第二話 花の園は、やさしくなどなかった
朝は、音ではなく気配で始まった。
まだ目を開ける前から、部屋の空気がもう昨日のそれではないことがわかった。ぴんと張った糸の上に、自分の身ひとつ置かれているような緊張。誰も大声を出していないのに、誰もが急かされている。息をひそめているのに、遅れればたちまち置いてゆかれる。そんな空気が、薄い布団の上へも容赦なく降りてきていた。
目を開けると、障子の向こうはまだ白んだばかりだった。だが同室の娘たちはすでに起きており、衣擦れの音を極力殺しながら支度を始めている。昨夜、ろくに名も交わさぬまま疲れに沈んだ娘たちの顔は、今朝は皆ひどく青かった。
「起きて。遅れたら、初日から笑われるわよ」
小さな声でそう言ったのは、向かいに寝ていた細身の娘だった。整った目鼻立ちをしているが、どこか勝ち気な気配がある。昨夜は口数も少なかったのに、今日はもう薄く紅を引く手元が迷いなく動いていた。
「……ありがとう」
「礼はまだ早いわ。わたしも自分が助かりたいだけ」
言い方は少し刺々しかったが、その刺の内側にあるものは意地悪ではなさそうだった。
わたしは慌てて起き上がり、昨夜脱いだ小袖を整える。家にいたころと違い、寝起きののろさを許してくれる母はいない。髪も、着付けも、顔つきまでも、ここではすべて自分で整えねばならない。
帯を締めながら、昨日のことを思い返した。
江戸城の大きさ。
綾姫の微笑。
春日局の名で変わった空気。
そして、ここは自分が甘えた心のままいてよい場所ではないのだという、骨の髄まで染みこむような実感。
ぼんやりしている暇はない。今日から本当に始まるのだ。
外から、乾いた声が響いた。
「新入りども、支度は済んだかい。もたもたしてると、その足の遅さごと叩き直すよ」
部屋の空気が一段硬くなる。
わたしたちは揃って「はい」と返し、障子が開くのを待った。
現れたのは、四十ほどの女だった。背は高くないが、顎を少し上げるだけで人を見下ろせるような顔立ちをしている。髪は乱れなく結われ、目元に一切の隙がない。衣は華やかではないのに、身についた厳しさそのものがこの人の装いのように見えた。
「わたしはお滝。下働きの取りまとめをしている。まず言っておくけれど、ここはおまえたちの家じゃない。泣こうが震えようが腹を空かせようが、誰もわざわざ優しくはしてくれないよ」
その言葉に、同室の一人がごく小さく息を呑んだ。お滝と名乗った女はそれを聞き逃さない。
「何か不満でも?」
「……い、いえ」
「ならば返事は短く。言い訳は長く。どちらが嫌われるか、子どもでもわかるね」
部屋がしんと静まる。
お滝は満足げでもなく、ただ当たり前のことを並べる調子で続けた。
「大奥では、歩き方ひとつにも順がある。目線にも、声の大きさにも、襖の開け閉めにも、盆の持ち方にも、立つ位置にも。間違えれば恥をかくのは自分だけじゃない。持ち場全体の面汚しだ。誰か一人の粗相が、ほか全員の首を絞めることもある。よく覚えておきな」
わたしは背筋を伸ばした。
母にも礼法はひととおり教え込まれてきたつもりだった。武家の娘として、無作法ではならぬと躾けられてきた。だが、それがどれほど狭い世界の作法だったかは、今朝になってすでにわかりかけている。ここでは“礼を知る”だけでは足りない。“場に合わせて一分も違えずに動ける”ことが求められるのだ。
お滝はわたしたちを廊下へ出した。
朝の大奥は、静かなのに目まぐるしかった。
灯りの始末をする者。
膳の準備を運ぶ者。
花を整える者。
水を替える者。
上の間へ通う女中たちの道をさりげなく空ける者。
誰も走ってはいないのに、すべてが遅れなく流れていく。
美しい、と思った。昨日も思った。だが今朝は、その美しさの中にある厳しさのほうがよく見えた。整えられたものは、整えられないものを嫌う。少しでも濁れば、澄んだ水ほど目立ってしまう。
「まずは廊下の歩き方だ。裾を乱すな。音を立てるな。目は落としすぎるな。かといって人をじろじろ見るな。角では必ず一拍置いて気配をうかがえ。上の者に道を譲るのは当然。だが慌ててぶつかれば、それもまた罪だ」
お滝の言葉に合わせ、わたしたちは廊下を往復させられた。
一歩。
半歩。
止まる。
腰を落とす。
頭を下げる。
また歩く。
最初のうちは、まだ何とかなると思っていた。だが、三度目の往復で早くも自分の甘さを思い知る。裾を踏みそうになる。目線が下がりすぎる。襖の前で立つ位置が半歩ずれる。直されるたびに、身体が少しずつ固くなっていった。
「違う」
ぴしゃり、と声が飛ぶ。
「そこは一歩下がってから礼」
「はい」
「声が大きい」
「……はい」
「今の間で盆を持てると思うのかい」
「申し訳ございません」
家で母に叱られるのとは違う。
ここでの叱責は、心を正すためというより、使えぬものを使える形へ削るための刃に近かった。情けはない。だが、無意味な嫌味もない。あくまで必要だから削るのだと、そのことだけは伝わる。
それでも、周囲の目は別だった。
同じく行儀見習いをしていた古参の下女たちが、脇を通りながらちらりとこちらを見る。その視線は実に軽い。新入りが戸惑うのを見慣れているのだろうし、自分たちもまた上から削られてきたのだろう。だからといって優しくしてくれるわけではない。
「ほら、またあの子」
「昨日入った娘だろ」
「帯の位置が田舎くさいわね」
「まあ、仕方ないじゃない。あのくらいの家では……」
最後の言葉は、わざと聞こえるように小さかった。
わたしは耳に入っても、顔色を変えまいとした。
聞こえないふり。気づかないふり。いちいち反応していては身が持たない。
だが、胸のどこかは確かに熱くなっていた。
田舎くさい。
家が知れる。
そのようなことは、ここでは口に出して相手を叩くほど露骨でなくとも、目線ひとつで伝わるのだ。
しばらくして、今度は盆の扱いを習うことになった。
小ぶりの漆盆に湯呑みと小皿を載せ、こぼさぬよう歩く。これもまた、ただ運べばよいわけではない。指のかけ方、肘の張り方、体の向き、膝の折り方、すべてに“見苦しくない形”がある。
わたしは慎重に盆を持ち上げた。
家でも客前に茶を出すことはあったから、多少は慣れているつもりだった。
けれど――
「駄目だね」
お滝の声が飛んだ。
「え……」
「盆が近すぎる。胸元で抱えるんじゃないよ。怖がってるのが丸見えだ」
「申し訳ございません」
「それに目線が盆へ落ちすぎてる。先を見な。先を見ながら、手元を崩さないんだ」
言われたとおりに直そうとすると、今度は歩幅が乱れた。小皿がかすかに鳴る。
その瞬間、背後からくすりと笑いが洩れた。
振り向くことはできない。
誰が笑ったのかも確かめられない。
ただ、背中に刺さるそれが、まるで“ほら見ろ”と言っているようで、頬が熱くなった。
「志乃さん、だったかしら」
不意に別の声がした。
柔らかく、よく通る、聞き覚えのある声。
わたしの背が、ひやりとする。
廊下の先に、綾姫がいた。
今日の彼女は淡い藤色の衣を重ねている。昨日のような梅の香ではなく、今朝はもっと軽やかな、白い花を思わせる匂いがした。周囲には二、三人の侍女が控え、その誰もが綾姫の一歩に合わせて動いている。
お滝ですら、すぐさま膝を折って頭を下げた。
「綾姫さま」
「よいの。通りすがりですもの。行儀見習い中なのでしょう?」
綾姫はわたしの持つ盆へ目をやり、口元だけで笑った。
「まあ。初々しいこと」
「……お見苦しいところをお見せし、申し訳ございません」
「見苦しいだなんて。だって、まだ何もご存じないのでしょう?」
昨日と同じ声音。
やわらかい布で絞められるような言い方。
周りの侍女たちは主人の機嫌をうかがうように、かすかな笑みを浮かべている。
「ただ――」
綾姫は一歩近づき、わたしの盆の位置を細い指先で少しだけ直した。
「その持ち方では、上の間へは到底上がれませんわ。せっかくこちらへ来られても、粗相ばかりではご家族もお嘆きでしょうに」
ご家族。
その言葉に、胸の奥がずきりとした。
父のことを知っているのか。
家が傾いていることまで、すでに噂になっているのか。
きっとそうなのだろう。大奥は狭い。いや、狭いどころか、閉じているからこそ噂が早いのかもしれない。
わたしは頭を下げたまま答えた。
「未熟ゆえ、これより励みます」
「ええ、励むといいわ。花にも順があると、昨日申し上げたでしょう」
「……はい」
「咲く場所を違えぬように」
綾姫はそれだけ言うと、くるりと裾を翻して去っていった。
残された香だけが、しばらくその場に淡く漂っていた。
お滝は何も言わなかった。
ただ綾姫が見えなくなってから、「続けな」とだけ短く告げた。
その一言が、かえってありがたかった。
ここで余計な慰めをかけられたら、きっとわたしはもっと惨めになっていた。
午前の勤めは、それからも容赦なく続いた。
襖の開け方。
閉めるときの手の添え方。
座る位置。
立ち上がる順。
名前を呼ばれたときの返事の速さ。
どれ一つとして難しいことではないように見える。だが、それを“決められたかたちで、決められた間合いで、誰の前でも崩さずにできる”ようにするのが難しいのだ。
昼前には足の感覚が薄くなっていた。正座を繰り返し、腰を落とし、立ち、また座る。頭の中ではわかっていても、身体はすぐには追いつかない。疲れを見せたくなくて背を伸ばせば伸ばすほど、肩が強張る。
やがて短い休憩が与えられ、わたしたちは下の者用の膳をいただく部屋へ通された。
膳は簡素だった。飯、汁、漬物、少しの煮物。
家での食事も質素だったから驚きはしない。むしろ、量は足りている。だがこの場では、味わうために食べるというより、次の勤めに倒れぬために口へ運ぶ、という感覚のほうが近い。
わたしが膳の前で手を合わせていると、今朝声をかけてくれた細身の娘が向かいへ座った。
「朝よりは、少し顔色がましね」
「あなたは……」
「雪江よ。旗本の娘。といっても、うちもさほど大きな家じゃないけれど」
「わたしは志乃です」
「知ってる。さっき綾姫さまに呼ばれていたもの」
雪江は汁をすすりながら、目だけで周囲を見た。
その視線に倣ってわたしもそっと見渡すと、部屋のあちこちで小さな輪ができている。新入り同士、古参同士、仕える先が近い者同士。すでに、座る位置や話す相手にも見えない線が引かれているのがわかった。
「綾姫さまに目をつけられたの?」
「……目をつけられた、というほどでは」
「そうかしら」
雪江は淡々と言った。
「この場所で、上の方がわざわざ名を覚えるのは、気に入ったか、気に入らないか、どちらかでしょう」
「……」
「だいじょうぶ。脅したいわけじゃないの。わたしも同じようなものだから」
そう言って、雪江は小さく肩をすくめた。
「今朝、帯の結び目が少し緩いと指摘されてね。言ったのは綾姫さま付きの侍女。あれは親切じゃなくて、あんたは見られてるわよっていう合図」
その物言いに少し驚いて雪江を見たが、彼女は平然としていた。勝ち気そうに見えたのは、もともとの気質もあるのだろうけれど、それ以上に“ここでやられるだけではいたくない”という意地が顔に出ているのかもしれない。
「どうして、そんなことをわたしに……」
「同室でしょう。少なくとも最初のうちは、背中を向けきるよりましよ」
雪江は箸を置き、少しだけ声を落とした。
「それに、あんた。悔しくても顔に出しすぎないのね」
「出ていました」
「ほんの少し。でも、大泣きしないだけ偉いわ」
「泣いても、何も変わりませんから」
「そうね。変わらない。むしろ喜ばれる」
その言い方に、わたしは思わず小さく笑ってしまいそうになった。
笑える話ではないのに、不思議と少し肩の力が抜けた。
同じ部屋のもう一人、町方出身らしい娘も遅れてやってきた。名をお絹というらしい。彼女は気が弱そうで、話しかけても何度も周囲をうかがってからでなければ口を開かなかった。
「わ、わたし、汁を少しこぼしてしまって……」
「叱られた?」
雪江が聞くと、お絹はこくこくと頷く。
「でも、床にこぼしただけでよかったわ。人の衣にかけたら終わりよ」
「や、やっぱりそうですよね……」
終わり。
軽々しく使える言葉ではないが、この場では誰も否定しない。
それほどまでに、ここでの粗相は重いのだ。
休憩は短かった。
午後からは掃除や道具の扱い、持ち場ごとの呼び名などを叩き込まれた。部屋部屋の位置関係だけでも頭が混乱する。どこまでが下働きの動ける範囲で、どこから先が勝手に踏み入れてはならぬ場所か。その線引きが、思っていた以上に細かい。
しかも、ただ覚えるだけではなく、“覚えたように見せる”ことまで求められる。きょろきょろ見回せば、たちまち田舎者と笑われる。かといって知らぬまま動けばもっと危うい。
お滝が見本を見せるのを、わたしは必死で目に焼きつけた。
柱の角に置かれた花器。
香炉の灰の色。
襖の引き手の位置。
どの廊下を誰がよく通るか。
侍女たちが何気なく空ける場所。
見て、覚える。
失敗しても、せめて次には減らす。
そうしているうちに、疲れの底に少しずつ別のものが溜まっていった。悔しさだ。情けなさだ。けれど同時に、負けたくないという火も、確かにそこにあった。
夕刻近く、最後に襖の開け閉めをもう一度見せられたときのことだった。
わたしは廊下側からきちんと手を添え、音を立てぬよう引いた。角度も悪くない――そう思った、その次の瞬間である。
「遅い」
お滝の声が飛んだ。
「え……」
「人を待たせる開け方だよ。丁寧さと鈍さを履き違えるんじゃない」
わたしははっとした。
静かに開けることばかり気にして、向こうで待つ人の存在を頭から外していたのだ。
「申し訳ございません」
「相手がいるときの所作だろう。自分ひとりで完璧ぶってどうする。やり直し」
その言葉は厳しかったが、妙に胸へ残った。
相手がいるときの所作。
そうだ。礼とは、自分が綺麗に見えるためのものではない。本来は相手のために整えるものだ。家で母が繰り返していたことを、わたしはいつの間にか忘れかけていたらしい。
もう一度、襖に手をかける。
今度は向こう側に人が待っているつもりで、間を読む。
開ける。
下がる。
頭を下げる。
お滝は数拍見てから、初めて小さく頷いた。
「そうだ。やればできることを、最初からやりな」
たったそれだけの言葉だった。
褒められたというほどでもない。
けれど今日一日で初めて、自分が“まったくの役立たず”ではないのかもしれないと思えた。
その小さな手応えを抱いたまま部屋へ戻ると、さすがに足が笑いそうになった。
帯を解く手も重い。
けれど、同室の娘たちの顔を見れば、自分だけが苦しいのではないのだとすぐにわかる。雪江は表情こそ平静だが、肩が固まっている。お絹など、座り込んだまましばらく立てなかった。
「今日は死ぬかと思ったわ」
雪江がぽつりと言う。
「明日も同じよね」
わたしが答えると、雪江は苦く笑った。
「きっともっとひどい」
「そうでしょうね」
「なのに、少しだけ悔しいの」
「わかります」
お絹がこちらを見た。
「お、おふたりとも……平気なんですか」
「平気じゃないわ」
雪江は即答した。
「でも泣いても明日の朝は来るもの」
「……はい」
「志乃は?」
「怖いです」
わたしは正直に言った。
「でも、覚えれば少しはましになる気がします」
「覚える、ね」
雪江はわずかに目を細めた。
「あなた、そうやって生きるつもりなのね」
「そうしないと、生き残れない気がして」
「……そうかも」
その言葉のあと、部屋はしばらく静かになった。
外では誰かの足音が通り、遠くで鈴虫のような細い笑い声がした。上の者たちのいるほうから流れてくる音だろう。華やかな夜が始まる場所もあれば、くたくたになって布団へ倒れこむだけの場所もある。同じ大奥の中でありながら、その隔たりはすでに深い。
わたしは髪から簪を外し、母から持たされた小さな香木をそっと取り出した。爪の先ほどの欠片なのに、指先で温めるとかすかな香りが立つ。甘すぎず、静かな木の匂い。家の仏間、雨の前の庭、父の書付の紙――そんなものを思い出させる匂いだった。
胸の内が少しだけ静まる。
今日わかったことがある。
大奥は、花の園などというやさしい言葉だけで済ませられる場所ではない。
ここでは、歩くことも、座ることも、黙ることさえ試される。
誰も大声では傷つけない。けれど、笑い声ひとつ、目線ひとつで、人を十分に削れる。
綾姫のように、微笑みのまま人を見下ろす女もいる。
お滝のように、容赦なく削ってでも使えるものにしようとする女もいる。
雪江のように、まだ新入りでありながらもう負けまいと歯を食いしばっている娘もいる。
そして、わたしもまた、その中にいる。
布団へ入って目を閉じると、足の痛みが遅れて押し寄せた。膝も腰も、自分のものではないように重い。けれど、それ以上に頭の中が忙しかった。今日叱られた所作を順に思い返し、どこが悪かったかをひとつずつなぞる。盆の高さ。襖の間。礼の角度。歩幅。目線。
明日は少しでもましに。
せめて同じ失敗は繰り返さぬように。
そうしてまぶたの裏に廊下の形を浮かべていたとき、不意に昨日の綾姫の言葉が蘇った。
――花にも順がありますのよ。どこへ咲く花か、誰の目に留まる花か、それで価値は変わりますもの。
胸の奥に、ちり、と小さな火が落ちた。
たしかに、この場所には順があるのだろう。
身分も、役目も、目に見える美しさも、出自も。
けれど、咲く前から枯れたものとして扱われるのは、どうしても悔しい。
笑われたことを忘れるな。
でも、それだけで心をいっぱいにするな。
見て、覚えて、生き抜く。
母の言葉と、自分の意地が、静かに胸の中で並んだ。
花の園は、やさしくなどなかった。
けれど、やさしくないからこそ、ここで足を踏ん張れたなら、きっと何かが変わる。
そう思いながら、わたしはようやく浅い眠りへ落ちていった。




