がわずかに動いた。
わたしは昔から花や草木に目が向きやすい。父が生きていたころ、屋敷の小さな庭に植わった南天や椿、季節ごとに咲く草花を見るのが好きだった。母の代わりに玄関へ挿す花を選ぶこともあったし、しおれかけた枝を落として水を替えるのも、苦ではなかった。
ここでは、その程度のことは役に立たぬかもしれない。
そう思っていた。
だが、役に立つかどうかはわからなくても、少なくとも嫌いな仕事ではなかった。
雑用部屋は表から少し外れた場所にあった。
下働きの女たちが使う道具や、拭き布、替えの花器、季節の飾り、こまごまとした雑用品がまとめて置かれている。ぱっと見は整っているようでも、毎日入れ替わる物が多いため、放っておけばすぐに散らかるのだろう。戸を開けたとたん、木と布と、少し湿った土の匂いが混じった空気が鼻先に触れた。
「朝のうちに終わらせな」
年長の女中がぶっきらぼうに言い置いて去っていく。
「使える物と、捨てる物を分けるんだよ。勝手に余計なことはしないように」
はい、と頭を下げてから、わたしは部屋の中を見渡した。
棚には替えの花器が大きさごとに並んでいる。
隅には昨日まで使われていたらしい枝や花がまとめられ、まだ生きているものと、もう終わったものが混ざっていた。
水を抜いた鉢の底には、傷んだ葉が貼りついている。
床には細い枝屑。
花を扱う部屋というより、花の“あと”が集まる場所だ。
わたしは袖を少し押さえ、まずは水を抜いた花器を一つずつ見ていった。
どれがまだ使えるか。どの花がどれだけ傷んでいるか。
大奥に飾られる花は、ただ美しければよいわけではない。持ちのよいもの、部屋の格に合うもの、香りが強すぎぬもの、季節に外れぬもの――さまざまな“向き不向き”があるはずだ。下の娘にすべてがわかるわけではないが、見ていれば何となくでも読み取れる。
使い終えた枝の中に、まだ生きている椿のつぼみがいくつか混じっていた。
棄てるには惜しい。だが、勝手に上の間へ挿し直すような真似をしてよい立場ではない。
わたしは少し迷ってから、棄てる束と別に小さくまとめて脇へ置いた。
それから花器の縁を布で拭き、水垢の跡を落としてゆく。
口の広いもの、背の高いもの、浅いもの。ひとつひとつに使われ方の癖がある。長く使われている花器は、置かれる部屋の空気まで映しているようでおもしろい。華やかな飾りのあるものは上の部屋へ、素朴な土色のものは人目につきにくい場所へ回されることが多いらしい。
そうして手を動かしていると、ふいに戸口で衣擦れがした。
「そこ、誰が入ってるの」
聞き覚えのある、甘く整えられた声。
わたしは顔を上げ、すぐに頭を下げた。
「志乃にございます」
「あら、やっぱり」
綾姫さまだった。
今日は薄紅を重ねた小袖に、霞を思わせる淡い色の帯。侍女を二人連れ、雑用部屋の戸口に立つだけで、その場所に不似合いなほど華やかだった。
「ここはあなたのような方が来るところだったかしら」
「申しつけにより、片づけを」
「そう」
綾姫さまは部屋の中へは入らず、戸口から視線だけを滑らせた。
棚、花器、床に分けた枝、そして脇へ置いた小さな束。
「まあ。まだ使えそうなものを分けていらしたの?」
「はい。傷みの浅い枝が少し混じっておりましたので」
「そんなことまでわかるのね」
「家で少し……庭の手入れをしておりました」
「まあ、そう」
その「まあ」は、感心とも、皮肉ともつかぬ響きだった。
侍女の一人が、わざとらしく口元を隠して言う。
「お上手ですこと。下働きの娘でも、そういう細やかなことができるのですね」
「下働きだからこそ、かもしれませんわ」
綾姫さまはやわらかく微笑んだ。
「上の部屋では、花が咲いているのは当然ですもの。枯れかけた花にまで目を向けるのは、余裕のある方か、よほど暇な方だけでしょう」
侍女たちが、くすくすと笑う。
言われていることは、表向きにはそこまで刺々しくない。
けれど、“あなたは下の者だから、そういうことに向いているのでしょう”という意味が、薄い薄い刃のように含まれている。
「お見苦しいところをお見せしております」
わたしは頭を下げたまま言った。
「早々に片づけます」
「ええ、そうなさい。散らかったところは、見ていて気が滅入りますもの」
綾姫さまはそれだけ言うと、侍女を連れて去っていった。
甘い香だけがしばらく残る。
わたしはようやく息を吐いた。
雑用部屋にまで来るとは思わなかった。わざわざ見に来たのか、それとも本当に通りすがりだったのか。たぶん、そのどちらでもあるのだろう。大奥では“たまたま目についた”ように見せながら、実際にはきちんと見られていることがある。
手を止めてはいられない。
わたしは改めて布を取り、花器の底を拭いた。
ただ、心のどこかがさっきより少しだけ熱くなっていた。雑用部屋。下働き。枯れかけた花。
たしかに今のわたしは、そういう場所にいる。
けれど、そういう場所だからこそ見えることもあるはずだ。
しばらくすると、別の女中が部屋へ入ってきた。
年は三十前後だろうか。手に花の飾り盆を抱えている。
「次の間へ替えを持っていきたいんだけど、あら……」
その目が、脇にまとめた傷みの浅い枝へ止まる。
「これ、分けたの」
「はい。まだ使えそうなものが少しだけございましたので」
「あなたが?」
「はい」
女中は近づき、枝を一本持ち上げた。
白い小花のついた細枝だ。先端の傷みはあるが、短く落とせばまだ見られる。
「ふうん……」
彼女は面白がるようにわたしを見た。
「これなら、下の控えの間くらいには使えるかもね」
「もしお邪魔でなければ、短く整えましょうか」
「できるの?」
「家で少しだけ」
「みんなそう言うのよね」
女中はくすっと笑った。
「まあいいわ。失敗しても、どうせ控えの間だもの。やってみなさい」
その言葉に、胸の奥が少しだけ高鳴った。
命に関わるような大役ではない。
けれど、“やってみなさい”と手を出す余地を与えられたのは、この大奥へ来てから初めてかもしれなかった。
「ありがとうございます」
女中から小ぶりの花器を借り、わたしは脇へよけてあった枝と花を選んだ。
白い小花の細枝。少し傷んだ椿のつぼみ。葉の色がまだ強い青ものを一筋。
控えの間に置くなら、華やかすぎず、けれど荒れた印象にならぬようにしたい。人目を引くためではなく、そこにいる者の目がふと止まったとき、少しだけ心が整うくらいがよい。
茎を切る。
角度を見て、長さを揃える。
浅い花器に入れて、葉の向きを少し変える。
家で花を挿すときは、母がよく言った。
花を飾るのは、自分を見せるためではなく、その場を整えるためだと。
豪奢である必要はない。けれど、気が行き届いていることは、思っているよりずっと人の心に伝わる。
「……上手じゃない」
女中がぽつりと呟いた。
わたしは顔を上げる。
「ありがとうございます」
「褒めたつもりは半分しかないわよ」
「半分でもありがたいです」
「変わった子ねえ」
彼女は花器を少し離れて見て、満足したように頷いた。
「これ、わたしが持っていくわ。誰がやったか聞かれたら――そうね、雑用部屋で見つけたと言っておく」
「……はい」
名を出さぬのは、たぶん親切でもあり、用心でもある。
下働きの新入りが少し気の利いたことをしただけで、また余計な目を惹くかもしれない。そういう意味では、その女中の判断は賢かった。
けれど、花器が彼女の手で運ばれていくのを見送ると、胸の内に小さな灯がともるのを感じた。
たとえ名が出なくても、自分の手で整えたものが、どこかの部屋でちゃんと役に立つ。
それだけで、今日のこの場所が少し違って見える。
雑用部屋の片づけが終わるころには、外の光は高くなっていた。
道具を元の位置へ戻し、床の枝屑を払い、花器の口を伏せて並べる。
最後にもう一度見渡すと、朝よりいくらか息の通る部屋になっていた。
「終わりました」
外にいた年長の女中へ声をかけると、彼女は部屋の中を一瞥した。
「……まあ、いいだろう」
それから、脇にあった空の水桶へ目を留める。
「花までいじってたのかい」
「使えるものがございましたので、控えの間へ少し」
「勝手なことを」
言葉は厳しい。だが、その顔に本気の怒りはない。
「次は先にひと声かけな」
「はい」
「使えたなら文句はない」
それだけ言って去っていった。
わたしは小さく息を吐く。叱られたのか、許されたのか、その中間のような返しだ。けれど少なくとも、邪魔だとは言われなかった。
昼の休憩で雪江とお絹に会うと、雪江が開口一番に言った。
「ずいぶん遅かったじゃない」
「雑用部屋を任されていたの」
「何かやらかした?」
「少しだけ、余計なことを」
「何をしたの」
「捨てる枝の中に使えそうなものがあったから、控えの間用に整えてみました」
「は?」
雪江が箸を止めた。
「あなた、本当に時々思いきりが変なところへ向くわね」
「駄目だったでしょうか」
「それを決めるのはわたしじゃないけど……」
雪江は呆れた顔で言い、それから少しだけ興味を持ったように身を乗り出す。
「で、どうなったの」
「名前は出さぬまま、持っていっていただけました」
「ふうん」
お絹が目を丸くする。
「す、すごいです……」
「すごいかどうかは」
「いや、下の者が勝手に何かするのは、たいてい危ないのよ」
雪江が代わりに言った。
「でも、うまくいったならよかったわね」
「うまくいったかはまだわからない」
「それでも、少なくとも追い返されてはいないんでしょう?」
「ええ」
「なら一歩は一歩よ」
その言い方に、わたしは少しだけ救われた。
一歩。
本当に小さな一歩だ。けれど、ここではその小ささこそ大事なのかもしれない。
午後、別の雑務をしていたときである。
廊下の先で、朝に花器を持っていった女中が誰かと話しているのが見えた。相手は上位の女中らしく、年若くはないが品のよい佇まいをしている。
距離があるので言葉までは聞こえない。
だが、女中が花器を示しながら何かを説明し、相手が足を止めてそれを見る姿ははっきりわかった。
次の瞬間、その上位の女中の視線が、ふいにこちらへ向いた。
どきり、と胸が鳴る。
見られた。
ただそれだけなのに、全身の血が一瞬だけ逆流したような気がした。
上位の女中は、ほんの少しだけこちらを見てから、また花器へ目を戻し、短く何か言って去っていった。
残された女中は、こちらへ向かってくる。
「志乃」
「はい」
「さっきの花、評判は悪くなかったわ」
「……本当ですか」
「ええ。控えの間に置くには十分だって」
女中は少し笑う。
「もっとも、“誰がやったか”までは聞かれなかったけれど」
「それで十分でございます」
「そう。身の程を知ってる子は嫌いじゃないわ」
その言葉とともに、女中は小さな紙包みを差し出した。
中には細い菓子が二つ入っている。
「これは」
「余ったもの。わたし一人では食べきれないから」
「いただけません」
「じゃあ捨てるわよ?」
「……それは」
「なら、いただきなさい。誰にも見せびらかさないこと」
わたしは戸惑いながら受け取った。
「ありがとうございます」
「礼は要らないわ。次に花を見たら、また少し知恵を貸してちょうだい」
「はい」
女中はさっと去っていった。
紙包みの温かさが、指先に残る。
菓子そのものより、そのやりとりが不思議だった。
ここは意地悪な言葉や冷たい目線ばかりの場所ではない。少なくとも、仕事がきちんと役に立てば、それを見ている人もいるのだ。
夕刻近く、花器の水を替えるため廊下を通っていたとき、また綾姫さまとすれ違った。
侍女を従えた姿は相変わらず美しく、遠くからでも人目を引く。
「志乃さん」
「はい」
立ち止まり、膝を折る。
綾姫さまはやわらかく笑った。
「今日、控えの間の花が少し見違えていたわ」
「そうでございますか」
「ええ。ああいう場所にまで気を配るなんて、感心ね」
声音は褒めているようで、どこか薄い。
「あなた、ほんとうにそういう細やかなことがお得意なのね」
「恐れ入ります」
「恐れ入ることではないわ。花にも、それぞれ咲く場所があるもの」
綾姫さまは少し首を傾げた。
「たとえば上の間に飾られる花もあれば、人目につかぬ控えの間にこそふさわしい花もあるでしょう?」
「……はい」
「自分がどこに向いているのか、見誤らないのは大切なことよ」
侍女たちが、また小さく笑う。
なるほど。
これは褒め言葉の形をした釘なのだ。
“あなたは下で器用に働いていればいい。上を見上げるな”――そう言いたいのだろう。
胸の奥で、静かな火がともる。
だがその火を顔へ出すわけにはいかない。
「肝に銘じます」
そう答えると、綾姫さまは一瞬だけ目を細めた。
「ええ、そうなさい」
去っていく後ろ姿を見送りながら、わたしは胸の内でその言葉を繰り返した。
花にも、それぞれ咲く場所がある。
それは、きっと本当だ。
けれど、その“咲く場所”を最初から誰かに決められたままでいてよいのかどうかは、まだわからない。
夜、部屋へ戻ってから、女中にもらった菓子を雪江とお絹に半分ずつ分けた。
お絹はひどく恐縮し、雪江は「あなた、そういうところだけ妙に人がいいのね」と呆れながらも受け取った。
「でも」
雪江が菓子をひとかけ口に入れながら言う。
「悪くないじゃない。花を見て、それが誰かの目に留まった」
「留まったと言えるほどでは」
「言えるわよ。今の大奥で、完全に誰にも見られずに何かが済むと思ってるの?」
「……思ってはいません」
「だったら同じこと」
雪江は肩をすくめた。
「少なくとも、あなたが“ただ失敗して笑われる娘”ではないってことは、少しずつ伝わる」
「それで綾姫さまの機嫌を損ねなければよいのですけれど」
「もう損ねてるかもしれないわよ」
「そうでしょうね」
自分でそう答えると、雪江がふっと笑った。
お絹まで、控えめに笑う。
部屋の空気がほんの少しだけ和らいだ。
大奥へ来てから、こうして誰かと同じことで小さく笑えたのは、はじめてだったかもしれない。
布団へ入って目を閉じると、今日触れた花々の感触が指先に残っていた。
傷んだ枝。
まだ生きているつぼみ。
控えの間へ持っていかれた小さな花器。
綾姫さまの言葉。
雑用部屋の娘。
たしかに今のわたしはそうだ。
けれど、雑用部屋にいるからこそ見つけられるものもある。人が見過ごす枝の中に、まだ咲ける花が混じっていることを、わたしは知っている。
ならば、自分自身も同じかもしれない。
まだ誰にも気づかれぬだけで、まだ咲けるものを胸のうちに残したまま、いまは下の部屋に置かれているだけなのかもしれない。
その考えは、傲りだろうか。
それとも、生き抜くための小さな望みだろうか。
わからない。
けれど今夜は、その望みを打ち消したくなかった。
雑用部屋の娘は、花の名をよく知っている。
それはたぶん、まだ誰かを見返すほどの力ではない。
それでも、ここでただ踏まれるだけで終わらぬための、最初の武器にはなりうる気がした。




