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『日本の後宮・大奥に咲く花――虐げられた娘は将軍家光に見出され、私を嗤った女たちを見返していく』  作者: 御上常陸介寛浩


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第四話 春日局の名を口にするとき

帳面が見当たらない。


 その事実だけで、胸の内側を誰かに冷たい指で掴まれているようだった。

 廊下の角を曲がるたびに、さっきまでと同じ景色が急に違うものに見える。磨かれた板、整えられた花、音を吸うような畳。どれほど美しくても、今のわたしにはそれらすべてが「失敗の証人」に思えた。


 走ってはいけない。

 だが急がなくてはならない。

 その矛盾が、足取りをぎこちなくする。


 わたしは一度深く息を吸った。焦れば目が曇る。探し物をするときほど、まず心を鎮めろ。母に何度も言われたことだ。子どものころ、針山をなくして半泣きになったわたしに、母はそう言って座敷を静かに見回させた。泣きながら探すと、見えるものも見えなくなる、と。


 いま思えば、あれは針山の探し方だけの話ではなかったのだろう。


 わたしは来た道をもう一度、頭の中で順に並べた。


 朝からの雑用。

 南の廊下へ布を運ぶ。

 茶器の数を確かめる。

 花器の水を替える。

 そのとき、お峯どのに声をかけられた。

 それから綾姫さまが来た。侍女たちが左右に控え、そのうちのひとりがわたしの脇を抜けたとき、袖が少し触れた。


 そこまで思い出して、わたしは足を止めた。


 花器のあった廊下へ引き返す。

 柱の間隔。

 障子の桟の影。

 夕方に近づいた光の色。

 目を凝らすと、床板の端に、ほんの少しだけ紙の白がのぞいていた。


 思わず膝をつく。

 柱の影と長押の隙間のあいだに、帳面の端が挟まっていた。


「……あった」


 声はひどく小さく出た。

 胸の奥で張り詰めていたものが、一気にほどけかける。

 けれど手を伸ばしかけて、わたしは止まった。


 おかしい。


 ただ落ちたにしては、入り方が妙だった。

 帳面は薄いから、滑り込むこともあるだろう。だが、こうして角だけがきれいに差し込まれているのは、まるで誰かが押し込んだように見える。

 しかも、ここは先ほどまで何度か目をやった場所だ。最初に探したとき、なぜ見つからなかったのか。


 指先がかすかに冷える。


 なくしたのではない。

 誰かが隠した。

 そう断じるにはまだ早い。だが、そう疑うには十分すぎた。


「見つかったのかい」


 低い声に振り向くと、少し離れたところにお峯どのが立っていた。

 鼠色の衣の裾を乱さず、こちらをまっすぐ見ている。いつの間に来たのか気づかなかった。


「はい」

 わたしは帳面を取り出し、両手で抱えるように持ち直した。

「こちらに……」

「そうかい」


 お峯どのはそれ以上すぐには何も言わず、わたしの手元と柱の隙間を見比べた。

 その視線は鋭かったが、責めるためのものではなかった。

 見ている。確かめている。そういう目だ。


「落とした覚えは」

「……ございません」

「ふむ」

「ですが、わたくしの不注意かもしれません」

「かもしれない、ね」


 お峯どのはそれだけ言って、わずかに顎を引いた。


「不注意なら、次から身の置き方を改めればいい。だが、そうでないなら、それもまた覚えておくことだよ」

「……はい」


 喉の奥が少し熱くなった。

 お峯どのは、“誰かがやった”と断言はしない。けれど、何も見えていないわけでもない。それが救いのようでもあり、怖くもあった。


「お滝どのへ戻しな。長く持っていてよい物じゃない」

「はい。ありがとうございます」


 深く頭を下げると、お峯どのはもう興味を失ったように廊下の向こうへ歩いていった。

 だが、その背が見えなくなるまで、わたしはしばらく顔を上げられなかった。


 帳面を胸に抱き、お滝どののもとへ戻る。

 途中、すれ違う女中や侍女たちの視線がまた刺さる。帳面をなくした新入り、という噂はもう小さく広がっているのだろう。どこへ行っても、視線の温度が少しだけ変わっている気がした。


 お滝どのは控えの間で、別の下女に仕事を割り振っていた。

 わたしを見ると眉をひそめる。


「どうした」

「帳面、見つかりました」

「……どこに」

「花器の置かれた廊下の柱の隙間にございました」

「柱の隙間?」


 お滝どのの目が、ほんのわずかに細くなった。

 それだけで、ああ、この人もそれを妙だと思ったのだとわかる。


「申し訳ございません。持ち場を移る折に、落としたのだと思います」

 わたしは頭を下げたまま言った。

 誰かのせいだ、と今ここで言うべきではない。

 証はない。

 ただ疑いだけを口にすれば、“なくした挙句に人を疑う娘”になる。


 お滝どのは黙って帳面を受け取り、ぱらりと中を確認した。

 傷んではいない。紙も抜かれていない。

 それを確かめてから、ようやく口を開く。


「見つかったからよかった、ではないよ」

「承知しております」

「物は足が生えて逃げやしない。自分の手を離れるときは、必ず頭でも離れてる。今日はそれを覚えな」

「……はい」

「ただし」


 そこでお滝どのは帳面を閉じた。


「柱の隙間にねじ込まれるように落ちるものでもない。大奥では、自分の不始末だけでなく、人の不始末をかぶせられることもある。だから余計に、手元から目を離すな」


 心臓がどくりと鳴った。

 お滝どのも、誰かが触った可能性を見ている。


「はい」

「今のは叱ってるんだよ、慰めてるんじゃない」

「はい」

「よろしい。次からは帳面ひとつでも命と思って扱いな」


 厳しい声だった。

 だが、そこにはほんの少しだけ、“学べるうちに学べ”という響きが混じっている気がした。


 その日の残りの仕事を終えるころには、空はすっかり暮れかけていた。

 障子の向こうが薄く藍色へ変わり、灯りがひとつ、またひとつとともる。

 大奥の夜は、昼よりもいっそう静かで、いっそう密だ。明るいところでは見えなかったものが、灯影の下では輪郭を持つように思える。


 部屋へ戻ると、雪江がすぐに顔を上げた。

「見つかったの」

「ええ」

「どこに」

「柱の隙間に」

「……それはまた」

 雪江は言葉を切り、ふっと眉を寄せた。

「自分で入る場所じゃないわね」

「そう思います」

「誰かがやった?」

「わかりません」

「わからなくても、思い当たることはあるんでしょう」

「……」


 綾姫さまの侍女。

 袖がかすかに触れた感触。

 けれど、それをそのまま口にするのは早すぎる。


「あるにはあります。でも、証がありません」

「賢いわね」

「え?」

「ここで“あの人です”なんて言ったら終わるもの。証のない言葉は、下の者ほど自分に返ってくる」


 雪江は小さく息を吐いた。

「ほんとうに嫌なところ」

「はい」

「でも、見つかってよかった」


 お絹もおそるおそる頷く。

「よ、よかったです……。わたし、もうだめかと」

「わたしもそう思いました」


 正直にそう言うと、雪江が少しだけ笑った。

「そういうところは、ちゃんと人らしいのね」

「どういう意味でしょう」

「妙に落ち着いてるようで、ちゃんと怖がってるってこと」


 それを聞いて、わたしもようやく少し笑えた。

 笑ったところで疲れが消えるわけではない。けれど、人の前で口元を緩められたのは、大奥へ来てから初めてかもしれなかった。


 夕餉のあと、部屋の隅で足袋を繕っていたときである。

 廊下の向こうが、急に静まった。


 昼間にも感じたような、音の質の変わり方。

 誰かが大声で「静かに」と言ったわけではない。なのに、人の気配だけがすっと引き締まる。笑い声は途切れ、衣擦れの音まで低くなる。空気そのものが姿勢を正したようだった。


 お絹が針を持つ手を止める。

「な、何でしょう」

 雪江も顔を上げる。

「……また、上のお方かしら」


 同じとき、部屋の外を通った女中が障子越しに低く言った。

「顔を上げるんじゃないよ。通りになる」


 わたしたちは揃って手を止め、膝を揃えた。

 障子の向こうを、滑るような足音がいくつも過ぎていく。

 その中心にある者の姿は見えない。だが、見えぬからこそ、かえって強く感じる。人の気配を従わせる重さ。柔らかなのに逆らえない力。


 息を詰めていると、ふと、通りすがりに誰かが立ち止まったような気がした。

 ほんの一瞬。

 障子一枚隔てたこちらに、視線が向けられたような感覚。


 錯覚かもしれない。

 だが、その一瞬だけで背筋が冷たくなった。


 やがて足音がまた流れ、遠ざかる。

 周囲の気配がゆるむまで、誰も顔を上げなかった。


 少ししてから、廊下の向こうで囁きが交わされる。


「春日局さまが、今夜はこちらへ」

「お声にお気をつけ」

「御前へ上がる支度は整っているの」


 春日局さま。


 その名を聞いたとたん、胸の内で何かがきゅっと縮んだ。

 昨日、遠目にその御通りを感じただけの名。

 けれど今夜は、もっと近くを通った気がする。


 雪江がごく小さく囁く。

「やっぱり春日局さまなのね」

「そうみたい」

「名前が出るだけで、皆の顔つきが変わる」

「……ええ」


 変わる。

 それも少し、ではない。

 綾姫さまが来たときとは違う。高位の女中が通るときとも違う。

 春日局さまの名が出るだけで、大奥の女たちはみな、己の背筋をどこまで伸ばすべきか知っている。

 恐れているのではない。

 畏れているのだ。

 そういう種類の空気だった。


 わたしは、昨日より少しだけ、その意味がわかった気がした。

 春日局さまはただ身分の高い人ではない。

 この大奥という場所そのものを動かしている力の一つなのだ。


 お滝どのの叱責は、下を整えるための刃。

 綾姫さまの笑みは、上で生きるための華やかな棘。

 けれど春日局さまは、それら全部を呑み込んでなお上から見ている大きな何か――そんな印象があった。


 その夜、布団へ入ってもなかなか寝つけなかった。

 帳面のことが頭を離れない。

 もし本当に誰かが隠したのなら、それはただの嫌がらせでは済まない。相手は、わたしの足元がまだ覚束ないことを知っていて、そのうえで突いたのだ。

 この大奥で、弱いところを見せることは、そのまま誰かの餌になる。


 では、どうするか。


 泣くか。

 怯えるか。

 それとも、誰かを疑ってばかりで小さくなるか。


 ――違う。


 見て、覚えるのだ。

 今日、誰がどこにいて、どのときに人の流れが変わったか。

 綾姫さまの侍女たちの顔。

 袖が触れた位置。

 帳面の見つかった場所。

 春日局さまの名で空気が引き締まる様子。

 何ひとつ忘れない。


 ただ笑われる娘では終わらないために。

 ここで生き抜くために。


 目を閉じると、綾姫さまの白い花の香と、春日局さまの名に変わった空気の重さが、ふたつ同時によみがえった。

 大奥は美しい。

 だが、その美しさは、ただ眺める者に微笑むためのものではない。

 人をふるい、人を試し、価値ある者だけを奥へ通す門のようなものだ。


 春日局さまの名を口にするとき、誰もが少しだけ声を低くする。

 その理由が、今夜ようやく肌でわかった気がした。


 ここは本当に、女たちの住まうだけの場所ではない。

 将軍家を支え、揺らし、ときに左右する力が息づく場所なのだ。


 その力の一端に、わたしはもう触れてしまっている。


 帳面の紙の感触を思い出しながら、わたしは胸の内でそっと自分に言い聞かせた。


 うつむくな。

 怖がるな、ではない。

 怖いままでいい。だが、その目だけは曇らせるな。


 母の声が、遠くから聞こえる気がした。


 生きて帰るより、生き抜きなさい。


 その言葉を胸の中で反芻しながら、わたしはようやく浅い眠りへ落ちていった。

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