第三話 笑われる娘、黙って覚える娘
大奥での朝は、二日目にしてもう「初めて」ではなくなっていた。
それは決して、慣れたという意味ではない。
むしろ逆だ。ここがどれほど気を抜けない場所か、昨日より少しだけわかってしまったからこそ、朝の緊張はかえって深くなっていた。
まだ障子の向こうが青白いころ、わたしは目を覚ました。
起こされるより先に、自分から起きたかった。少なくとも「寝起きが遅い新入り」と思われる失敗だけは避けたかったからだ。
布団を静かに畳み、髪を整え、衣を合わせる。
昨日より手順は早くなった。帯の位置も少しはましだと思う。だが、それを確認してくれる母はいないし、褒めてくれる人もいない。ここでは、自分で覚え、自分で直し、自分で保つしかない。
同室の雪江もすぐに起き上がった。
「今日は少し早いのね」
「昨日よりは」
「それだけでも十分よ。お滝どのに目をつけられたら面倒だもの」
「もう十分目をつけられている気もします」
「それはそう」
雪江は真顔で言い、それからわずかに口元を緩めた。
こういう、少しだけ乾いた物言いが、この娘らしい。
お絹も起きてはいたが、今朝はいっそう顔色が悪かった。
緊張でろくに眠れなかったのだろう。わたしも深く眠れたわけではない。目を閉じても、襖の開け方や盆の持ち方が頭の中を何度も巡っていた。
ほどなくしてお滝が現れ、わたしたちはまた廊下へ出された。
今朝の仕事は、まず水回りの雑用から始まった。
広い建物の中で使われる水を絶やさぬように運び、手水鉢を整え、使い終えた桶の位置を戻す。地味だが、誰かが怠ればたちまち全体の流れが詰まる仕事だ。
「持ち場を覚えろと言ったろう」
お滝が低く言う。
「どこの水が先で、どこが後か。上の間に近いところほど、乱れは目につく。下の者が手を抜いたせいで上の方が眉をひそめたとなれば、誰の責になると思う」
「下働きの責にございます」
わたしたちは声を揃えた。
「わかってるならよろしい。頭だけでなく身体で覚えな」
桶は見た目より重い。
水は音を立てずに運べと言われるが、揺らせばすぐに波打つ。裾を濡らさぬよう気をつけつつ、歩幅も乱さず、廊下の角では必ず一拍置く。その一つひとつが、思った以上に骨が折れた。
途中、わたしは一度だけ水面を大きく揺らした。
こぼれるほどではなかったが、お滝の目はすぐに飛んでくる。
「志乃」
「はい」
「腕だけで持つな。腰で支えな。おまえは慎重にしようとして逆に身体が固くなる」
「……はい」
「返事より先に直しな」
叱られるたび、胸の内で何かが縮む。
けれど、そこでしぼんだままになるのは悔しかった。
言われたことは覚える。次は減らす。それだけを考える。
廊下の向こうでは、すでに上の者たちの動きが始まっていた。
色のよい小袖が、まるで季節の花のように通り過ぎる。
香の気配が残る。
低い声で交わされる言葉は短く、笑い声ですら品よく整えられている。
その華やかさを目にするたび、わたしは自分がいる場所を思い知る。
あちらは“見られる側”で、こちらは“整える側”だ。
だがその整え役ですら、少しも気を抜けない。
水を運び終え、今度は器の拭き上げを任されたときのことだった。
白磁の小皿を布で拭きながら、お絹が小さく肩を震わせた。
見ると、端にほんの小さな曇りが残っている。
「やり直しだね」
近くにいた年長の女中が、抑揚のない声で言った。
お絹は慌てて頭を下げ、小皿をもう一度布に戻す。
その手元が焦りで乱れ、今度は布の端が器の縁に引っかかった。
「雑だねえ」
別の女が呟く。
「町方育ちは、こういうところがね」
「しっ」
たしなめるような声が入ったが、その「しっ」も優しさからではない。ただ、露骨に言いすぎれば自分の品が落ちるからだろう。
お絹はみるみる耳まで赤くなり、目に涙をためた。
けれどここで泣けば、さらに笑われる。
わたしは隣で器を拭きながら、それを知ってしまった顔のつらさを見た。
次に笑われたのは、わたしだった。
昼前、膳を運ぶ練習の一環として、空の盆を持って決められた順路を歩かされたときのことだ。
途中で高位の女中が通る気配があり、わたしは昨日教えられた通りに道を譲ろうとした。
だが譲る位置が半歩悪かった。廊下の柱との間に中途半端な空きができ、かえって邪魔になってしまったのだ。
その女中は立ち止まり、まっすぐわたしを見た。
「そこでは通りにくいのだけれど」
「申し訳ございません」
慌てて下がろうとした拍子に、盆がわずかに傾く。
空だったからよかった。けれど、その一瞬だけで十分だった。
「まあ」
後ろにいた侍女が口元を隠して笑う。
「新入りさん、ずいぶんと気が利くのねえ。邪魔の仕方が」
「おやめなさいな、かわいそうでしょう」
そう言いながら、もう一人も笑っている。
顔が熱くなった。
言い返したい。
わざとではございません、と。精一杯やっております、と。
けれど、それを言ったところで何になる。ここで口を開けば、“失敗したうえに言い訳をする娘”になるだけだ。
「……以後、気をつけます」
それだけを言って頭を下げた。
女中たちはそれ以上何も言わずに去っていった。
だが、置いていかれた笑い声の名残は、しばらく耳の奥でくすぶっていた。
悔しい。
情けない。
けれど、それ以上に強く残ったのは、「次は同じことで笑われないようにしよう」という思いだった。
どの位置なら邪魔にならずに譲れるか。
どのくらい前に気配を読むべきか。
自分が立っていた場所の柱の間隔、廊下の幅、女中の歩く速さ。
頭の中で何度もなぞる。
雪江がそれを見ていたらしく、休憩の折にぽつりと言った。
「あなた、いちいち覚えているのね」
「覚えないと、また失敗しますから」
「普通は先に落ち込むものよ」
「落ち込んでいます」
「そう見えないのよ」
雪江は漬物をつまみながら、少し不思議そうにわたしを見た。
「綾姫さまに嫌味を言われたときもそう。さっき笑われたときもそう。顔には出るけど、すぐに引っ込める」
「出ていますか」
「少しだけ。でも、泣き顔にはならない」
「泣いたら余計に覚えにくくなる気がして」
「……変わってるわね」
「そうでしょうか」
「少なくとも、お絹とは違う」
視線の先で、お絹は小さくなって膳を食べていた。
その背中は、今にも折れそうだった。
わたしは胸の奥がきゅっとした。
自分も、ほんの少し何かが違えば、同じように肩を震わせていたかもしれない。違ったのは強さではない。ただ、母の言葉がまだ胸の真ん中に残っているからだ。
生きて帰るより、生き抜きなさい。
その言葉が、泣くより先にわたしの背を押す。
午後は部屋ごとの道具の点検と、細かな雑務の振り分けだった。
新入りのわたしたちは、あちらこちらへ使いに出される。
「その布を南の廊下へ」
「茶器の数を確かめて」
「こちらの花の水を替えておいで」
「それは違う、その棚ではない」
一つの仕事が終われば、すぐ次が来る。
慣れぬ場所を何度も往復するうち、頭の中に少しずつ建物の形が入ってきた。
曲がり角ごとに漂う香。
日当たりの違い。
板のきしむ場所。
人がよく溜まる場所。
見て、覚える。
それを繰り返していたときだった。
「おまえ」
低い声がして顔を上げると、廊下の隅で年配の女中がこちらを見ていた。
昨日、遠くから一度見かけた気がする。五十近いだろうか。背は高くないが、立ち姿に無駄がない。派手さのない鼠色の衣が、かえってその人のきちんとした気配を際立たせていた。
「はい」
「その花器、今から替えるつもりかい」
「はい。水が少し傷んでいるようでしたので」
「……わかるのかい」
試すような目だった。
わたしは花器を抱えたまま、小さく頭を下げる。
「匂いで少し。暖かい廊下に近いので、傷みが早いかと」
「ふうん」
女中は近づいてきて、花器の中を一瞥した。
そして、花の一枝に目を止める。
「それも気づいた?」
「少しだけ、茎が弱っております」
「ほかの娘は見過ごしたのに」
「……たまたま、目につきました」
その人はしばらく何も言わなかった。
沈黙が長く感じられ、わたしは勝手に緊張した。余計なことをしただろうか。下の者が判断して花に触れるのは出過ぎた真似と取られるかもしれない。
だが、その女中はやがて短く言った。
「水を替えるなら、花の向きを崩すなよ。あんた、手元は少し見ておきな」
「はい」
「名は」
「志乃と申します」
「……そうかい」
それだけ言って、女中は去りかけた。
だが二、三歩進んでから、振り返らぬまま付け足す。
「わたしはお峯だ。用があるときは勝手に騒がず、近い者に尋ねな」
お峯。
その名を胸の中でそっと繰り返す。
厳しいが、ただ冷たいだけではない。
そう感じたのは、花器を見る目が“粗探し”ではなく“本当に見ているかどうか”を測るものだったからかもしれない。
花器の水を替えながら、わたしは慎重に花の向きを戻した。
もともと家で庭や花の世話をするのは好きだった。母が忙しいときは、玄関先に挿す花を選ぶのもわたしの役目だった。だからこそ、少しの傷みや匂いの変化に気づくのかもしれない。
花が好きだ。
けれど今、この大奥では、花を見るたびに別の意味も胸に浮かぶ。
綾姫の言った“花にも順がある”という言葉だ。
そのとき、廊下の反対側から、聞き覚えのある柔らかな声がした。
「あら。ずいぶん熱心ね」
振り向かなくてもわかった。
綾姫だ。
わたしはすぐに花器を置き、身を正した。
「綾姫さま」
「花のお世話までなさるの? 本当に働き者なのね」
笑みを含んだ声音。
しかしその目は、わたしではなく花器へ向いていた。
「下の者がそこまで気を回すなんて、感心だわ」
「傷みかけておりましたので、差し替えをと」
「まあ。見分けられるのね」
「少しだけでございます」
「そう」
綾姫は近づき、花を見て、それからわたしを見た。
その視線の冷たさは、昨日よりも薄く覆いがかかっていた。あからさまな見下しではなく、値踏みだ。どう扱うべき相手かを量っている目。
「器用な娘は重宝されるでしょうね。もっとも」
綾姫はかすかに首を傾げた。
「器用さだけで咲けるほど、大奥は甘くはないけれど」
背後で侍女たちが小さく笑う。
わたしは頭を下げたまま答えた。
「心得ております」
「本当に?」
「……まだ心得てはおりません。けれど、学ぶつもりでおります」
「まあ」
その返しが意外だったのか、綾姫の声がほんのわずか変わった。
すぐにまた元の笑みに戻る。
「素直なのは結構ね。けれど、素直なだけの娘は長く残れませんわ」
「肝に銘じます」
「銘じるだけで済むとよいわね」
綾姫はそう言い残して去っていった。
その足音が遠のいてからも、わたしはしばらく顔を上げなかった。
悔しい。
言葉の一つひとつが、まるで薄い刃のように肌をかすめる。
だが同時に、彼女がただ気まぐれに声をかけているだけではないことも感じていた。見ているのだ。この新入りの娘が、ただ笑われて終わる者なのかどうかを。
だからこそ、なおさら負けたくないと思った。
夕方が近づくころ、持ち場の帳面を一時預かる仕事が回ってきた。
部屋ごとの雑用の割り振りや、物の出し入れを記した簡単な控えだ。下の者には重要な帳面らしく、お滝がめずらしく念を押した。
「なくすんじゃないよ。あんたたちの首が飛ぶような大層なものじゃないが、だからといって粗末に扱ってよいものじゃない。誰が何をしたか、下の者ほど記録が命だ」
「はい」
わたしは慎重に帳面を受け取った。
紙の端は指に馴染んだ。父が遺した帳面を思い出す。
あの人も、こんなふうに記し、整え、見えぬところで物事の秩序を保とうとしていたのだろうか。
その感傷は一瞬で消えた。
すぐに別の仕事が飛び込み、わたしは帳面を抱えて廊下を二度、三度と行き来した。
気づけば外は薄く暮れ始めていた。
ようやくひと息つけると思った矢先である。
「あれ……」
手元を見て、血の気が引いた。
帳面がない。
抱えていたはずの帳面が、どこにも見当たらなかった。
喉がからからになった。
廊下を歩いた順路を頭の中で必死に辿る。
南の廊下。
手水鉢の近く。
花器の棚。
お滝のいる控えの前。
どこで手を空けた。どこで置いた。置いた覚えはない。では、落としたのか。
「志乃?」
雪江が怪訝そうにこちらを見る。
「どうしたの」
「帳面が……」
「何」
「帳面が、見当たらないの」
雪江の顔色が変わった。
「まさか」
「さっきまで持っていたはずなのに」
「探しなさいよ、すぐに」
「ええ」
わたしは走りたい気持ちを必死に押さえ、早足で来た道を戻った。
走ればそれだけで叱責の種になる。けれど遅れてもまずい。心臓の音がやかましい。目だけがぎらぎらと廊下の隅を探す。
ない。
どこにもない。
南の廊下にも。
手水鉢の脇にも。
花器の近くにも。
ない。
背中にじわじわと冷たいものが広がっていく。
これで“うっかりしておりました”では済まない。
下の者の帳面とはいえ、なくせば信用を失う。初日二日で積み重ねたわずかな手応えも、まとめて地へ落ちる。
そのとき、すれ違いざまの古参女中が、こちらをちらりと見て言った。
「どうしたんだい、そんな顔をして」
「……いえ」
「何かなくしたのかい?」
「……」
言うべきか迷った。
だが隠していてよいことではない。
わたしは頭を下げる。
「預かっていた帳面が見当たらず……」
「おやまあ」
女中は驚いたように目を細めたが、その奥にはどこか面白がるような色もあった。
「それはまた、大事な初歩をしくじったものだね」
「申し訳ございません」
「謝る相手はあたしじゃないよ」
くす、と近くで誰かが笑った。
胸が刺される。
けれど、今は悔しがっている場合ではない。
わたしはもう一度、頭の中で動きをなぞった。
手がふさがっていたのはどこだ。
誰かとすれ違ったのは。
袖が触れたのは。
花器の前で綾姫が来たとき――。
その瞬間、ある違和が蘇った。
綾姫の侍女の一人が、わたしの脇を通る際に少しだけ袖を引いたのだ。あのときは裾を踏まれたかと思っただけだったが、帳面はその後どうした。
考え込みかけたとき、低い声が飛んだ。
「志乃」
お滝だ。
わたしはびくりとして振り返った。
「はい」
「帳面はどうした」
「……申し訳ございません。今、探しております」
「探しております、じゃない。なぜなくした」
「それが、持っていたはずで……」
「はず、で済むなら誰も苦労しないよ」
お滝の声に、周囲の空気が一段冷えた。
見られている。
新入りが失敗した。それも帳面をなくした。
その事実が、今この場で小さな火のように広がっていくのがわかる。
わたしはぐっと唇を結んだ。
泣くな。
顔を上げろ。
まだ終わっていない。
「申し訳ございません。もう一度、探してまいります」
「当たり前だ」
お滝はそれだけ言ったが、目の奥には「見つからなければ終わりだよ」という無言の圧があった。
わたしは再び廊下へ向かう。
けれど今度は、ただ闇雲に探すのではなく、よく見ようと思った。
なくしたのか。
それとも、どこかへ紛れたのか。
あるいは――。
その答えはまだわからない。
ただ一つだけ確かなのは、この大奥では、物一つなくすことさえ、ただの不注意では終わらぬかもしれないということだった。
笑われる娘。
けれど、黙って覚える娘。
わたしはその名を、まだ自分から手放すつもりはなかった。
帳面を探す視線の奥で、静かにそう思った。




