第十一話 花が咲けば、踏みにじりたがる者がいる
翌朝、大奥の空気は静かだった。
静かすぎる、と言ったほうが近いかもしれない。
いつもなら廊下の端々にある、女たちの小さな囁きや、侍女たちの気配の揺れが、今日は妙に薄い。誰もが何かを知っていて、けれどあえて口にしない。そういうときの静けさだ。
わたしは障子越しの光を見つめながら、ゆっくりと息を整えた。
昨夜はなかなか寝つけなかった。家光公の顔、声、綾姫さまの冷えた笑み、それらが代わる代わる胸に浮かび、眠りの縁を何度も遠ざけたからだ。
将軍さまに名を問われた。
たったそれだけのこと。
けれど、この大奥では“たったそれだけ”が、人の見る目を変える。
雪江は帯を締め終え、こちらを見た。
「今日は覚悟しておいたほうがいいわ」
「何を」
「何を、って」
雪江は小さく肩をすくめた。
「もう噂になってるに決まってるでしょう」
「……そうでしょうね」
「“将軍さまがお言葉をかけた下の娘”」
その言い方に、わたしは思わず眉を寄せた。
「そこまで大げさに」
「大奥の噂なんて、いつだって事実の半歩先を走るのよ」
雪江は淡々と続ける。
「しかも今回は、春日局さまのひと枝の花の件もある。昨日の香の件もある。二度続けば、“偶然”より“何かありそう”のほうが好まれる」
「……」
「だから皆、今日のあなたを見に来る」
お絹が不安そうに指先をもじもじさせる。
「だ、だいじょうぶでしょうか」
「だいじょうぶにするしかないわね」
雪江が先に答えた。
「でも、露骨なことはされないと思う」
「どうして」
「露骨にやるには、少し注目されすぎたから」
雪江はわたしをまっすぐ見る。
「その代わり、もっと面倒なことになる」
もっと面倒。
その意味は、朝のうちにすぐわかった。
控えの間の見回りへ出ると、すれ違う女中たちの目が昨日までと少し違う。
あからさまではない。
立ち止まってひそひそ囁くわけでもない。
けれど、わたしが通ると、会話の切れ目が一拍だけずれる。視線が一度こちらへ流れて、すぐに戻る。
その一拍が、妙に冷たかった。
「おはようございます」
いつものように挨拶をしても、返ってくる声の温度が均一ではない。
そっけなくなる者。
逆に不自然なくらい柔らかくなる者。
どちらも、見られ方が変わった証だった。
花器の水を替えていると、背後で声がした。
「ほんとうに、あの子なの?」
「そうらしいわよ」
「将軍さまに?」
「香の件で、だとか」
「まあ……」
わざと聞かせる声ではない。
けれど、聞こえないようにもしていない。
わたしは手元を崩さないよう、水差しを傾けた。
聞こえている。
でも、振り向かない。
いまはまだ、それでよい。
次の控えの間へ向かう途中、綾姫さま付きの侍女たちとすれ違った。
そのうちのひとりが、これまで以上に整った笑みを浮かべて会釈する。
「志乃さん」
「はい」
「昨日はお忙しかったそうね」
「そのようなことは」
「まあ、謙遜なさらなくても」
侍女の目元が細くなる。
「将軍さまにお声をかけていただくなんて、誰にでもあることではありませんもの」
「わたくしから何か申し上げたわけではございません」
「ええ、存じていますわ」
侍女はやわらかく笑った。
「でも、人はそういうふうには見ませんでしょう?」
その一言が、胸へ静かに沈んだ。
そうなのだ。
実際に何があったかより、“どう見えるか”のほうが先に広がる。
それを侍女は、親切そうな顔をしてわざわざ教えてくれている。
「肝に銘じます」
そう答えると、侍女は満足げに頷いた。
「ええ、そうなさい。せっかくのお立場ですもの」
“せっかく”。
その言葉の中に含まれた棘を、わたしはきちんと感じ取っていた。
あなたは少し名を聞かれただけで、もう何かを得たように見られている。だから余計に、転べば面白い。
そういうことだ。
午前の半ば、帳場から呼ばれた。
この時点で、胸の奥が少しざわついた。
帳面や小物が動かされることで、これまで何度も嫌な目に遭ってきたからだ。
「志乃」
呼んだのは、帳場を預かる年長の女中だった。
「これを南の控えへ持っていって」
差し出されたのは、文様の細かな包み布だった。上等ではないが、下の者が気軽に触るには少し気を遣う品に見える。
「承知いたしました。中身をうかがってもよろしいでしょうか」
そう問うと、女中は一瞬だけ眉を上げた。
「確認するの?」
「わたくしが不調法者ゆえ、受け渡しの際に違えぬようにと」
「……ふうん。そう」
女中は包み布を開き、ちらりと中を見せた。
「替えの裂地よ。枚数は三」
「ありがとうございます。裂地、三枚、お預かりいたします」
「ええ」
数を言い、包みを受け取り、道中も手元から目を離さない。
昨日までの自分なら、それだけでひどく緊張しただろう。
けれど今日は違う。
緊張していても、やるべき形が先に身体にある。
南の控えの間へ着き、女中へ包みを渡す。
「帳場より、替えの裂地三枚にございます。ご確認をお願いできますか」
相手の女中は、ちらりとこちらを見る。
「ずいぶん丁寧なのね」
「不調法を重ねましたので」
「……ええ、そう聞いているわ」
その言い方で、胸がひやりとした。
そう聞いている。
つまり、やはり噂はすでに回っているのだ。
将軍さまに声をかけられたことだけではない。帳面の件、小皿の件、わたしの“うっかり”もまとめて広まっている。
女中が包みを開き、指先で裂地を数える。
「一、二、三……」
そして、少しだけ首を傾げた。
「あら」
心臓が跳ねた。
「どうかなさいましたか」
「これ、柄が違うわ」
「……え」
見せられた裂地のうち一枚が、たしかに他の二枚と文様が異なっていた。
帳場で中身を見せられたとき、わたしは“裂地が三枚ある”ことしか確認していない。柄まで揃っているかは見ていなかった。
「こちらで使うのは同柄三枚のはずなのだけれど」
女中は冷たくは言わない。
だが、その穏やかさが逆に怖い。
「帳場からそう渡されましたか」
「はい。帳場にて枚数を確認し、そのまま」
「そう」
女中は裂地を畳み直す。
「では、帳場で違えたのかしらね」
その言い方が、ほんの少しだけ引っかかった。
帳場で違えた。
そう言っているのに、その目はわたしの手元を見ている。
わたしは頭を下げた。
「わたくしから帳場へ戻し、確認いたします」
「ええ、お願い」
包みを受け取り、廊下へ戻る。
足は乱さない。
だが胸の内では、いやな予感が膨らんでいた。
帳場へ戻ると、先ほどの年長の女中がこちらを見た。
「どうしたの」
「裂地のうち一枚、柄が異なっておりました」
「柄が?」
女中は包みを受け取り、開いて確かめる。
「……ほんとうね」
その顔に、驚きはあった。
だが一瞬だけ、別の何かも混じったように見えた。
呆れ、というより、“やっぱり何か起きたか”というような。
「帳場で違えたのでしょうか」
わたしは静かに問うた。
「さあね」
女中は包みを見下ろしたまま言う。
「でも、あなたが途中で替えられたとも言えるわ」
その言葉に、胸の芯がひやりとした。
露骨な言いがかりではない。
ただ可能性として並べているだけ。
だが、その“可能性”の向きが、わたしへ向けられていることが問題なのだ。
「帳場で包みを受け取った際、枚数のみ確認いたしました」
「柄は見ていない、と」
「はい」
「なら、どちらとも言えないわね」
そのとき、背後で誰かが小さく息を洩らした。
振り向くと、綾姫さま付きの侍女が帳場の入口に立っていた。用があって立ち寄っただけのような顔をしている。
だが、その口元には、ごく薄く笑みがあった。
胸の奥で、何かがすっと冷えた。
これだ。
これが“本格的な排除”なのだ。
なくしものや小皿の件のように、こちらの手元を曖昧に崩すだけではない。
今度は、“この娘は少し目をかけられたように見えるが、実のところこういうところが危ういのだ”と周りに思わせるための揺さぶり。
失脚させるとまでは言わぬにせよ、信用をつける前にその足元を濁らせようとしている。
わたしは深く息を吸った。
ここで焦れば、向こうの思うつぼだ。
「恐れ入ります」
わたしは女中へ向かって頭を下げた。
「帳場で違えたのか、わたくしの手で違えたのか、いまは申し上げられません」
年長の女中が目を細める。
「……」
「ただ、次よりは枚数だけでなく柄まで、その場で読み上げてお預かりいたします」
侍女の気配がぴくりと動くのがわかった。
「また、今回のように途中で違いが出ぬよう、必要であれば受け渡しの前に包みを開き、ご一緒に確認をお願いしたく存じます」
女中は少し黙り、それから鼻を鳴らすように言った。
「ずいぶんと用心深いこと」
「ご迷惑を重ねましたので」
「……そう」
彼女は包みを畳み直し、脇へ置いた。
「では次からそうしなさい。今回は帳場で改めて揃えるわ」
「ありがとうございます」
「礼を言うところかしら」
「次から違えぬようにする機をいただきましたので」
その瞬間、侍女の視線が少しだけ強くなった気がした。
たぶん、向こうはもっと簡単に“またあの娘が”という空気へ持っていきたかったのだろう。
けれど、いまの返しなら、少なくともその場でこちらだけが泥をかぶる形にはなりにくい。
帳場を出たところで、廊下の柱の陰から雪江が出てきた。
「……見ていたわ」
「聞こえていた?」
「ええ」
雪江は低く言う。
「今の、うまくかわした」
「かわした、というほどでは」
「いいえ、かわしたのよ」
雪江の目は真剣だった。
「“わたしではありません”と証もなく言えば終わってた。でも、何も言わなければ“やっぱり危ない娘”で終わってた」
「……」
「今のは、その間を通したの。相手に恥をかかせず、自分だけも沈まないように」
わたしは小さく息を吐いた。
「怖かった」
「でしょうね」
雪江は少しだけ口元を緩めた。
「でも、ちゃんと立ってた」
午後に入ってから、廊下の空気はいっそう冷えた。
露骨に何かを言ってくる者はいない。
だが、助けてくれそうな顔をする者も少ない。
皆が、少し距離を置いてこちらを見ている。
誰の側につくのが得か、まだ測っているのだろう。
その最中、例の花器を任せてくれる女中だけが、すれ違いざまに小さく言った。
「今の、悪くなかったわ」
「ありがとうございます」
「でも気をつけなさい。次はもっと巧く来るわよ」
「……はい」
「花が咲きそうになると、踏みにじりたがる者が必ずいるもの」
その言葉に、わたしは一瞬足を止めた。
「花、ですか」
「そう。目につくからよ」
女中は肩をすくめる。
「地面に紛れてるうちは見逃されても、咲いた途端に、誰かが手を出す」
その比喩は、妙に胸へ残った。
夜、部屋へ戻ると、お絹が真っ先に寄ってきた。
「きょ、今日のこと……聞きました」
「どこまで」
「つ、裂地の柄が違っていたと」
「ええ」
「だ、だいじょうぶだったのですか」
「だいじょうぶというより」
わたしはゆっくり帯を解く。
「“次からはそうする”という形に持っていけただけ」
雪江が後ろから言った。
「それで十分よ。今日のところは」
「でも、怖かったです」
お絹が青い顔で言う。
「もし、もっと強く疑われたら」
「そのときは、そのときよ」
雪江は平然としている。
「ただ、志乃は前より少しうまくなった。前なら、謝って終わってた」
「……かもしれない」
「でも今日は、謝りながらも、次の形を自分で出した」
雪江はわたしを見た。
「それ、大きいわよ」
大きい。
そうだろうか。
自分ではまだ、足元の細い板の上をどうにか踏み外さず歩いたにすぎぬ気がする。
けれど、その細い板を自分で見つけて渡ること自体が、この大奥では小さくないのかもしれない。
布団へ入って目を閉じると、帳場でのやり取りが何度も浮かんだ。
裂地の柄。
侍女の笑み。
雪江の「間を通した」という言葉。
花が咲けば、踏みにじりたがる者がいる。
その通りだ。
ほんの少し目に留まっただけで、こうも空気は変わる。
ならば、この先わたしがもっと何かを見られるようになれば、押し返してくる手ももっと増えるのだろう。
怖い。
けれど、黙って俯いていても、結局は同じように踏まれるのだと、もう知っている。
ならば、せめて踏まれる前に足場を固めたい。
せめて、誰かに“この娘はただ崩せるだけではない”と思わせたい。
それはまだ、ざまぁと呼べるほど鮮やかなものではない。
けれど、ここで生きる娘の反撃は、たぶんこうした小さな手当ての積み重ねから始まるのだろう。
花が咲けば、踏みにじりたがる者がいる。
でも、咲かなければ、そこにあることすら忘れられる。
だったらわたしは、忘れられるよりはましだと思いたい。
たとえ、少しずつでも。
その意地を胸に抱いたまま、わたしはゆっくりと眠りへ落ちていった。




