第十二話 罪を着せるには、静かな朝がよい
朝は、あまりに静かだった。
昨日までのような、どこかざらついた囁きもない。
すれ違う女中や侍女たちの視線も、妙に落ち着いている。
それがかえって不気味だった。
大奥で人の悪意がもっともよく働くのは、騒がしい時ではない。
皆が忙しく目を配れぬ時でもない。
むしろ、何事もないように見える朝だ。
人が油断し、日常の皮をすんなりとかぶった頃合いに、静かに足元をすくう。
そんなやり口を、このところのわたしはもううっすらと学びつつあった。
帯を締め終えたとき、雪江がふとこちらを見た。
「今日は変ね」
「何が」
「空気」
雪江は鏡代わりの金具を伏せる。
「嫌な感じに静か。綾姫さま付きの侍女たちも、今日は変に愛想がいいし」
「愛想がいい?」
「そういう日はろくなことがないわ」
その言葉に、胸の内で小さく何かが鳴った。
理屈ではない。
ただ、わたしも同じものを感じていた。
お絹は不安そうに襟元を押さえている。
「な、何もなければいいのですが……」
「何もない日は、たぶんもう来ないわね」
雪江はさらりと言った。
「少なくとも、志乃の周りには」
否定できなかった。
朝の割り振りで、わたしはいつも通り控えの間の見回りと、帳場まわりの小物の運びを命じられた。
表向きは変わらない。
だが、お滝どのの目つきはいつもより少しだけ鋭い気がした。
「志乃」
「はい」
「今日は北寄りの控えにも入る。帳場から渡される包みは、その場で中身と柄まで読むんだよ」
「承知いたしました」
「それから」
お滝どのは一拍置く。
「少しでも妙だと思ったら、自分ひとりで抱え込むな」
「……はい」
「返事だけはいいね」
「はい」
その物言いに、わたしは少しだけ救われた。
お滝どのは多くを言わないが、少なくともこちらが何かを警戒していることを知っている。
そして、自分もまた、まったく何も感じていないわけではないのだろう。
午前のうちは、驚くほど何事もなかった。
帳場で包みを受け取る際も、柄と枚数をその場で読み上げる。
相手の女中も、もはやそれを止めようとはしない。
むしろ、「ええ、それでいいわ」と淡々と流す。
それがまた妙だった。
嫌味を言われるほうが、まだわかりやすい。
今日のように素直に通されると、かえって不安になる。
まるで、別のところで何かが待っているようで。
それは、昼前に現実になった。
南寄りの控えの間へ、小さな包みを届けるよう命じられたのである。
いつもなら裂地か小皿か、その程度の品だ。
今日も最初はそう思った。
帳場の女中が包みを差し出す。
「こちら、南の控えへ」
「恐れ入ります。中身を確認いたします」
わたしはいつもの通り、布を開いた。
中には、三つ折りにされた布が一枚。
そして、小さな香袋がひとつ。
布のほうはごく普通の替え用に見えた。
香袋も、ぱっと見は何の変哲もない。
だが――ほんのわずかに、匂いが強い。
わたしは布を戻しながら、念のため尋ねた。
「こちらは、布一枚と香袋一つにございますね」
「そうよ」
「香袋もあわせて、お届けするのでしょうか」
「帳面にそう書いてあるわ」
女中は少しだけ面倒そうに言う。
「何かあるの?」
「いえ。確認だけでございます」
「そう。では早く」
わたしは包みを受け取り、胸の内に小さな引っかかりを残したまま廊下を進んだ。
香袋。
南の控え。
その取り合わせ自体は不自然ではない。
けれど、包みを渡すだけの用としては、香の匂いが妙に前へ出ている気がした。
ただの好みの問題かもしれない。
けれど、大奥では“気のせい”をそのまま流して痛い目を見ることが多い。
南の控えの前へ着き、わたしは膝を折った。
「帳場より、お届けにございます」
中にいた女中が顔を上げる。
「置いてちょうだい」
「恐れ入ります。布一枚、香袋一つにございます。ご確認を」
女中は少しだけ眉を上げたが、包みを受け取って開いた。
その瞬間である。
「あら」
女中の顔が変わった。
わたしの胸の奥が、冷たく縮む。
「どうかなさいましたか」
女中は無言で布を広げた。
そこには、ごく細いが、見慣れぬ文様が染められていた。
いや、見慣れぬのではない。
このところ、大奥の女たちの会話の端々で「それは使う場を違えてはいけない」と聞かされてきた類の、禁忌に近い柄だった。
しかも香袋の匂いも、控えの間に置くには強すぎる。
「これを、帳場から?」
女中の声は穏やかだった。
穏やかすぎて、余計に怖い。
「はい」
「……そう」
彼女は布と香袋を見下ろし、それからわたしを見た。
その目には、もう昨日までのような様子見はなかった。
面倒ごとの中心にいる娘を見る目だった。
「志乃」
「はい」
「これは、あなたの手で違えていない?」
きた。
胸の内で、そう思った。
これまでの帳面や裂地の件は、まだ曖昧さの中で揺らせるものだった。
だが今回は違う。
この布と香袋は、“持っていただけでまずい”とされかねない組み合わせだ。
罪を着せるなら、たしかにちょうどいい。
わたしは呼吸を整えた。
「帳場にて、中身の数は確認いたしました」
「柄までは?」
「……香袋の匂いに気を取られ、布の柄は細部まで見ておりません」
正直に答えるしかない。
そこで嘘をつけば、次の言葉を失う。
女中は低く息を吐いた。
「困るのよ、こういうのは」
「申し訳ございません」
「帳場に戻るわ。あなたも来なさい」
廊下を戻るあいだ、胸の鼓動がうるさいほどだった。
だが、頭のどこかは妙に澄んでいた。
まずい。
けれど、ここで慌てては終わる。
泣いても、取り乱しても、向こうの思う形になるだけだ。
帳場へ戻ると、さきほどの女中と、ほかに二人の年長の女中が呼ばれた。
空気が一気に重くなる。
たかが下の娘の包みひとつで、こうして複数が立ち会う――それ自体が、この件のまずさを物語っていた。
「これを志乃が持ってきたの」
南の控えの女中が包みを示す。
「柄が違うどころではありません」
帳場の女中は布を見て、目を細めた。
「……これは」
「香袋も強すぎます」
「誰が渡したの」
「わたくしが、帳場より受け取りました」
わたしは静かに言った。
「包みの中身は布一枚、香袋一つと確認いたしましたが、柄と香りの中身までは見きれませんでした」
そのとき、背後でひそかなざわめきが起きた。
いつの間にか、帳場の前に数人の女中や侍女が集まり始めている。
騒ぎは、あっという間に人を呼ぶ。
「では、あなたは何も知らずに持ってきたと」
年長の女中のひとりが問う。
「はい」
「誰が信じるかしらね」
別の女中が低く言った。
胸の奥が冷えた。
ここで“信じるかどうか”の話になると厄介だ。
証のない innocence は、この大奥ではあまり強い札にならない。
だが、お峯どのの言葉が脳裏に浮かぶ。
――謝るのは早い。本当におまえの手が悪かったのか、それとも別か。それも見きらないうちに謝っていてどうする。
わたしは包みを見た。
布。
香袋。
そして、その匂い。
ふと、違和感がはっきり形になった。
この香袋、包みの中で長く一緒に入っていた匂いではない。
布へ香りが浅くしか移っていない。
もし最初から同じ包みに入っていたなら、もっと布の繊維へ深く匂いが入るはずだ。
しかも、香袋そのものの結びが妙に新しい。
帳場で見たとき、ここまで強く香った記憶がないのも、そのせいかもしれない。
心臓が大きく鳴る。
いまなら、言える。
断定ではない。
だが、“ただ受け取っただけではない何か”を示せる。
「恐れ入ります」
わたしは頭を下げたまま、しかし声だけは崩さずに言った。
「わたくしが帳場にて包みを受け取った時点では、ここまで香りは立っておりませんでした」
女中たちの気配が変わる。
「何ですって」
「また人のせいにするつもり?」
鋭い声が飛ぶ。
だが、わたしは続けた。
「いえ、誰のせいとも申しません。ただ」
布を見つめる。
「この布には、香袋の匂いが浅くしか移っておりません。同じ包みにしばらく入っていたのであれば、もっと繊維まで移るはずにございます」
「……」
「また、香袋の結びも新しいように見えます。帳場にて受け取った折には、香りが前へ出すぎる印象はございませんでした」
年長の女中のひとりが、香袋を手に取った。
「たしかに……」
もうひとりが布へ顔を寄せる。
「匂いの乗りが浅いわね」
南の控えの女中がわたしを見る。
「あなた、そこまでわかるの」
「花と香が重なると、部屋の空気が乱れることがありますので……少しだけ」
静かな間が落ちた。
わたしは、ここが肝だと感じた。
相手を指さしてはいけない。
けれど、自分だけが黙って罪をかぶる形にもしてはならない。
「わたくしが不調法者であることは否めません」
そう前置く。
「ですので、柄まで見きらなかった落ち度はございます」
ざわめきが少し静まる。
自分の落ち度を先に認める。
それでいて、そこだけに話を閉じない。
「ですが、この香袋が帳場を出た後に包みへ入れられた可能性は、考えていただければと存じます」
女中たちの目が、一斉に包みへ落ちた。
そのときである。
廊下の向こうから、ぴんと張った気配が近づいてきた。
誰かが小さく息を呑む。
春日局さま。
名が呼ばれるより先に、それとわかる空気だった。
帳場の前にいた女たちが一斉に道をあける。
わたしも深く頭を垂れた。
絹の擦れる音が近づき、止まる。
「何の騒ぎです」
低く、よく通る声。
その一言で、帳場のざわめきは完全に消えた。
年長の女中がすぐに事情を説明する。
禁忌に近い柄の布。
強すぎる香袋。
それを志乃が南の控えへ運んだこと。
ただし、香袋は途中で入れられた可能性があると、本人が申していること。
説明が終わるまでのあいだ、わたしは頭を下げたまま、自分の鼓動だけを聞いていた。
ここで春日局さまがどう見るかで、この件の形は決まる。
信じていただけるか。
それとも、下の娘の言い逃れとして流されるか。
沈黙ののち、春日局さまの声が落ちた。
「志乃」
「……はい」
「顔を上げなさい」
わたしはゆっくり顔を上げた。
春日局さまの目は、いつも通り鋭く、静かだった。
そこに情けはない。
だが、先入観だけで人を切る目でもない。
「なぜ、香袋が後から入れられたと思うのです」
「匂いの移り方にございます」
わたしは声を震わせぬよう、ひとつひとつ言葉を置いた。
「布への香りが浅く、同じ包みにしばらく収まっていた気配がございません。また、帳場で受け取った時より、香りが前へ出ております」
「柄は」
「わたくしの落ち度にございます。柄まで見きらず、枚数と品だけで受け取りました」
「……」
「ただ、香袋については、帳場を出た時点の印象と異なります」
春日局さまは女中の手から香袋を受け取り、自らわずかに香りを確かめた。
その仕草は静かで、余計な動きがひとつもない。
続いて布へも目を落とす。
「たしかに、匂いは浅いですね」
その一言で、場の空気がまた変わった。
年長の女中たちの視線が、わたしから包みへ移る。
誰かひとりを責める空気から、“では、どこでそうなったのか”という空気へ変わっていく。
春日局さまは香袋を女中へ戻し、淡々と言った。
「帳場を出てから控えへ届くまで、誰の手を通ったか、順に確かめなさい」
「は」
「志乃」
「はい」
「あなたは柄を見きらなかった。そこは落ち度です」
「はい」
「ですが、そこでただ怯えて黙っていれば、自ら罪を引き受ける形になりましたよ」
胸の奥が、熱くなる。
「……はい」
「見たこと、感じたことを、順を立てて申したのはよい」
その言葉は褒めるというより、評する響きだった。
だが、それで十分だった。
「この件は預かります」
春日局さまがそう告げると、もう誰も余計なことは言えなかった。
帳場の前の女たちは一斉に頭を下げる。
わたしも深く平伏した。
春日局さまの足音が遠ざかるまで、誰一人動かなかった。
やがて気配が消えたあと、ようやく息が戻る。
帳場の女中たちの顔には、先ほどまでとは違う緊張が浮かんでいた。
わたしを責め立てる場ではなくなったのだ。
それでも、完全に晴れたわけではない。
柄を見きらなかった落ち度は残る。
だが少なくとも、“志乃が禁忌の品を持ち込んだ”という形で話が固まるのは避けられた。
その場を辞したあと、廊下の隅でお峯どのが待っていた。
「……やったね」
その一言は、珍しく少しだけ柔らかかった。
「恐れ入り、ます」
「まだ終わっちゃいないよ」
すぐに声はいつもの調子へ戻る。
「でも、今日は踏みとどまった」
「はい」
「覚えて、並べて、口にした。そうすれば空気は動く」
お峯どのはわたしを見た。
「よく泣かなかったね」
「泣きそうでは、ありました」
「だろうね」
その言葉に、なぜだか喉の奥が熱くなった。
夕方、部屋へ戻ると、雪江がこちらを見るなり立ち上がった。
「どうだったの」
「春日局さまが預かることに」
「……それは」
雪江は息を吐く。
「大きいわね」
お絹は目を丸くしている。
「は、春日局さまが……」
「ええ」
「だいじょうぶ、だったのですか」
「だいじょうぶ、かどうかはまだわからない」
わたしはゆっくりと帯を解いた。
「でも、黙って罪を着せられる形にはならなかった」
雪江が小さく頷く。
「それでいいのよ、今日は」
「今日は?」
「ええ。大奥で一度に全部勝とうとしたら、たぶん足をすくわれる」
雪江はいつになく真面目な声だった。
「今日は、“あの娘は黙って潰されるだけではない”って、周りに見せられた。それだけで十分」
その言葉を聞いて、ようやく肩の力が少し抜けた。
たしかにそうかもしれない。
鮮やかな逆転ではない。
誰かを言い負かしたわけでもない。
けれど、ただの泣き寝入りでは終わらなかった。
夜、布団へ入って目を閉じると、帳場の前の空気が何度もよみがえった。
禁忌の柄。
香袋の匂い。
女たちの視線。
春日局さまの、「順を立てて申したのはよい」という声。
罪を着せるには、静かな朝がよい。
でも、そこでただ黙っていれば、その静けさに呑まれてしまう。
見て、覚える。
並べる。
口にする。
いまのわたしにできるのは、たぶんそこまでだ。
けれど、そこまででもしなければ、何も守れない。
布団の中で、わたしは胸の前に手を重ねた。
わたしはまだ、下の娘にすぎない。
けれど今日、春日局さまの前で、自分の見たことを順に語れた。
それはたぶん、少しだけ“この檻の中で戦う娘”に近づいたということなのだろう。
その小さな手応えと、まだ消えぬ恐ろしさの両方を抱いたまま、わたしは静かに目を閉じた。




