第十三話 春日局、娘を試す
翌朝、目が覚めた瞬間に、胸の奥がひどく重かった。
昨日の帳場での一件は、春日局さまが「預かる」とおっしゃったことで、その場ではいったん収まった。
けれど、収まっただけだ。
消えたわけではない。
大奥では、一度水面に浮いたものは、沈んだように見えても、どこかで必ず揺れを残す。
禁忌に近い柄の布。
強すぎる香袋。
そして、それを運んだのがわたしだったこと。
たとえその場で“志乃がすべて悪い”という形にはならなかったとしても、何も知らぬ者の耳に届くころには、きっとまた違う色がついている。
それを思うと、寝起きの身体の芯まで冷たくなった。
障子の外はまだ薄青く、夜と朝のあいだにある曖昧な光が、部屋の中へ静かに落ちている。
雪江はすでに起きていた。いつもより口数が少ない。お絹も、帯を手にしたままちらちらとこちらを見ている。
「……呼ばれるかもしれないわね」
やがて雪江がぽつりと呟いた。
「春日局さまに?」
「ええ。あの方が“預かる”とまでおっしゃった以上、何も訊かずに済ませるとは思えないもの」
「……」
「怖い?」
「はい」
わたしは正直に答えた。
「でも、逃げたいとは思いません」
「それなら、前よりだいぶまし」
雪江は少しだけ口元を緩める。
「前のあなたなら、“怖いです”の次に“すみません”が来てた」
「いまも、すみませんとは思っています」
「それはそうでしょうね。でも、今はそれだけじゃない」
その言葉が妙に胸に残った。
朝の割り振りは、いつも以上に静かに進んだ。
お滝どのも無駄なことは言わず、帳面を見ながらひとりひとりへ役目を振っていく。
わたしの名が呼ばれたのは最後のほうだった。
「志乃」
「はい」
「午前の見回りは外れる」
その一言に、胸がひとつ鳴る。
「では、どちらへ」
「控えで待ちな」
お滝どのは顔を上げた。
「春日局さま付きから呼びがある」
やはり、と思った。
予感していたのに、実際にそう告げられると、喉の奥がきゅっと狭くなる。
「はい」
どうにかそれだけ答えると、お滝どのは短く言った。
「怯えるなとは言わない。だが、怯えたままでも、口はきちんと置きな」
「……はい」
「おまえは余計なことを喋らぬぶん、喋るべきことまで呑み込みがちだ。訊かれたことには、順に答えればいい」
「承知いたしました」
それは叱責でも慰めでもなかった。
けれど、そのどちらでもない言葉だからこそ、わたしの背をまっすぐにした。
控えの間の端で待たされるあいだ、時間は妙に長く感じられた。
廊下を行き交う女たちの足音。
障子越しの光の移り方。
遠くで聞こえる器の触れ合う小さな音。
どれも普段と同じはずなのに、自分だけがそこから少し切り離された場所にいるような気がする。
しばらくして、春日局さま付きの年長の女中が現れた。
無駄のない足取りでこちらへ来ると、わたしを一瞥して言う。
「おいでなさい」
「はい」
ついて歩く廊下は、普段の持ち場より少し奥まっていた。
見慣れたはずの江戸城の内なのに、踏み入るだけで空気の重みが違う。
磨かれた板の光り方。
柱の木目の深さ。
廊下を流れる香の静かさ。
華やかというより、整えられすぎていて、そこへ紛れ込む自分の呼吸だけが粗いように感じられた。
やがて女中はひとつの部屋の前で足を止めた。
「ここでお待ちを」
「はい」
膝を揃えて頭を下げる。
中から声はしない。
ただ、気配だけがある。人の多い気配ではない。春日局さまおひとりか、せいぜい近くに控える者が一人いるかどうか。
その静けさが、かえって緊張を深くした。
「お入りなさい」
中から落ちた声は、低く、変わらずよく通った。
「失礼いたします」
障子を細く開けて中へ入る。
そこは派手な部屋ではなかった。むしろ、春日局さまのお立場を思えば拍子抜けするほど整然として、余分なもののない部屋だった。
几帳も、花も、香も、すべて控えめで、だからこそひとつひとつがよく目につく。
部屋の中央より少し奥に、春日局さまが座しておられた。
顔を上げきることはできない。
けれど、その気配だけで、部屋の主が誰であるかは明らかだった。
「志乃にございます」
そう名乗って頭を下げると、春日局さまはしばらく何もおっしゃらなかった。
その沈黙が長い。
試されているのだ、とわかった。
先に言い訳をするか。
必要のないことまで口走るか。
ただ怯えて固まるか。
たぶん、そのどれも見られている。
「顔を上げなさい」
「……はい」
わたしはゆっくりと顔を上げた。
春日局さまの目は、やはり鋭かった。
冷たいのではない。
ぬるさがないのだ。人を見る目として、どこまでも醒めていて、だからこそ余計な感情に流されない強さがある。
「昨日の件」
春日局さまは単刀直入に言われた。
「あなたは、自分の落ち度を認めながら、それだけではないと申しましたね」
「はい」
「なぜ、あの場でそう申せたのです」
問いは静かだった。
けれど、ただ事実を聞いているのではない。
わたしがどういう心であの場に立っていたのか、それを見ようとする問いだった。
「……黙っていれば」
わたしは言葉を選びながら答えた。
「わたくしの落ち度だけで話が終わると思いました」
「それが不服だった?」
「はい」
そこで少しだけ息を吸う。
「不服、というより……怖うございました」
「何が」
「自分の見たこと、感じたことを何も申さぬまま、ただ“そういう娘”として決められることが」
春日局さまの目が、ほんのわずかに動いた気がした。
「そういう娘、とは」
「不調法で、物を違え、禁忌も見きれぬ娘にございます」
「……」
「それがわたくしの落ち度であるところまでは、受けるべきと思いました」
「ですが?」
「ですが、それだけではないと感じたのであれば、申さねばならぬと思いました」
喉の奥が熱くなる。
けれど、ここで声を揺らしてはいけない。
「申さねば、次からもまた同じように、何かがわたくしの手元で変えられても、気づきながら黙る娘になります」
春日局さまはしばらく黙っておられた。
その沈黙のあいだ、部屋の隅に置かれた香炉の細い香だけが静かに立っていた。
強くない。
けれど、確かな存在感がある。
こういう香のあり方は、春日局さまご自身に少し似ているかもしれないと思った。
「なるほど」
やがて春日局さまはそうおっしゃった。
「あなたは、言い逃れをしたかったのではなく、形を定めたかったのですね」
「……はい」
「形を定める、か」
その言葉が、どこかおもしろいものでも見るように繰り返された。
「志乃」
「はい」
「大奥では、嘘も真も、放っておけば誰かの都合のよい形になります」
「はい」
「それを知っていて、自分で順を立てた」
「……恐れ入ります」
「恐れ入ることではありません」
その一言に、少しだけ呼吸が楽になる。
だが、まだ終わりではないとすぐにわかった。
「ただし」
春日局さまの声は少しだけ低くなった。
「あなたはまだ、自分の慎みと、出るべき時の見極めが危うい」
「……はい」
「柄を見きらずに包みを受けたのは落ち度です。そこへ気づかなかったことを、利発さで帳消しにはできません」
「その通りにございます」
「わかっているならよろしい」
叱責は短かった。
けれど、その短さのほうがかえって重く響く。
「花の件でも、香の件でも、あなたは“よく見ている”」
春日局さまはそう続けた。
「ですが、大奥で生きるのに必要なのは、それだけではありません」
「……はい」
「見たものをいつ黙り、いつ申すか。どこまで手を出し、どこから退くか。それを違えれば、よく見える娘ほど早く折れます」
その言葉は、やさしくはなかった。
だが、不思議と胸に深く入った。
「肝に銘じます」
「銘じなさい」
そこで春日局さまは、脇に控えていた女中へ一度だけ目を向けられた。
女中は無言で一歩下がる。
つまり、この先は、わたしに向けた話なのだとわかった。
「志乃」
「はい」
「あなたを、いまの雑務だけに置いておくのは惜しい」
胸が、どくりと鳴る。
「ですが、いきなり上の間へ上げるほど甘くもありません」
「……はい」
「ゆえに、配置を少し変えます」
頭の中が一瞬だけ白くなる。
配置換え。
その言葉の重さを、わたしは知っている。
下の雑用に埋もれていた娘が、少しでも違う場所へ置かれるということは、それだけで人の目の色を変える。
「今後は、控えの間まわりの花と香の見回りに加え、上役女中の補佐につきなさい」
「……わたくしが、でございますか」
思わずそう問うてしまい、しまった、と胸の中で思った。
だが春日局さまは咎めず、淡々と頷かれた。
「ええ。あなたの見方がどこまで使えるか、近くで見ます」
近くで見ます。
その言葉が、嬉しいとも怖いともつかぬ重みで胸へ落ちる。
春日局さまご自身にそう言われて、平然としていられる娘がいるだろうか。
「ありがたき幸せにございます」
どうにかそう答えると、春日局さまはほんのわずかに目を細められた。
「幸せかどうかは、これから次第です」
「……はい」
「上へ近づけば、足元を払おうとする者は増える。今まで以上に」
「承知しております」
「本当に?」
その問いに、わたしは少しだけ息を詰めた。
「承知しているつもりでおります」
「その“つもり”を、現実に変えなさい」
春日局さまの声は揺れなかった。
「あなたを面白く思わぬ者はすでにいる。ですが、それで怯えて縮んでいては、昨日までと同じです」
「はい」
「だからといって、背伸びもいけません。慎みを失えば、こちらで切ります」
「……はい」
その一言で、自分がいま褒められているのではなく、“試しの場へ移される”のだと、はっきりわかった。
春日局さまはわたしを評価してくださった。
けれど、それは庇護ではない。
むしろ、もっと厳しい場所で見極めるための移動だ。
「もう下がってよろしい」
「はい」
「志乃」
「はい」
「よく見ている娘ほど、見るべきでないものまで見てしまうことがあります」
「……」
「それでも目を曇らせぬように」
最後のその言葉は、命令というより、どこか深いところへ残る釘のようだった。
「失礼いたします」
部屋を下がると、足の裏がふわふわするような感覚があった。
叱られた。
認められた。
配置を変えられた。
試される。
いくつもの意味が一度に胸へ落ちて、どれから受け止めればよいかわからない。
廊下で待っていた女中が、短く言う。
「こちらへ」
「はい」
連れられて行った先で、簡単な申し渡しがあった。
今後、わたしは控えの間まわりの見回りに加え、春日局さま付きに近い上役女中の補佐へ回ること。
主に花と香、そして細かな室内の気配りが中心となること。
雑務から完全に離れるわけではないが、立ち位置は確かに変わる。
それを聞きながら、胸の内では別の不安が膨らんでいた。
綾姫さまたちの顔が、目に浮かぶ。
この沙汰を知ったら、どう思うだろう。
いや、どう思うかなど、考えなくてもわかる。
部屋へ戻ると、お滝どのが珍しくわたしの顔を見て言った。
「……そういうことか」
「はい」
「春日局さま直々に?」
「配置換えの沙汰を」
お滝どのは短く息を吐いた。
「気の毒に」
思わず顔を上げてしまう。
「え?」
「喜ぶところでもあるがね」
お滝どのは眉ひとつ動かさない。
「下の雑務だけで終わらずに済んだ。だが、それだけ目も増える。敵も増える」
「……はい」
「わたしの手を離れる分、もう甘やかしてはやれないよ」
「元より甘やかされてはおりません」
そう答えると、お滝どのの口元がほんの一瞬だけ動いた。
「口は少し回るようになったね」
「申し訳ございません」
「謝るな。そういうところだ」
そのやりとりのあと、雪江と顔を合わせたのは昼の休憩だった。
彼女はわたしの顔を見るなり、ただならぬものを察したらしい。
「何があったの」
「春日局さまに」
「うん」
「配置を変えられた」
雪江の箸が止まる。
「……本気で?」
「はい」
「どこへ」
「上役女中の補佐に近いところ」
「……」
「雪江?」
「ちょっと待って。驚く時間をちょうだい」
そう言って彼女は額に手を当てた。
「それ、かなり大きいわよ」
「そうなのでしょうね」
「自覚が薄い!」
雪江が思わず声をひそめつつも強く言う。
「あなた、昨日までとは比べものにならないくらい目立つわよ、これから」
「ええ」
「綾姫さまたち、絶対に面白くない」
「……でしょうね」
お絹は顔を青くしている。
「だ、だいじょうぶでしょうか」
「だいじょうぶじゃないでしょうね」
雪江はきっぱり言った。
「でも、ここで“嫌です”なんて言える話でもない」
「はい」
「なら、やるしかない」
そして少しだけ目を細める。
「でも」
「でも?」
「少し悔しい」
「悔しい?」
「だって、同室だった娘が、先に上へ近づくのよ」
その言葉に、わたしは息を呑んだ。
嫌味ではない。
雪江は本音をそのまま言っているだけだ。
「……ごめんなさい」
「謝らないでよ」
雪江はすぐにそう返した。
「悔しいけど、あなたが取ったものなのもわかる。だから余計に悔しいの」
そう言ってから、ふっと笑う。
「でも、たぶんそれが正しい悔しさなんでしょうね。この大奥では」
午後からは、早速新しい持ち場の細かな申し渡しが始まった。
花器の位置。
香具の扱い。
上役女中の動きに合わせた準備。
どれもこれまでの雑務と地続きではあるが、求められる精度が一段違う。
ただ手を動かすだけでは足りない。
その場の空気と、人の心の向きを読まねばならない。
そして当然のように、視線も痛いほど増えた。
廊下の向こうで綾姫さまとすれ違ったとき、彼女はいつものように美しく笑った。
だが、今日の笑みは、花びらの下に刃を隠すことをまるで隠していなかった。
「志乃さん」
「はい」
「春日局さまのお気に入りになられたのね」
言葉はやわらかい。
だが、そのやわらかさが凍るほど冷たい。
「そのようなことはございません」
「まあ、謙遜なさらなくても」
綾姫さまは袖口をそっと撫でた。
「下の娘が、こうも早く上役の近くへ上がるなんて、誰にでもあることではありませんもの」
「わたくしは、ただお役目を」
「そう。役目を」
綾姫さまの目が、細くなる。
「役目だけで、ここまで来られる方ばかりなら、ずいぶんと公平な大奥になるのでしょうね」
その言葉に、背筋がひやりとした。
これはもう、ただの嫌味ではない。
綾姫さまは、自分の不快を隠す段階を少し越えたのだ。
けれど、ここでわたしが熱くなれば負ける。
春日局さまがおっしゃった通りだ。
慎みを失えば、それまでである。
「わたくしには、まだ下で学ぶことばかりにございます」
そう答えると、綾姫さまはしばらくわたしの顔を見た。
その沈黙は、笑みよりもずっと怖かった。
「そう」
やがて彼女は微笑んだ。
「では、せいぜい足元にお気をつけなさいな。少し高いところへ上がった花ほど、落ちたときに目立ちますもの」
去っていく後ろ姿を見送りながら、わたしは胸の中でその言葉を受け止めた。
たしかにその通りだ。
上へ近づくということは、落ちたときの音も大きくなるということだ。
夜、布団へ入ってからも、今日一日のことが何度も頭を巡った。
春日局さまの目。
配置換えの沙汰。
お滝どのの「気の毒に」という言葉。
雪江の「悔しい」。
綾姫さまの冷えた笑み。
嬉しいのか。
怖いのか。
そのどちらもだった。
下の雑務だけで終わらぬかもしれない。
それは、たしかに一歩前へ出たことだ。
けれど、その一歩は、花道ではなく、もっと細い板の上へ足を乗せることでもある。
春日局、娘を試す。
まさにその通りなのだろう。
引き上げられたのではない。
試される場へ移されたのだ。
それでも――。
布団の中で、わたしはそっと両手を重ねた。
昨日までのわたしなら、ここで怯えて縮こまるばかりだったかもしれない。
でも今は、怖くても、試されるなら受けて立ちたいと思う。
ここで折れたくない。
見ているだけでなく、自分の見方を役に立てたい。
その願いが、野心なのか、ただの意地なのかはまだわからない。
けれど少なくとも、それはもう、ただ泣いて生き延びたいだけの願いではなかった。
大奥の夜は静かだ。
でもその静けさの下では、きっと誰もが次の一手を考えている。
わたしもまた、そのひとりになったのだと思いながら、ゆっくりと目を閉じた。




